海の底に眠る約束

@ichiuuu

第1話






【海の底に眠る約束】

            宮一宇


――千年以上のはるか昔、確かにその島は在った――

美しい国であった。夢のように眩いばかりの城があって、城下は栄え富み、そこに住まう民たちはよく働きよく笑い、まさに天の国を思わせた。

西洋風にしつらえられた美と、南国風のおうようさ、明るさが街の中に上手に織り込まれていた。


今はもう、海の底に滅び去った国を惜しんでこんな歌が伝わっている。


海の楽園


 かの地は今は美しく艶やかに咲き誇っているのであろう。


あの地でしか色づかぬ薔薇のその紅の深さは、かの地で笑う君の唇となんと酷似して。


あの地でしか見られぬ紺碧の空は、水平線でまじりあうその海の色は、なんと君の瞳を思わせることか。


嗚呼、素晴らしきこの世の楽園。そこを知れば世に生けるものはすべて、潮に引きずられるように楽園に足を運ぶのだろう。


あの夜の絶望! 


 ああ、けれどかの地は、

今や海の藻屑となりはて、あわれ

多くの民をみちづれに、女神の怒りをかったとし、贖罪をうたい海の底へ滅び去っていった。



 嗚呼、海の底に沈む君よ、その魂を呼び寄せられ給え!

 今一度ぼくらはここで会えるだろうか。



千年よりさらに昔、今は海の底に沈む島に物語があった。この世の楽園のような、と謳われたその島の名はメダイア王国。名の由来は、島に代々伝わる神話の女神の名ゆえだという。女神メダイアは大層美しく高貴であったが、悋気を起こしやすく、その上ひどく寂しがり屋という伝承もあって、寂しがり屋な彼女を一人きりにして、怒りを買わないように、この島には贄を捧げる儀式があった。身の穢れを知らぬ美しい乙女を、見るも無残な姿に変じさせて殺す。すると、自分より劣ったものがきて孤独を薄め、いい気分になった女神は再び、歓喜の雨をもたらすとも。つまりは干ばつが起きると誰かが絶対的に犠牲にならなくてはならないのだった。

その伝承を王女マリアが初めて聞いたのは、乳母よりであった。御年十一歳の美しき乙女は、常日頃この島におわする女神の伝説に、よい気持ちを持っていなかった。贄の伝説や、それを欲する神への妄信などの話を聞くと、胸騒ぎがするほどであった。

(本当に、メダイアは自分より劣ったものを捧げられて、歓喜の涙をこぼしたのだろうか)

ある日などは、海の見える丘の上の城にて、海風のなかバルコニーを歩き、そんなことを考えた。

馬鹿な神官の申すように、本当にメダイアの歓喜の涙が雨となって、民に潤いをもたらすのか。

(いや、そうではないのだろう。あるいは)

王女はふと、空をあおいだ。メダイアは一体、この紺碧の空のどこにおわすのか。

(メダイアは自分に哀れな娘が捧げられたのを、悲しんでいるのかもしれない)

 それでも、彼女は王女であった。それも力なき。絶大な力を持つ神官の定めたことに、口出しを許される立場でもなく。ただただ、雨の降らぬ年に、死にゆく乙女のことを考え、胸を痛めることしか、許されなかった。


狭い鳥籠のような王宮。十二歳になったマリアはそこから抜け出すために、幼い頃より様々策を弄した。ある時は異国の言葉を学ぶ言語学の時間であったのに、突然倒れて暴れて離宮に逃げ込んだ時や、逃げて、城下街で庶民と並んでメダイア伝説の紙芝居を見たりした時もあった。

 ――その日も、マリアはマリア付教育係の目を欺いて、海近くの森深い丘に逃げ込んだ。むろん一人で逃げたのだから、おつきも近習も誰もいない。

森は案外深かった。枝を踏んでは空を見上げる。空には森が黒々と手足を伸ばしていた。

次第にマリアの胸には恐怖が募った。つらい現実から逃げ切るためにここに来たが、どうしよう、ここから無事出られるであろうか。奇怪な声で叫ぶ南鳥たち。一人で森に入ったことのないマリアは、泣きそうになった。そんな時。

「そこで何をしている!!」

と、怒声に似た声音が響いた。マリアはびくっと脅えてしまって、声も出ない。向こうから走ってこちらへくるのは、白い肌に金の瞳を宿した、白馬にまたがった美しい青年だった。

「こんなところで何をやっているんだあんた。ここはメダイアの呪いの森だ。これ以上いると、呪いをもらうぞ」

その見目美しい青年の、あまりに整った顔に魅入られたか、マリアはしばし動けなかった。

「おい、聞いているのか。そこにいると危ないと……おい」

荒い言葉遣いも、今のマリアには大きな問題ではない。ただ、誰かが、来てくれた。ここから出してくれる。

ようやく誰かと一緒に森を抜けられると思うと、安堵の涙が溢れてきた。慌てて青年が馬を降りる。

「お、おい。泣くなって、馬鹿! 俺が悪いことしたみたいだろうが。頼むから二十三のおっさんを、愛らしい娘をいじめた悪者にしないでくれよ」

 おどけて言うこの青年を、マリアは少しだけ、可愛く思った。男が手を差し出した。この手をとれ、というのだろう。

「ったく、とにかくこの森は危険だ。早く離れないと……というかお前さんは何でこんなところに入った?」

ゆったりと馬の蹄とともに歩き出すふたり。

マリアがハンカチで涙をぬぐいぬぐい、話し始める。

「私、逃げてきたの」

「は、はい?」

「お義母様がイヴァ語を習えってうるさいの。私はそんなことしたくないのに」

はん、と男が笑った。

「いいじゃねえか、減るもんじゃないし。俺には、金持ちのお嬢様の、幸福な悩みなような気がするがね」

 これに姫が首を振った。

「違うわ。母は、イヴァ王国の六十のおじいさんに私を嫁にいかせようとしているのよ」

「はあ?」

 男が美しい顔を少し、しかめた。男はそれからしばし姫を見やって、その胸の国章である野薔薇のブローチに気付いたのだろう。うやうやしく腰をさげ、悔悟の表情で顔をうつむけた。

「申し訳ございません!! 国王陛下が第三子、マリア姫だとはつゆ知らず、私の数々のご無礼をお許しくださいませ! 」

苦笑した姫が男のその手をとる。

「いいのよ、それよりその丁寧でお優しーい言葉遣いを改めて頂戴」

「はっ。申し訳ございません。この国立騎士団員アラン・シヴェール、より正式な言葉遣いに正させて頂きたく存じますがっ」

「違うの」

 姫はにっこりと笑って、男アランの顔を覗きこんだ。

「お城にいる時はそれでいいわ。ただ、私、あなたが気に入ったのよ。粗野で乱暴で、私をただのお金持ちのお嬢さんという、あなたがね?」

「し、しかし……!」

 アランは困った顔になるが、姫はまるで意に介さない。

「いいでしょう。愛らしい娘さんの頼みを聞いて下さらないの。二十三歳のおじさま」

「……俺はおっさんじゃない」

「ほらきたわ! それよ」

 姫がくすくすと笑う。それは女神メダイアが思わず嫉妬しそうなほど愛らしく、咲き誇らん薔薇のようなあでやかさがあった。

それからアランとマリアは時々、こうして二人で会うようになった。

 二人はまことに仲がよかったが、それは十歳の年の離れもあり、兄と妹の域を出ないものであった。なにせマリアは王女である。万が一にも恋に落ちれば、悲惨な現実が待っているのは、若き二人にとて目に見えているだろう。

「ねえ、アラン、私の肌を見てくれない?」

マリアが十四歳になった時だったか。ある日、またメダイアの呪いの森のなか、二人は美しい泉の岸辺にて語らっていた。むろん、マリアは例にもれず、鮮やかに宮中から脱走したのである。

その折のこの一言であった。アランが口をあけはなしたのも道理だろう。それから打ち解けた二人のあいだに苦ではない沈黙が満ちる。

「マリア、俺にロリコンになれと?」

「違うわよ馬鹿。この変態。あなたになんて指一本触れさせないわよ」

「じゃあなんだ。さっき枝ぶりの激しい森を馬で駆けた時、まさか怪我でもさせたか?」

 アランの顔がにわかに曇る。王族を怪我させれば、焼き鏝の末車裂きである。マリアの口元に微笑が兆す。アランったら、逢瀬を重ねているのにそんなことを案じるなんて、怖がり! そうまで思って王女はくすと、笑みこぼした。逢瀬を重ねても、アランは決してキスをしてくれない。手すら握ってくれない。なのに、王宮から逃げる時に飛ばす、リボンを首に巻いた白鳩を見ると、すぐに白馬でこの森に駆けてきてくれる。

(私のことを、わがままな王女様だとしか思ってないんじゃないかしら)

 私はアランをこんなに好きなのに……。それは絶望的な恋であるとは知っていた。王の愛を奪った女の娘である自分に、恋愛結婚などあの義母が、あの王妃が許すはずはなかった。ましてあんなことがあったのに!

「……どうしても見て下さらないの? 」

「俺には、その美しい玉の肌を見ていい権利と身分がないんでね」

 これにマリアはふうと嘆息し。

「……もう玉の肌じゃなくなっちゃったのよ」

 そう言いながら、ドレスの裾をおもむろに持ち上げる。おい、馬鹿やめろって。そういうアランの唇が動きをとめた。

 マリアの美しい白い腿に、幾筋も切り傷が走っていた。むごたらしいまでに紅が映えて、騎士団のアランにはそれが故意のナイフによる傷だとすぐにわかった。

「なんてナイフで書いてあるかわかる? ペーゼ、愛人って書いてあるのよ」

「愛人……まさか」

 王妃が? アランが打ち沈んだ声音で問うと、マリアが寂しそうに笑った。

「このあいだ脱走した時、つかまって王宮に戻されたわよね。あの後、王妃が召使に命じてやれって傷を刻まれたの。本当は足の腱を切ってもう出れなくしてやりたいけれど、そうすると歩けなくなって嫁に出せないからって。わざと淡くひいてあるの。ひっつりにもならないように、ね」

「なんということを……」

 アランが苦痛に満ちた表情でマリアを見つめる。それからその絹糸のような金髪を撫でてやりながら。

「かわいそうに……痛くてつらかったろう。ひどいことをされた。よく耐えたなあ」

「仕方ないわ。私はあの人からしたら、にっくき愛人の娘ですもの。このあいだは、そのお綺麗な顔は、不幸な事故で亡くなったお母様ゆずりね、いつまでそんなに素敵なお顔でいられるんでしょうね、なんて冷笑を浮かべながら言われたわ。いずれこの顔も台無しにされるかもしれない」

「マリア……! なんてことだ」

 俺には何もしてやれないなんて、と苦悩するアランの頬に、マリアはキスを落とした。

「そうなっても、私のそばにいてくれる?」

 王とメイドの子であるマリアには、辛い現実が常につきまとって彼女を離さなかった。それで彼女は白鳩を放すのを合図に、アランと過ごす時間だけを楽しみにしているのだ。アランはマリアを初めて腕の中に入れた。マリアの胸は高鳴って、そのまま顔をもたげることさえできなかった。マリアはアランのかたい胸に息もあやうくなり、アランはマリアの女らしくなった柔らかい体に酩酊しそうになった。

そのうちに人の来る気配がして、二人は身を離した。

 それから五年もの月日が経った。

 男盛りのアランは、より一層美しくなった顔を険しくし、メダイアの眠るとされた山の道を降りていた。ふもとの村でマリアと待ち合わせである。蹄の音が重なるたび、物思いにとらわれる。

(いやな任務だった)

 いまや騎士団副団長にまで上り詰めた彼の今日の仕事は、メダイアに捧ぐ乙女を無事、贄の神殿まで送り届けることだった。すなわち乙女の顔の皮をはぎ、ずたずたにして、メダイアがもとにその命を捧ぐ、という儀式の行われる神殿まで、贄の乙女を連れ出す仕事。贄なるその乙女は毅然としていたが、やはり神殿に連れていかれる直前には恐ろしくなったらしく、

「あ……ごめんなさい」

と天をあおぎながら、失禁していた。親からメダイア様のところに行くことは、大変な誉なのだと聞いていたのに。「体はこんなに怖がっているの」うやうやしく女官に白地のドレスの染みをぬぐわれながら、贄の乙女はうなだれていた。

「でもよかった、これでよかったの。私が贄になれば、大好きなお父様とお母様に一生困らないほどのお金が届けられるんだもの」

 だけど……乙女はメダイアに捧げられる折の、白い美しいドレスを眺め、涙をこぼした。

「このドレス姿を、もっと父と母に喜んでもらいたかった」

 アランは神殿へと進む乙女を見送る際に、彼女がちらとこちらを向いて一礼したのがわかった。いかに優れた乙女であろうと、神官による託宣は絶対。

(だが、あまりにむごいことを……)

 アランは鬱々とした気分にかられて、森深い山のふもとへ急ぐ足を速めた。


ふもとの村に着く頃には、すっかりあたりには夜のとばりが落ちていた。村にはかがり火がたかれ、そこを着飾った男女が踊りながら過ぎては、かがり火の影までもが舞う。今日はこの村で信仰されている【満月】の祭りなのだ。祭りの日はみなみな盛装して、泉の付近で舞踏を繰り広げるのがならわしなのだ。

既に、冴え冴えとした月光の照らす地で、男女が軽やかに舞踏を楽しんでいる。アランが現れる。すると村の女子たちが、目を輝かせて一斉にアランに駆け寄る。

「アラン様、お久しぶりねえ。ねえ私と踊ってくださるでしょう」

「ねえ、いいでしょう」

 どの乙女も頬を紅潮させ、大層愛らしい。そこへちょうど、おしのびで逃げてきたマリアもやってきた。マリアはこの【男の取り合い】を演じる乙女たちを見て、大層面白く思ったようだ。いいぞもっとやれと、目を細めて眺めている。アランが見詰めると、

(私のことはいいから)

 といった風の瞳で首を振る。この上なく楽しそうに微笑みながら、どこか寂しそうに。

と、そこで村のおさが酒によったおぼつかない足取りで現れて。

「おお、なんだアラン、お前は三人もの女にとらわれているのか。ハンサムで剣技もうまく、高給取り、まあ女が惚れない訳はないわな」

と高笑いをした。この騒ぎを聞いた男女たちが集まり、アラン様は私のよ放しなさいよと、彼を物かのように引っ張る女どもを、男たちがげらげら笑っている。

「おい、この村の出世頭の色男! どうだい。そろそろ身を固めてみないか。俺の娘は美人だぞ」

「子供は可愛いぞ! お前もいい加減結婚しないと」

男たちの思わぬ攻勢に、アランはしかめつらになった。

「ねえアラン、私、アランとだったらそうなってもいいわ。ねえ」

 村のおなごたちが身を摺り寄せてアランにつきまとってくる。その隙をぬい、マリアが席を外し、かがり火の届かぬ森のうちに消え去った。

 マリアは一人ぽっち、だった。

(……わたくし、どうして、あの男を好きになってしまったのかしら。この恋には先などないというのに)

あたりは星が空にさんざめいて、泉はうまれては崩れ、また泉をなし光り、ヴィオラの音が残り香のように流れる。夢のように美しい時間だった。

「おい、マリア、ここにいたのか」

ふと、マリアの背後から男の声が聞こえた。

「なに怒っているんだ。別にお前がイライラする件でもないだろう」

白い騎士団の軍服を纏ったアランである。マリアは少し、顔を背ける。

「別に、怒ってはいないのよ。ただ、ただちょっとだけ思っただけ。とびきり悲しいことを。……アランは馬鹿だわ。私の気持ち、ちっともわかっていないのねって」

 そう言って姫は愛らしい大きな瞳を濡らして、告げた。

「自分の愛してやまない、そして決して結ばれない運命の男が、別な女をもらうように目の前で言われていたら。それを聞いてしまったら。どう思うか、お分かりにならないの?」

 アランがくすと微笑む。

「なんだ、すねているのか?」

「当たり前よ。あなたが悪いんだわ」

「ならお詫びの品をさしあげないとな。何がいい?」

 マリアは少し、頬を赤らめてうつむく。

「アランが、キス、してくれたら」

これにアランはすっかりマリアにまいってしまって、マリアの頬に手を置いた。

「正直ものには最高のものをさしあげような」

 そうして二人の唇が重ねられていく。アランの腕がマリアの背に回り、キスは濃厚に交わされていく。アランの手が、マリアのドレスの襟ぐりを少し、さげた。そうして腕をマリアの背の隅々まではわせる。

「あ、ダメよ……!」

 マリアが言っても、アランはにやりとしたまま、姫の細い体を撫でまわす。

「ダメだったら、ダメ……!」

「命令とあらばやめますが?」

 これを聞いたマリアは、心が高ぶるのをおさえかねて、彼の背に腕を回した。

「いや、続けて……」

アランがにやりと笑う。その時だった。

世界がぐらぐらと、煮たてられた鍋の果実のように踊り始めた。

「きゃああ!! 」

世界が果実だとしたら、人の強い力でもぎとられんとするような強い衝撃だった。

アランはマリアを抱き留めながら、ふと先に贄としてささげられた少女のことを思った。あの少女はあの後、顔の皮膚をとりさらわれて、手足も火傷させられ、とろかされたはずだ。その彼女を捧げたのにも関わらず、やはり女神の怒りはとけそうにないのか。ならば神官たちはこうも考えるであろう。やはりそのあたりのつまらぬ品のない少女より、優れた高貴な美しいものを供えるしかない。だが――そうなればきっと次に贄として狙われるのは――。アランの寂しげな顔に、マリアも我知らず打ち沈んでしまう。

 そこへ何も知らぬ執事が、姫を迎えに来たのを認めた。アランがマリアをぎゅうと抱きしめた。

「アラン」

「離したくない」

「でも、ダメ、よ。私はあくまで、王女なのですから」

その腕から外れて、マリアはドレスの乱れを直し、城の方角に帰っていった。その途中、何度も何度も、愛しき人を見返りながら。

 翌日、謁見の間に通された朝方、マリアの前に、ミンクをふんだんに使った派手なドレス姿の王妃が立った。黒い髪をきつく高く結わえた、厳しい表情の王妃。金塗の豪奢な謁見室を許され、粗末な白いドレス姿でマリアはその彼女に拝謁したのである。

美しいが目元の険しい王妃ジュリアは、姫を穢れたものを見るかのように見下ろし、それから言った。

「姫よ、はっきり申しておくわ。今、この国のために、贄が必要なことは紛れもない事実なの。だから、あなたにはこの国のために死んでほしいのよ」

 

 これには姫も絶句した。王妃が、メイドの子であった自分を疎んでいるのは知っていた。だからこそ、いつかは追い出したい対象ではあったろう。けれどこんな風に、死ねと言われるのは初めてだった。王妃はなおも、顔をかたくして微笑みのひとつもなく言葉を継ぐ。

「我が国は私の夫が亡くなってから凋落しています。民は貧しくなり、怒りは増大され、きっと内乱の種になりましょう。彼らはこう思っているのです。王族ばかりが甘い汁をすすっていると」

「……確かにその状況は聞き及んでおりますが、しかしそれと私が死ぬことが、どう関係しているのでしょうか」

 これにジュリアはふっと、口の端を上げて。

「民の増大する怒りをおさえる手立てはあります。あなたが生贄になるのですよ」

 マリアはまた言葉を失った。何、何を言っているの、この人……。

「あら、ご理解が遅いようね。つまりは王族の一員が、民の安心と平和のためにメダイアの贄になるのです。さすればみなみな涙を流して王室を讃えることになるでしょう。王の愛でし子が、民のために地獄の苦しみを味わい、命を散らす。よいシナリオではありませんか」

「そんな! 私とて民に尽くすつもりはあります! けれどそのようにむごい目に遭うのは耐えられそうにありません。お母様どうか」

「甘ったれないでくださる!?」

 王妃がまた険しい声と顔で、姫を委縮させる。

「あなたはもう十九年も、この王宮で気ままに遊んできたじゃないの。その遊ぶ費用はすべてどこから出ていますか? 民たちの税金よりなのですよ? それに報いて、王室を守る。それこそ姫のなすことではありませんか!」

 王妃の凄まじい剣幕に、震えあがる姫。それを謁見の間後ろに控えていた、警護の近衛兵たちはちらと一瞥し、囁き合った。

「王妃様もむごいことをなさる。自分たちが税金を湯水のように使っておきながら、いざとなると邪魔者だったマリア姫の命を使おうとなさる」

「ご自分にも娘などいくらもあるくせに、マリア姫が優しく聡明で美しいからと嫉妬して、ひどい目に遭わせようとなさるんだ」

 そこへ荒い足取りとともに、謁見の間に入ってきた男たちがある。白いローブを纏った賢者、つまりこの国の神官である。神官はうやうやしく書物をメダイアの像に向けて掲げ、そうして王妃とマリアへと言った。

「たった今、託宣が参りました。それによると、マリア姫を贄とすれば最近の地震も干ばつもおさまるであろう、とのことです」

 そう言って浅黒い肌をした神官は、王妃を一瞥した。王妃は口の端をくっと持ち上げる。

「そういうことです。残念でしたわね、姫。ですがこれも我が国のため、死んでくださるわね?」

姫はこの圧迫された環境の中で、なんとか逃れる手立てを考えていたが、見つからなかった。それに、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。今回の干ばつは非常にひどく、民も飢えている。贄も何人も捧げられているのに、まるで神の加護を受けることが出来ないとも聞く。このまま王宮にいても、いずれは難癖をつけられて殺される。ならば、ならば自分は民のために――いっそ。姫は一瞬頭をよぎったアランの影を捨て去り、首肯した。

「……この国の民を私は愛しています。その民を救うためであれば、私は……身を捨てましょう」

アランが仲のよい近衛兵から事の顛末を聞いた時は、すでに日は中天にあがり、姫の身柄が牢に通された時のことであった。アランは白馬を走らせ、姫がたった一人でいるであろう、薄暗い湿った、コケのはえた牢へと馬を駆った。

「姫、マリア姫!!」

 すでに姫は古びた石造りの牢の中にあった。円柱型の牢のなかで、窓は鉄格子の入った細長い一つだけ。アランはその窓に向けて思い切り声を発した。

「マリア、どうして、どうしてこんな……!」

「仕方が、ないのよ……民をみなを、誰よりあなたを守るためですもの……」

 そう言って姫は寂しそうに笑った。

「だからあなたは、もうすぐ死にゆく私を忘れて、誰か別な人と……」

「馬鹿っそんなこと出来る俺じゃないって、わかっているだろう? 俺にはお前しかいないって、何で分からないんだ!!」

 アランの顔は引きつって、今にも泣きそうである。それから何かを考え込んだそぶりを見せたかと思うと、ゆっくり立ち上がった。

「アラン……」

「……せめて、せめて一秒でも長くお前の顔が見ていられるように、この牢の番人になれるよう上に申し出るよ。俺の上役は俺を可愛がってくれている。そのくらいのことはたやすいはずだ」

こうして海風荒い牢の番人と哀れな姫は、贄になるまでの日々をともに過ごすことになる。

少し、また地が揺れて、乾ききった大地にひびが増えた。

島が海の底に沈むまで、あといくばくもない――。

 牢は石造りの塔のようになっている。いくら南方の島とはいえ、夜は冷え、姫はよく出血した。その世話すらアランがせねばならなかった。それも牢の中に立ち入ることは許されず、乾いた布を格子窓の隙間から入れてやるだけだった。愛する人が迫りくる死におびえながら弱っていく。その恐怖は絶望は、察するにあまりあるだろう。一度ならずアランは、彼女を殺してやり、自分も死のうと思ったこともある。けれどまこと底意地の悪い軍部は、事前にそれを防いでいた。

【なあ、アラン。お前の出身の村は綺麗な子が多いよなあ】

 軍部のひげ面でいつも緑の軍服を纏ってはふんぞり返っている連中が、そうやってアランを脅すのである。万が一の際は、村の民を殺す気でいるのだ。

(俺は、俺はどうしたら)

 アランは残酷なまでに青く清々しい空の下で、牢の近くにて花を摘みながら苦悩していた。俺はどうしたらいい。俺はあの姫に何をしてやれる。そうは考えても、結論として今は花を摘んで姫に捧ぐ事しかできない。

 赤い野薔薇はまこと今を盛りに咲き誇っていた。

(これを見れば、少しは姫の恐怖も薄まるかもしれない)

 アランは少しでも姫の絶望を取り払ってやりたく、せっせと薔薇を摘み、姫がもとに持ち込んだ。

鉄格子のはまった窓から見えた姫は、またげっそりしたように見えた。あわれに眼窩はくぼみ、頬はこけ――。アランは泣き叫べるのならそうしたかった。だが泣き叫んだところでメダイアの怒りは解けぬし、姫が不安がるだけだ。自分がしっかりしなくてはと、絶望をなんとかこらえた。

「姫、おはようございます。今日は野薔薇を摘んできましたよ。あなたに似合うと思って」

「まあ、ありがとう……少し気持ちが安らぐわ。さすが私のアランね」

 声も弱弱しく、姫は言って、愛らしく微笑んだ。赤い薔薇を窓の隙から受け取って、じっと見つめる。

「本当になんて綺麗な……あっ」

 姫がその折、小さく悲鳴をあげた。アランが驚いて、姫を見やる。姫の指に血がほんのり滲んでいた。

「申し訳ありません、姫! 今何か軟膏でも……!!」

 王族に血を流させることは重罪である。アランが顔をひきつらせながらこうべを垂れたが、姫は淡く笑うだけだ。

「気にすることはないわ。私は王族といっても、もうじき死ぬだけの命。だから軟膏ももういらないのよ」

 その笑みは春の淡雪のように、溶けて流れ去ってどこかにいってしまいそうで、アランはひどく胸をうがたれた。

「けれど、指をほんの少し傷つけられただけで、私のからだは痛みを知った……それが全身に及ぶのかと思うと……」

(姫……! )

 アランが絶句して、頭をおさえた。涙が止まらない。姫もまた、口角をあげながら涙をこぼしていた。二人は贄だった。あわれな小鳥のつがいの、贄。

姫の小さな、金の野薔薇のブローチだけが、勇ましく輝いていた。


そんなある日の朝、アランが野に咲くすみれを摘んでいた頃のこと。常は少人数しかいないこの寂れた塔の森に、にわかに軍人が姿を多く見せた。何か、あるのだろうか。アランはすみれを摘む手を休め、塔の姫の方角に向かった。

するとそこには、足元を汚さぬように馬車からレッドカーペットが敷かれており、姫のいる塔の窓まで続いていた。そのカーペットを優雅に歩んでくるのは――。

 神官と王妃であった。

姫は、出血で少し薄汚れた白いドレスの裾を広げ、二人に小さな声音で告げた。

「ごきげんよう……」

「あらごきげんよう姫。あなたは少しはごきげん麗しくなさそうで何よりだわ」

王妃はまるで勝ち誇ったかのように言った。その残酷さは、傲慢さは、取り巻きの外から見ていたアランが、思わず言葉をなくしたほどだ。姫はそれでも、王族の矜持をなくさず、しっかりと王妃、神官を見つめた。

「ああ、その眼よ!」

 王妃が顔をしかめて言い放った。

「その眼があの女にそっくりなんだわ! 私から王を奪ったあの女の眼に! ああ、憎らしい! たまらない!  ダメだわ。この姫の恋人をあえて番人にして、地獄の苦しみを味わわせてやろうと思ったのに、まだ足りぬとは。もっと苦しませてやらなくては」

 ぞっとするほど戦慄したのち、アランは体中から自分の温みが消えていくのを感じた。殺そう、こいつらを殺そう。恐ろしい感情が自分の内から兆してくるのを、ただ耐えるしかなかった。神官が滔々と述べる。

「贄はいよいよあさって、神殿に捧げられます。その際は眼を取り去り、首から血を流したままに唇をも取り去ります」

 ひっとさすがの姫も顔を青くしてふらついた。その花のかんばせがあわれに青く染まる。

ただただ嬉しそうなのは王妃だ。王妃は下女に命じ、あるものを持ってこさせた。

 鋏、である。

「もうじき贄になるあなたに、その美しい金の髪などいりませんわね?」

 姫は察したのか、牢の隅に逃げて小さくなった。

「い、いやっお許しをお母様っ」

けれど王妃はどこまでも追いかけてくる。牢の中に押し入り、姫の体を神官につかませ、金の美しい髪をざくざくと切っていく。

「いやっやめてええええ」

 これにはアランもさすがに耐えかねた。

(な、なんということを……!! あの姫に辱めを)

 アランはナイフを片手に、鞘をはらって牢へと急いだ。

「やめろ、やめてくれっ」

 アランが目を血走らせ、牢の中に無理に押し入る。既にそこでは、王妃が泣きじゃくる姫の髪を、両手にあまるほど掴んでいた。

「王妃、あなたは悪魔なのか……!!」

 アランは激怒しながら声荒く叫んだ。

「このあわれな姫を、さらに苦しめて何がしたいんだ!!」

「あら、わざとやっているのよ。お前を牢屋の番人にしてやったのも、姫のお美しい髪を切り取ってやったのも、全部わざと楽しいからそうしてやっているの。私が、地獄におちたあの女の苦しむ様を思い浮かべて、楽しいから」

 ほほほほ、高笑いしながら王妃と神官は去っていた。

夜がやってきた。

 二人はぼうっと月を見上げていた。塔の鉄格子から姫が。そのすぐ近くに、アランもいて、ぼうっと月を見ていた。また、少し地が揺れた。神は、メダイアは沈黙している。アランはこの世に生を受けた意味を見失いかけていた。自分は何のために生まれたんだろう? 愛する人を守ることも出来ず、ただ傷つけられる様を見ることしか許されず。ただ、羽をなくした小鳥のそばにいる。

「私はもう、空を飛ぶ羽をなくしてしまったのね」

 寂しそうに、マリアが呟いた。

「こんな尼僧みたいに髪を切られて……悲しいわ。心底……」

「姫……」

 お察しいたします、とアランが言いかけたのを、姫が首を振ってとどめた。

「違うの。髪を切られたのがすごく悲しいんじゃないのよ。ただ」

「ただ?」

 アランが小首をかしげる。月光に横顔を濡らされた姫が、愛らしく微笑する。

「アランは、こんな姿の私を、嫌いになってしまうだろうと、思って」

 アランは胸を杭で撃ち抜かれたように感じた。姫はそんなことを……。自分が己のしがらみによって苦しんでいるあいだにも、姫は恋人たる自分のことを思っていてくれた。そのことはどんな言葉より勲章より、アランには誇らしかった。

「姫……お願いが」

 アランが言いかけたその時、地鳴りがし、激しくあたりが揺れ始めた。

「きゃあ」

 姫が思わず床にのけぞって、アランが鉄格子に走り寄る。

「アラン、これは……!」

 少しもおさまらない激しい地揺れ。これは、女神の、凄まじい怒りのサインだ。

 そこで、いずこから湧き出たか神官が二人の眼前に立っていた。月光を背に、影を顔に宿して。

「お時間でございます」

 いよいよマリアはアランの手をとりながら、馬上にて神殿に向かった。神殿は白い柱がいくつも屹立し高い天井を支える、美しく荘厳な建造物だった。ガラス窓からは、街が見下ろせる。

 神殿の贄の間では、すでにあらゆる道具が揃えられ、後は姫のからだをメダイア好みに変えることが期されていた。

(なにがあっても)

 付き添いのアランは心中考えていた。

(姫は、姫だけは守ってあげたい。そしてそばにいたい)

「贄の血をこれに――!!」

 数十はいる神官がいっせいにメダイア聖書を読み上げる。

第一にメダイアへの愛を誓い、第二に、贄を屠ることを誓う。姫は白いドレスから赤いドレスを纏わされ、神殿の祭壇に手を組まされて寝かされた。

アラン……」

かすれた声で姫がその名を呼ぶ。

(このままでは姫が殺される――!! また、俺は何も出来ないのか)

 アランの顔が絶望で歪む。

ごおおっと凄まじい音が地をその時駆け抜けた。そうして今までで一番ひどい地揺れが、あたりを破壊せしめんと発生した。

「うわあああ」

「神殿が崩れるぞっ」

 神官たちが我さきにと逃げ始めた。地鳴りがひどく、悲鳴すらかき消される。ただただ世界の終わりの音楽が、すべてを打ち壊していくだけだ。

憲兵たちもあまりの地揺れに立っていられないほどだった。

 神殿が揺れる。崩れる。

「今だっ姫っ」

 アランは寝かされた姫の手をとって、一目散に駆けだした。今だ、今しかない。逃げて姫を守るには、今動くしか、ない。

「待てっ贄を捧げよっ」

 神官が叫ぶ間にも、神殿のフラスコ画の破片が彼らを押しつぶす。弓兵が出る。

「姫、走るんだ!!」

 アランは姫を抱きかかえながら、崩壊を始める神殿を駆け抜ける。後ろから弓が迫ってくる。

「う、うぐっ」

 そのうちの一本の矢が、アランの背に突き刺さった。

「アラン……!」

 姫が痛切な声をあげる。それでもランは走ることをやめなかった。神の沈黙も怒りも天罰も死も、もう怖くはない。この人と一緒なら。


凄まじい破壊音のユニゾンは島中を包んでゆく。丘の上からは島が地震で発生した火に、飲まれていく様が見てとれた。遠くで一番に炎の渦を描いているのは王城だろう。逃げまどっては、炎に絡めとられていく民を見つめ、姫が草原にてうなだれた。

「私が逃げたから、メダイアは天罰でこの島ごと滅ぼそうと思ったのかしら……」

「ご案じなさるな。天罰だとしたら、受けるのはこの俺だけで十分です」

 姫はこの一言に、ほんの少し頷いた。それからアランの手をとって、

「ありがとう」

と囁いた。

「一緒に地獄に落ちることが出来るのね」

とも。

 アランの息は荒い。背の傷は思ったより深いのだろう。弓矢にはたいてい毒が塗ってあるから、それも体をめぐっているのだろう。姫は弱っていくアランの頭を肩にのせ、抱き留めながら、小さく歌い出した。



 かの地は今は美しく艶やかに咲き誇っているのであろう。


あの地でしか色づかぬ薔薇のその紅の深さは、かの地で笑う君の唇となんと酷似して。


あの地でしか見られぬ紺碧の空は、水平線でまじりあうその海の色は、なんと君の瞳を思わせることか。


「いい、歌だ……」

アランが息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。姫がほんのりと笑う。

「昔、島から島へと流れてきた吟遊詩人が歌ったの」

 地揺れはとまらぬ。火は海が溢れだしたかのように島を包んでいく。この島はもうじき滅ぶ。メダイアの怒りによって、海の藻屑と消える。


「あなただけでも、逃してやりたかったが……」

 家々のあかりが炎に飲まれていくさなか、アランが言った。マリア姫の手をとって、野薔薇のブローチを見やる。

「私もあなたも逃げられなかったようだ」

「あなたも私から逃げられなかったわね」

 姫が愛らしく言ってのけるので、アランが苦笑した。

「そういえば、あの時言っていたお願いってなあに」

 ふふふ、と姫。アランも口角をあげる。

「あれは、生まれ変わったら、俺と結婚してくれ……と、言いたかった、んだ……」

 今生では無理だったな……すまん。

 そう言い残して、アランは眼を瞑った。静かに、息をすることもやめた。


 姫は一人になった。


姫はまだ歌っている。愛しきひとの亡骸を抱きながら、美しい声をふるって、涙をこぼしながら、歌い続けた。


 かの地滅びても、

愛は滅びぬ。

 

 姫は金のブローチを取って、なきがらの胸につけてやった。それは王族が結婚する際の儀式のひとつであった。

「私たち、いつまでも、一緒よね?」

 アランの死に顔は生気をなくしていくだけだったが、確かに一瞬、微笑んだように思った。


 やがて島は海の底にひきずりこまれ、滅び去った。



あの夜の絶望! 


 ああ、けれどかの地は、

今や海の藻屑となりはて、あわれ

多くの民をみちづれに、女神の怒りをかったとし、贖罪をうたい海の底へ滅び去っていった。



 嗚呼、海の底に沈む君よ、その魂を呼び寄せられ給え!

 今一度ぼくらはここで会えるだろうか。


 今、メダイアは大西洋のどこかに眠っていると聞く。

 姫のなきがらも、愛した城も民も、アランも、海底に眠る砂と化しているのであろう。旅人の私は二人の愛を伝承で聞き、あわれに思ってこの物語を書いた。

 姫は、アランは、この海のどこかで幸せに暮らしているだろう。あるいは生まれ変わって、どこかの地上で幸せに――。そしてあの金のブローチだけが、まだ海中の砂にいて、いずこにか埋まっている。

願わくば今生では、二人が結ばれますように。

 私はメダイアの沈んだ海を見ながら、そんなことを思った。

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海の底に眠る約束 @ichiuuu

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