戸惑いと彼の涙(1)

潮干狩りを終え、暫く海を眺めて座り込んでいた。

日も傾き出してから数時間が経ち、眩しかった太陽もあの丘の向こうに姿を隠し始めた。

日が傾いた事により幾分風が涼しくなった気がした。

その後、車の中に乗り込んだが、直ぐには車を出そうとはせずに暫く黙り込んでいた遥貴が、「やっぱり、もう一箇所行きたいところがあるんだけど…」と切り出した。

なのに、そう切り出したにも関わらずまた黙ってしまって、なにやら次の言葉を出すのに逡巡しているようだった。

どうしたのかしら。

沙羽は首を捻ると遥貴の顔を覗き込んだ。

「遥…くん?」

沙羽の声で我に帰った遥貴が「あ、ごめん。」と言ってそれに繋げた。

「実はここの近くに…身内の…墓があって。墓までは行くつもりはなかったんだけど、やっぱり行こうかなと思うんだけど…。」

「え?お墓?いいよ。私は構わないけど。」

「いや、だけど、墓参りまで付き合ってもらっても悪いしなと思って…。」

「え?そんな事気にしないで。私は全然構わないから。遥くんに付き合うよ。…あ、もしかして、私が行かない方が都合いい?」

沙羽が遥貴の顔を伺う。

「別にそういう訳じゃないけど。」

「じゃあ、行こう?線香とお花、買った方がいいね。」

そう言って笑う沙羽を見た遥貴が、ポケットからスマホを取り出すと、検索エンジンを開いて手を止めた。

「それじゃあ、取り敢えず線香だけ買って、墓参りは明日にして、この浅蜊をどうにかしない?」

「え?明日?どうにかって?」

「何処か料理ができて泊まれる所探した方がいいよね。近くにある民泊、探してみるか…」

遥貴がそう言いながら再び手を動かしてスマートフォンを操作しだすと、突然泊まる事に決まった事に驚いた沙羽が「泊まるの!?私、何も用意してない…」と困惑の色を浮かべる。

「いるものがあれば、買い物ついでに買え揃えればいいよ。」

スマートフォンの画面に注視しし、操作を続けながら遥貴がさらりと言うと、言葉を無くした沙羽が目を丸くして遥貴の横顔を見つめた。




ど、どうゆう事ーーーーー!!!!!??

沙羽は遥貴の気持ちがさっぱり理解できないでいた。

先程まで遥貴は機嫌を悪くしていたからだ。

なのにどういう訳か、逆に潮干狩りを楽しそうに見ていた沙羽の気を使い、潮干狩りをしようと言ったり、たとえそれが、実は遥貴自身が潮干狩りをしたかったとしても、その潮干狩りのお陰で気は紛れ、機嫌を立て直したとしても、それでも何処か遥貴との間に見えない壁のような物を感じてしまう沙羽にとって、この展開は予想できなかった。

それに、たとえ一度はあの日、あの雰囲気の流れで関係を持ったとしても、今はあの日と違って状況が状況なのだ。




ちょ、ちょっと待って、泊まりって無理でしょ、絶対!!

ダメよ!遥君だけど黒谷さんだし!

起きたら黒谷さんに戻っていたらどうするの!?

やだ!怖い!想像しただけでも最悪だわ!

それに、この遥君の身体は黒谷さんの身体だし!黒谷さんの彼女でもない私がどうこうできるものでもないのよ!

ど、どうこう…

……………

やだ、私ったら!物凄くリアルに、鮮明に、思い出しちゃった!

やだーー顔が熱いわ!どうしよう!

あの日のことを思い出しちゃった!

だけど。

思えばあの日…帰った時は…

ハル君だったのかしら………

……

…………やだ!勿論遥君に決まってるわ!

もーやだ、私ったら一瞬怖いこと想像しちゃった。

あの日帰った時も遥君に決まってるじゃない!

だって、黒谷さんが転属して来た時、初対面だって黒谷さん本人も言ってたんだもの。

もー本当やだー、私ったら!何考えてるの心臓に悪いわー!



「………どうしたの?何考えてるの?」

スマートフォンを手にした遥貴が、隣の助手席で胸に手を当て息を切らす沙羽に、微かに眉を寄せると首を傾けて尋ねた。

「え?あ!いえ…その…。」

先程まで青褪めた顔色をしていた沙羽が、今度は再び顔を赤らめると、その様子に遥貴は自分の顎に手を添えて思案顔を作り、まじまじと沙羽の顔を覗いた。

「体調悪い?さっきから顔色が定まってないけど…。今は赤いし…。熱?でも表情は…きつそうな訳でもなさそうだよね…。不安定だけどさっき一瞬にやけてたし…。気分はそんなに悪くなさそう…。」


私、にやけてたの!!そう思った沙羽の顔は益々赤くなり上気した。

「だだだ、大丈夫。なんでもないの!きっと昼間ちょっと暑かったからじゃないかしら!すぐ落ち着くから気にしないで!」

沙羽が熱の引かない自分の顔に戸惑いながらも、遥貴にどうにかそれで納得してもらう様に詭弁を並べた。

遥貴は更に首を捻ると、「そんなに暑かったっけ?だけど、その調子で夏になったらヤバいんじゃないの?大丈夫?」と沙羽に問い質した。

「うん、大丈夫。今日は少し寝不足もあったから、それでだと思うの!だから本当に大丈夫。ありがとう。」

ある意味、熱に中った事は事実だと、自分自身にも言い訳をしながら気遣ってくれた遥貴に礼を告げた。

「ま、それならいいんどけど…。で、ちょうど近くに空いてる民泊があったんどけど、ここでいいかな。早めに予定してればホテルとか旅館とか予約できたんだけど。急に気が変わって泊まる事になってしまって、なんか、悪いね。付き合わせて…。潮干狩りもしたのに。」

「悪いなんてそんな…。私は楽しいから…。」

「それなら良かった。だけど、ちょうど1DKのマンションで、キッチンもあるし、浅蜊、どうにか出来そうだね。」

「え?そうなの!良かった!遥君の手料理が食べられるのね!」

「あんたは、作らない気満々だな。」

遥貴は苦笑いを浮かべた。

「作る!作る!手伝います!だ、だけど、本当に泊まるの?」

沙羽が改めて確認をとると、遥貴が微かに目を細めて

「…そうだけど。泊まるの嫌だった?」と、沙羽に聞き返した。

遥貴にそう聞かれた沙羽は慌てて両手を胸の前で振り、返事を返した。

「嫌ではない…んだけど………。」

沙羽はそう言うと口籠って俯いた。

その様子を見た遥貴が「だって、また明日ここまで来るのも面倒でしょ。」と言う。

「そうだけど…。」

そう小さく呟いた沙羽が、暫く間をとって「だけど、いいのかな…と思って…。」と言うと、ちらりと遥貴の様子を伺った。

「え?いいって、なにが?」

遥貴が沙羽に聞き返して、沙羽は益々「その…」と口籠らせて黙り込んでしまった。

そして、暫くの間沈黙が続くと、痺れを切らすようにして遥貴がスマートフォンを操作しだして「もう、予約とってしまったから、取り敢えず行こ。あ、まず、買い物ね。」と言うと、徐にスマートフォンを蔵い、シートベルトを締めようとして手を止めた。

「…ほら、沙羽さんもシートベルト。」

遥貴は沙羽の座る助手席のシートベルトに手を伸ばすとカチャンと玲瓏な金属音を鳴らした。

遥貴の顔が一気に近くなった事で沙羽の胸の拍動は急激に強まった。

そして、ふわりと遥貴の髪からシャンプーや整髪料の匂いと、微かな香水の香りがして沙羽のその強まった拍動は沙羽に、緊張感を齎した。

「あ、ありがとう。」

僅かに声が上擦った事に、恥ずかしさが込み上げてくる。

その声で遥貴が顔を上げると、数秒の間、2人の視線が絡み合った。

そんな沙羽を至近距離で見つめたまま、目を細めて微笑んだ遥貴は、ゆっくりと前を向き居直ると、自身のシートベルトを閉めてからゆっくりと車を出した。


本当に泊まってしまって大丈夫なの?


沙羽は複雑な思いがした。

先程思い描いた、最悪な想像の続きを思い描いてみる。

朝起きて、遥貴の人格が黒谷に戻っていたら、一体どうなってしまうのだろうかと。

だが、想像力が豊かな方だと自負する沙羽であっても、とても想像の出来ることではなかった。

沙羽は俯き加減で目を閉じると、依然として高鳴っている自分の鼓動を宥めながら、先程鼻腔を擽ぐった遥貴から漂った香りを思い出し、やっぱり私は遥君が好きだわ…と、再確認をした。

横目で遥貴の顔を伺う。


たとえ黒谷さんの人格だとしても、遥君も私の事を好きだと思っても、いいのよね?


そう思いながら、沙羽の手は不安で震えていた。

「もうちょっと細かく切ってくれないかな。繋がってるんだけどここ。」

そう言って、切れていない浅葱の長い部分を摘みあげると、呆れた顔をして遥貴はそれを眺めた。

「どうやったら、こんな風に切れるんだ?」

「えー!切れてない?やだー本当だ!凄い!」

「いや、凄くないから、全然。」

「だ、だって、この包丁が切れ味悪すぎるのよ…きっと。」

そう弁解した沙羽だったが、再び呆れ顔をした遥貴に「さっき俺がトマト切ってた時、切れ味良かったのを目の前で見てたよね。」と、言われてしまって、反論する術もなくなってしまった。

「そうだっけ?」

沙羽が苦し紛れに笑って誤魔化した。

遥貴は溜息をつくと沙羽の方へ歩み寄った。

「え」

沙羽は短く小さな声をあげると息を飲み込んだ。

遥貴が沙羽の後ろに回ると、沙羽の後ろから包丁を握る沙羽の右手と、ぶらりと持て余してた左手を手に取ったからだ。

沙羽の背中に遥貴の体が当たり、急に沙羽の背中は熱を持ち始め、沙羽より頭一つ半分背の高い遥貴の顔が、すぐ近くにある事は、視線を向けなくても視界の端に大きく入り込んできて分かる。

遥貴は、緊張し過ぎて今にもその場にへたり込みそうな沙羽を他所に、「柔らかい葉物を切るときは…」と指導をし始めた。

「左手でしっかり優しく抑えて、指は丸めて内側…」

耳元にちょうど口があるのか、遥貴の声と一緒に漏れる息が沙羽の耳元を擽り、声と一緒に伝わる振動は、ダイレクトに沙羽の鼓膜を揺さぶった。

そのせいで更に沙羽の緊張感は強まっていく。

「え、こ、こう?」

「違う、もっと力抜いて。」

「え、力?」

戸惑い気味の沙羽が力を入れて作った左手の拳を、遥貴は解す様に沙羽の手を少しだけ広げると、「感覚的には…」と、続けた。

「手の平の中に卵一つある感じで空間を作ってやって、そうやって軽く指を立てて。俺は人差し指の関節の辺りを包丁の背に軽く添える感じでやってるけど。とにかく包丁は細かく上下に動かして、切る時は包丁を押しながら切る。上下の動きだけで切ろうとしない。分かった?」

すぐそこにある遥貴の顔が、視線が、自分の方に向けられた事が気配で分かった。

「…分かった。」

遥貴の顔を見る事は出来なかった。

自分でも赤面してる事は、耳まで熱を持ってる事で容易に解る。

こんな事くらいで赤くなってると遥貴に悟られたくなかったのだ。


一応、包丁の使い方くらいは分かってるんだけどな…

わざわざ手を取ってまで教えてくれなくても…


「じゃ、がんばって。ネギと、後唐辛子だけだから簡単でしょ。俺はこっちやってるから。」

「わ、分かった。頑張ります。」

沙羽はそう言うと、火をつけた鍋の蓋を取り、鍋の中を覗いて確認をする遥貴の様子を、ちらりと視線だけを動かして一瞥した。

「遥くんは、お料理が好きなの?」

「まぁ、好きな方かな。割とね。余計な事を考えなくて済むし。上手く出来た時はそれなりの達成感と満足感があるしね。」

「そうなのね。確かに、気分もお腹も満足できていいかもね!これからお料理、本格的に頑張ろうかしら。」

浅葱を切り終えると、沙羽は唐辛子を輪切りにしながら「遥くんはよく料理してるみたいだけど、お仕事で疲れた時なんかも料理するの?」と訪ねた。

「疲れてる時は流石にしない。肉も切りたくない時もあるしね。」

「そんなに?」

沙羽が驚いて更に尋ねると遥貴はそれに答えたが、「まあね、オ…」と、急に言葉を詰まらせて口を閉ざした。

沙羽が遥貴の方を見ると、首を傾げて「お?」と鸚鵡返しをすると遥貴の次の言葉を促した。

「あ、いや、なんでもない。疲れてる時はほら、なんて言うか、胃も疲れてるから肉を見るだけで胃がもたれた感じがすると言うか…」

遥貴はそう言って苦笑いを浮かべた。

そして、熱したフライパンにオリーブオイルを少量注ぐと、ガーリックを投入した。

ジュワッと微かに音を立てると徐々に食欲をそそる香りが部屋に漂い出す。

「そんなに胃の調子が悪くなるくらい仕事でストレス感じてるの?」

沙羽が心配そうな顔をして遥貴の顔を覗いた。

遥貴の就いてる事になってる仕事とは、一体どんな仕事だと言うのだろうか…。

沙羽はそう思うと、遥貴の職について、踏み込んだ質問をしても良いものなのかと躊躇した。


『そう言えば、遥君はなんの仕事してるの?』


そう聞いてみたい気持ちと、触れないでそっとしておいた方が良いのではと言う気持ちが、沙羽の中で葛藤を繰り広げる。

「……まぁね。色んな客が…いるからかな……。その唐辛子ちょうだい。」

「あ、はい、どうぞ。」

沙羽は差し出された遥貴の手に、切り終えた唐辛子の入った小皿を手渡した。

フライパンに輪切りにされた唐辛子が数個入った。

「良い香りがするね。お腹も空いてきちゃった。」

部屋に漂う香りを嗅いでそう言うと、沙羽が「色んな客?」と、疑問符をつけて言葉を繋げた。

そして、ついに沙羽の中で問い質したい気持ちが優ってしまって、唾を飲む。

再び口を開いたのも沙羽だった。

「遥君って、えっと、な、なんの仕事…やってるの?そう言えば聞いてなかったよね?」

思い切って聞いてみた。

「あぁ、うん。まあ、そう言えばそうかもね。………。」

そう言った遥貴は、何故か再び口を閉ざしてしまった。

沙羽は首を捻って遥貴を見つめた。

どのくらい沈黙が続いただろうか。

遥貴が徐ろに溜息をつくと、「客っていうか。」と言って俯いた顔を上げた。

そして沙羽の方へ視線を向けて、「…ごめん、本当の事言えば、患者。」と、沙羽を見つめたまま答えた。

「え?患者…?」

「そう。外科医なんだ…。」

遥貴はまた溜息をついて、フライパンに今日取ったばかりの浅蜊を入れると、フライパンから一気に水を弾く音がした。

遥貴が素早く蓋をする。

「外科医?お医者さんなの?」

意外な返答に驚いた沙羽が聞き返した。

「そう。ま、信じるのも信じないのも沙羽さんの自由だけど。」

遥貴がそう言うと、沙羽はハッとして「信じるわ!信じるに決まってるじゃない!」と言った。

そして、「だって、疑う、理由がないでしょ…?」と続けて、遥貴の顔を覗き込む。

「………まあ、ね。」

そう言った遥貴は俯くようにフライパンを眺めていた。

沙羽は、本当のことを言っても私が信じてくれないと思ったから、初めお客って言って誤魔化そうとしていたのかしら…。と、思った。

「大丈夫。私は、遥君の事何があっても信じるから、大丈夫。だから、私の事も信じていいからね。」

そう言って沙羽は、遥貴の横顔に微笑んだ。

遥貴はちらりと沙羽の方を一瞥すると、微笑む沙羽を暫く見つめて、また視線を元に戻した。

鍋で沸かしていたお湯の中に塩とパスタを入れながら、「あんた…、あ、ごめん、沙羽さんは、笑うと顔が余計丸くなるね。」と、言ってふっと微笑を浮かべる。

「え?ま、まるい?」

沙羽が反射的に、自分の両側の頬に手を添える。

「うん。」

遥貴はさらりと返事をして、鍋の中を素早くかき混ぜ、隣のフライパンの様子を見ると塩と胡椒で味を整えた。

その遥貴の隣で顔を赤くして剥れさせた沙羽が、眉を八の字にする。

「酷い!ちょっと、って言うより結構気にしてる事なんだけどーー!!」

「え?そうなの?」

「そうよ!」

「ごめんごめん。気にしてるとは思わなかったから。つい。」

「き、気にしてるわよー。この丸顔!私だって、スッとした面長の顔になりたかったわ!小さい頃から寝るときは常に横向きに寝ても、上から重い本を乗せて圧をかけて挟んでも、この丸顔は治らなかったんだから!」

沙羽が今にも泣きそうな顔をして悲痛な声を上げた。

その様子に、遥貴は思わず吹き出してしまった。

「まじで?…かなり努力したんだね…。ちょっと、うける。ごめん。本を乗せて挟むって…。」

そう言うと、遥貴が声に出して笑う。

沙羽は初めて、これまでの中で一番自然体で、心から笑っている様子の遥貴を見た気がした。

「…そんなに、笑わなくたっていいじゃない。」

そう遥貴に不服そうに言っては見たものの、思いの外嫌な気分ではなかった。

テーブルにサラダと、ボンゴレ、アクアパッツァが並んで、2人はそのテーブルに腰を下ろした。

テレビとオーディオの前にカーペットが敷かれていて、そこにローテーブルがあり、そのローテーブルを挟むようにソファーが置かれてある。

遥貴が白ワインをグラスに注ぐと、沙羽は其れを不安げに眺めた。


飲んで、大丈夫なのかしら…


再び沙羽の脳裏に、遥貴が突然黒谷に戻ってしまった時の最悪のシナリオが浮かぶ。

「遥君って、お酒…大丈夫なの?」

沙羽は心配そうに尋ねた。

「大丈夫だけど?」

「飲んで…急に気分悪くなったり、記憶が無くなったり、人からその…、急に人が変わった様だとか言われた事はない?」

遥貴が白ワインを注ぎ終えボトルを置いた。

そして、「なにそれ。」と笑った。

「なんか、おれ、酒に弱い事前提で言われてるよね、それ。」

「いや、違うの!あ、ごめんなさい。そうじゃなくて、なんか急に心配になっちゃって。買った時はそんな気にならなかったんだけど…」

「…心配しすぎじゃない?大丈夫。飲んで気分悪くなった事ないし、記憶もなくなった事はない。人が変わったとかも言われた事ないから。とにかく、食べよ。腹減った。」

「あ、そ、そうね。お腹すいたよね!いただきます!」

沙羽が箸を取ると、それを見届けて遥貴も箸を取った。

「うわ!美味しいこのアクアパッツァ!やっぱりいい白ワイン使ってるし、遥君の料理の腕前がいいからかな。こんなの作れるなんて、凄い!美味しい!ボンゴレも!」

沙羽が詠嘆の声をあげながら料理を頬張っていく。

そんな沙羽の様子を眺めていた遥貴には、実は沙羽が先程言わんとしてた事が何なのかにも察しがついていて、思わずふっと笑みを溢す。

「え?な、何?何か、可笑しかった?」

遥貴は一口アクアパッツァのあさりとトマトを口に運ぶと、出来に満足したのか、「うん、うまい」と呟き白ワインを口に含ませた。

「沙羽さんって、思った事が顔に出るようだし、嘘つけないでしょ?ついてもすぐ分かりそうだし」

「え、なんで、分かったの!そうなの。嘘が下手って言うか…」

「いいんじゃない?嘘が上手いやつなんか信用できないし。嘘はつかない方がいいよ…。上手くなる必要なんてないと思うよ、あんたは。…あ、ごめん、沙羽さんは…だったね、そこは。ごめん。」

俯き加減でそう話して食事をする遥貴を、じっと見つめていた沙羽が「………もしかして」と言って、白ワインを飲んだ。

遥貴が視線を上げる。

「遥君が、……なかなかスッと名前を読んでくれないのって、さん付けで呼ぶから呼びにくいんじゃないかしら。」

「え?名前?」

「そう。名前。沙羽さんって呼びにくいでしょ?」

「あ、いや、まぁ、そう言われればそうだけど…。」遥貴は少し目を丸くしてそう言うと「そっち?」と苦笑いを浮かべる。

「え?そっちって?」

「ごめん、なんでもない。」そう言うと失笑を溢してまたワインを一口口に含んだ。

そして、口に手を添えて更に苦々しく笑った遥貴は話題を戻した。

「じゃあ、なんて呼んだらいい?"沙羽"でいい?翔平でもいいんだけど。」

「しょ!?翔平ってまた!もー!私は翔平じゃあありませんから!だいたい、そこまで言うほど、そんなに似てるのかしらー?」

沙羽がまた剥れて唇を尖らせた。

遥貴は笑って「似てるよ。」と続けた。

「見た目もだけど、性格も似てる。」

「性格まで!」

「そうそう。猫って気まぐれで自由奔放で気儘でっていうイメージがあるけど、翔平は洒々落々って感じだったね。凄く環境に馴染むのが早いと言うか、自然に周りに合わせられて、だけど媚びなくて。それに猫って、余計な事は何も考えてないんだよね。てかきっと何にも考えてない。そう言うところも似てる気がする。」

アルコールが入ったからなのか、これまでで以上に機嫌が良く饒舌になる遥貴に、沙羽は複雑な思いで不服の声を上げた。

「それって、私が何も考えてないってこと?」

「でも悪い意味じゃないから、いいんじゃない?」

「え!否定もしないなんてー。酷いー。悪い意味じゃなくても、それって全然嬉しくないわー。」

「なんで?褒めてるんだけど、一応。」

「え?」

沙羽は驚いてきょとんとした顔を作った。

その顔に遥貴がまた失笑を溢す。

「ほら、口開けて。」

遥貴は箸で今日取った浅蜊を掴むと、沙羽の目の前に差し出した。

まだ納得のいってない様子の沙羽が遥貴の顔を見つめながら恐る恐る口を開けた。

口に浅蜊を入れられた瞬間、急に恥ずかしさが込み上げてきて顔が熱を帯びてくる。

「上手いか?翔平。」

そう言われて沙羽が睨んで咀嚼すると、「ごめん冗談だって。」と笑う遥貴。

「浅蜊上手いね。」

そう微笑むと、遥貴も浅蜊を一口食べた。



食事を進めながら驚いたことは、遥貴が本当にお酒が強いのか、白ワインを飲んだ後にビールを飲んでも変わらないところだった。

沙羽はと言えば、白ワインを飲み終わった頃には酔いが少し回ってきて、拭えない不安と心配でビールもほとんど進まなかった。

食事を終えて片付けを始めると、遥貴はソファーに移り「ごめん、溜まってた疲れが、今一気に来たみたい。横になってても?」と沙羽に伺いを立てた。

「勿論!大丈夫。運転で疲れたよね。私が片付けるからゆっくりしてて。」

沙羽がそう微笑むと、「ありがとう。沙羽…。」と虚ろな目で横になった。

それを見届けた沙羽が口に手を当てた。

先ほどの不安が増してきたからだ。

大丈夫なのかしら。このまま眠って、急に起きたと思ったら黒谷さんだったなんてないわよね!

とりあえず、片付けながら様子を…

そう思い改めると、沙羽は片付け始めた。

普段料理は出来なくても皿洗いだけは出来た沙羽。

家で夕飯に弁当を食べた時でも洗わないと、ゴミを捨て忘れた時のゴミの匂いが酷いものになってしまうからだ。

飽くまでも"沙羽なりの"だが、最低限の衛生管理だけは為されていたようだ。

皿洗いを終えると、沙羽は、寝息を立てて寝ている遥貴の様子を伺う為にジリジリと忍び寄っていく。

そして息を殺して覗き込んだ。

こんなに間近で遥貴の顔を眺めるのは初めてだった。

黒谷の顔もそんなにじっくりとは見たことが無かった沙羽だったが、改めてこれは黒谷なんだなと、思う。

横向きに眠っている為、少し長めの前髪が目にかかっている。

遥貴が袖を捲って料理をしている時も思ったのだが、腕もがっちりとしているし手も大きくて指が長い。

全体的に筋肉質で血管が浮き出てる箇所を見ると、少し触れて見たくなってドキッとなった。


ダメよ。いけないわ。

そう思って呼吸を整える。


これは飽くまでも黒谷さんなんだから。


だけど、良く眠ってるようだけど、起こさない方がいいのかしら。


起こしたら黒谷さんだったってなると怖いものね…


沙羽は隣の部屋から綿毛布を持ってくるとそっと遥貴にかける。

それから先にシャワーを浴びる事にした沙羽は、酔いを覚ますのと一緒に心を落ち着かせようとした。

出来ることなら明日帰り着くまで遥貴であってほしい。

万が一にでも黒谷が目覚めれば、きっと、どう言う事だと混乱させてしまう事になる。

沙羽にはこの状況を上手く説明できる自信が無かった。

シャワーを浴びながら沙羽は溜息をついた。


なんだか今日は、未だ嘗てないくらいスリルのある日だわ。

動悸がおさまらない…


目を閉じて深く息を吐いた。

入浴を済ませると、また忍び足で遥貴の様子を伺った。

まだ眠ったままの状態で沙羽はホッと胸を撫で下ろした。

そして、再び遥貴の側に座り込むと起こすべきがどうかを思案した。

できる事なら、今、この場を去って帰ってしまいたい。

そうすれば、例え起きたのが黒谷だとしても、何の問題もないのだから。


どうか、このままずっと遥君のままでいますように…


そう祈りながら目にかかる前髪を指でそっと掬った。

すると、沙羽の髪に遥貴の手がそっと伸びてきて、それに驚いた沙羽の身体が一瞬硬直した。

同時に心拍数も急激に上がる。

「髪濡れてる…。あぁ、風呂入ったんだ。もしかして結構寝てた?」

目の前にいるのは、間違いなく遥貴のようだった。

それでも確認を取りたい沙羽が遥貴の質問に一つ返事で答えると、「遥くん、だよね?」と、聞き返した。

遥貴が目を細めて微笑んだ。

「そうだよ?」

そう言うと同時に、遥貴が沙羽の腕を引っ張って、遥貴はソファーに横になったまま沙羽に腕を伸ばして抱きついた。

沙羽が戸惑いの声を上げる。

急に抱きつかれてしまってどうしていいか分からない沙羽は、そのまま身動きができないでいた。

「いい匂いがする。俺も風呂入ろうかな…」

アルコールのせいなのか、将又寝起きのせいなのか、遥貴の声が若干弱々しく感じられて擽ったい気持ちになる。

だけど、この雰囲気の流れに飲み込まれないよう必死に逆らった。

「う、うん。お風呂お湯貯めてるから入ってくるといいわ。だけどお酒飲んでるから、上気せないように気をつけてね。」

「もう一回入ったら?」

「え?」

予想もしてなかった遥貴の言葉に意表を突かれて声が裏返った。

「一緒に入ろ。」

「入りません!」

「…なんで?」

「な、なんでって、それは…」

『黒谷さんだから。』

なんて、言えるはずがない。

遥貴が沙羽を見つめると、眉を顰めて「嫌なの?」と聞く。

「嫌とかじゃなくて…。」

なんて言ったらいいのか分からずに言葉を詰まらせた沙羽に、遥貴は「…じゃあ、いいじゃん。」と言うと、沙羽の首筋に顔を埋めた。

「入ろう、沙羽。」

耳元でそう囁くと、遥貴の腕が沙羽の服の中へと入って来た。

「ちょっとまって!ダメダメダメ!」

沙羽が遥貴の腕を抑えようとした時には、すでにブラジャーのホックが外されていた。

「お願いだから、まって!」

沙羽が遥貴の腕を振り解こうと、力を込めた。

そこまで拒否されるとは思ってもみなかった遥貴は暫く驚いた顔をしていたが、諦めた様子で「わかった。」と言うと、沙羽に回した腕を解いて起き上がった。

「喉乾いた。」

そう遥貴が呟くと、この場から一旦退避出来る口実を見つけた沙羽が、空かさず「あ、炭酸水あったね。持ってくる。」と言って立ち上がった。

「…ビールでいいんだけど。てか、もう飲まないの、沙羽は?」

「え!ビール!まだ…飲むの?私はもう丁度いいと言うか…」

「まだって言うほど飲んでないんだけど…。酔えてもないし。」

遥貴が拗ねた顔をする。


そんな顔をしても、多分遥君、どの位かは分からないけど少なくても多少は酔ってますから!


沙羽はそう思いながら、外されたブラのホックを止め直してから、ビールと炭酸水を冷蔵庫から取り出した。

「ビールだけでいいのに…」

遥貴が益々拗ねた顔をすると、「分かった、一口飲むよ。」と言って炭酸水に手を伸ばした。

しかし、遥貴が掴んだのは沙羽の手だった。


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