初デート(1)

「痛ーーーーーーーーーーーはははいぃぃ!」

鏡の前で化粧をする沙羽が叫ぶと、転がってのたうち回った。

どうやら睫毛をカールしようとして、ビューラーで瞼を挟んだ様だ。

はははは、はははは、ははははと、涙を流して笑っている。

昨晩から沙羽に掛かってきた遥貴からの連絡は、その痛みをも和らげる効果があった様だ。

痛みがある程度治ると、再び身体を起こして念入りに化粧をしだした沙羽。

昨晩から一睡もしていないのと、未だに気持ちが昂ぶって治っていないのとが相まって、化粧をする沙羽の息が上がる。

そんな沙羽のいる部屋も、昨日の床一面に色んなものが散乱した状態が嘘の様に片付けられている。

もしかすると、また、うちにあげる事になるかもしれない。

そう思った沙羽が、一睡もせずに必死で片付けた結果だ。

化粧を終えた沙羽が、鏡に向かって「よし」と指を指すと、次にヘアアイロンを取り出して髪を巻き始めた。

ゴールデンウィークに会える事をすっかり諦めていた沙羽にとって、こんなにも嬉しい事は無かった。

連休初日からの三日目は、黒谷が恋人と旅行に行くと言っていたので、きっとその旅行を終え、帰って来たのだろうという事は予想が出来た。

沙羽は、きっと旅行から帰ってきて、何かのきっかけで人格が変わったんだわ。そう思った。

しかし、そんな沙羽であっても、連休前に一度は冷静になったのだ。

昨日の電話で、明日会えるかと聞かれて約束に有り付けたとしても、例え僅かであっても、乖離性同一性障害の事を調べて知識を身につけている沙羽が、それだけでここまで浮かれた訳じゃなかった。

遥貴が眠って目を覚ました時、その時もまた遥貴である保証はない。

だから、万が一のため掃除はするものの、半分は何処かで諦めていた。

期待と諦観が沙羽の中で葛藤しながら、明け方を迎えると、先程午前九時過ぎに、彼からまた連絡が入ったのだ。

沙羽の脳内で沙羽は、幼い頃に見たアニメの主人公等の様に、裸足で庭へ飛び出して、ある意味で「夢だけど、夢じゃなかった!夢(の様)だけど、夢じゃなかった!」と、歓喜の大声を上げていた。

浮かれない筈が無かった。

そんな浮かれた沙羽が、『黒谷と一緒に過ごしているはずの恋人は、一体今、どうしているのだろうか…』なんて云う事にまで、考えが及ぶ筈もはなく、何となく沙羽が想起できた事は、(きっと会えるような状態になったんだわ!ラッキー!)といった、漠然としたものだった。


「オッケ!できた。」

髪を巻き終えた沙羽は立ち上がり、隣の部屋のクローゼットを開けた。

すると。

「のわわ!」

開けた瞬間に、クローゼットに押し込んだ衣類が雪崩れの様に沙羽を襲った。

「やだ、忘れてた。私ったら。」

そう呟くと、そのクローゼットから今日着ていく服だけを取り出すと、「おいしょ、おいしょ。お願いだから上手に積み重なってて頂戴ね。」と、先程雪崩れた衣類達を、クローゼットに器用に押し込んでいく。

クローゼットの扉を閉めると、壁に掛かった時計に目をやった。

「わー!時間になる。急がないと!」

沙羽は慌てて鏡の前で服を脱ぎ、クローゼットから出した服に袖を通す。

そして、着替えながらクローゼットを眺めていた沙羽が、何を思ったのかガムテープを持ち出すと、クローゼットの扉の下の方と上の方に貼り出した。

「…部屋を明るくしなければ、同じ様な色だし、分からないよね。」

そう言って、クローゼットを遠目から確認すると、「帰って来たときに、開いててすごい事になっていたら嫌だしね。」と頷き、先程脱いだ服をベッドの下に押し込んだ。

「よし。」

沙羽は、鏡の前で全身の身嗜みをチェックすると、プリーツ加工を施されたシフォンのスカートを翻した。


マンションの前で待っていると言った遥貴の元へ向かう。

エレベーターを降りて自動扉を超えると、マンションの前で停車している車を見つけた。

「この車かしら…」

踊る胸を押さえつけながら覗き込む。

「あ。」

居たー!

心の中でそう叫んだ。

沙羽の心拍数は異常な程まで跳ね上がる。

沙羽に気付いた遥貴が、運転席から助手席の方に身を乗り出して、助手席側のドアを開けた。

「とりあえず、乗って。」

遥貴がそう促すと、沙羽は慌てて乗り込んだ。

沙羽がシートベルトをはめると、遥貴は緩やかに車を発車させる。

「で、何処に行きたいか考えた?」

遥貴が沙羽に問いかけた。

「考えたんだけど、私は何処でもいいかな…」

そう答えた沙羽は運転する遥貴の横顔を見ると、この人と行けるなら、何処へだって構わないわ!と思い、遥貴に熱い視線を送る。

「ああ、それ、その何処でもいい…が、一番困るんだよな。」

そう言われて沙羽は、「ああ、それはそうですよね…確かに。」と、言葉を返すと続けた。

「よくうちのお母さんも言ってたっけ。晩御飯のメニューに困って、『何にする?何が良い?』って聞いたのに、何でもいいって言われると、それが思い浮かばないから聞いてるのに!って、いつも怒ってた。」

沙羽が声に出して笑って「だけど遥貴君は、本当に行きたいところないの?」と尋ねた。

「特に、無い…。強いて言えば一箇所あるけど、…ちょっと遠いし、いい。」

「え!じゃあ、そこに行こ!だって、丁度連休で明日も休みだし!帰りが遅くなっても私は大丈夫だから!」

「え。でも、あんたが行っても多分つまらないと思うし…。」

「あ。沙羽って呼んで下さい。」

「あ、ごめん。沙羽…さん。」

「それって何処なの?」

「……ただの海だよ。なんの変哲も無い場所だから、この時期だし、行っても…」

「行きたい!行きたい!そこ、行きましょう!ね!」

赤信号で停車させた遥貴は、思案余って信号を見つめる。

暫く遥貴が黙っていると、沙羽は「ね!」と言って遥貴に微笑んだ。

「…じゃ、そうさせてもらう。」

遥貴は沙羽の方へ視線を向けると、「だけど」と言い、それに継いだ。

「つまらないからって、文句を言うのは無しだから。」

「大丈夫!」

満面の笑みを浮かべる沙羽に、一瞬呆気にとられそうになった遥貴だったが、微かに笑って前を向くと青信号でアクセル踏んだ。

暫くして、その遥貴の隣で思案顔をした沙羽が、何度か左右に首を捻ると、「その海って、思い出の場所なの?浜辺?」と興味津々で遥貴に聞き出した。

「うん、まあね。もう随分行ってないし、時間も無かったから…。」

「そっか~」

遥貴を見つめながら沙羽は目を潤ませて、微笑を浮かべる。

遥貴君の思い出のある場所に、一緒に行くことになるなんて…


とうとう、来たわーーーーーーーーーー!

来たのね、春がーーーーーー!


そう思った沙羽がまた、満面の笑みで「丁度連休だったから、良かったね。」と遥貴に言った。

「まあね。」

笑の絶えない沙羽は視線を前方に移した。

余りの嬉しさに胸中では欣喜雀躍としていた沙羽。

だが、すぐに我に帰ると、あれ?と思った。

また再び首を捻る。


私ったら忘れてたけど、遥貴君って黒谷さんの別の人格だよね…。

ん?あれ?


沙羽は、自分が乖離性同一性障害の調べた限りを想起した。

確かに、其々の人格には其々の生育史があると、呼んだ本には書かれてあった。

遥貴の言う海もまた、この『遥貴』の人格が持つ独自の生育史なのだろう。

だけど、なんだろう、この違和感は…

そう思ったのだ。

「そんな、ガン見されると息詰まりそうなんだけど。」

遥貴は沙羽を一瞥すると苦笑いを浮かべた。

「ご!ごめんなさい…つい。」

いつの間にか身を乗り出して遥貴を見つめていた沙羽は、居直ると改めて遥貴を見つめた。

「何?」

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