近づく二人(3)
四月末の二日間の連休が昨日で終わると、暦では五月に突入した。
その昨晩から降り出した細かな雨は、今も尚、シトシトと灰色の空から降り続けている。
去年のゴールデンウィークでは、友達との旅行の為に有休を使った沙羽だったが、今年はその有休も使わなかった。
何故なら、先月の四月の初めに、唯一独身だった友人が結婚してしまい、今年はゴールデンウィークの予定が何も入らなかったからだ。
ゴールデンウィークなどで、有休を取ってはいけないと云った、そんな会社の規定はないのだが、会社を空にはしないという決まりはあるので、沙羽も、今年のゴールデンウィークは暦通りにしようと思っていたし、そこまで休暇に入った人に対して、羨ましがる事もなかった。
だけど、隣の野口も、向かいの田中も有休を取っていてこの場にいないし、この部署も何だか、いつもと違って寂しく感じた。
だが、沙羽を寂しく感じさせていた理由は、それだけではなかった。
昨日までの二日の連休の間に、遥貴からの連絡がなかったからだ。
今日も沙羽の後ろにあるデスクには、黒谷が座って仕事をしている。
黒谷もまた、有休を取らなかった様だ。
なんて不毛な状況なのかしら。
昨日一日の時間が過ぎていくと共に、沙羽の気持ちはどんどんと悲観に暮れていった。
いつ会えるかどうかも分からない男を、それもまた、実在しない様な男を心待ちにしている、そんな自分自身が滑稽に思えて、そして悲しくなったのだ。
こんな話を、誰に相談できるだろうか。
誰が分かってくれるだろうか。
遥貴は黒谷の別の人格で、黒谷には私との記憶は無いし、その黒谷には恋人もいる…
まるで、幻に恋しているみたいだわ…
そう思うと沙羽は、左肘を突いて、その手で目を覆った。
「何だか、疲れてる様だね。もしかして偏頭痛?」
斜め向かいに座る佐藤が、沙羽に声を掛けた。
「いえ、偏頭痛では無いんだけど、罹患して、思い悩んでます。」
「え、重い病気?まじっすか!?大丈夫なんですか?」
隣で仕事をしていた坂井が驚いて割って入ってくると、佐藤が坂井に指摘した。
「いやいや、坂井、なんか聞き間違ってるっぽいぞ、それ。『おもい』違い。だけどそれって、風邪レベルじゃないやつ?」
佐藤が当たり障りのない様に気を使いながら、沙羽に尋ねると、
「風邪じゃ…ありません。」
そう言って口を閉ざした沙羽に、佐藤と坂井は次に掛ける言葉を見失った。
そして、沙羽が再び口を開くと、「辛い、恋の病です。」と、言った。
佐藤と坂井は、また言葉を失って、口は開いてるが閉口した。
佐藤が、はははと声に出して笑うと、「そんな冗談が言える様なら大丈夫だな。」と言って、また作業に戻った。
同様に坂井も笑うと、沙羽は目を丸くして、「え!冗談なんて一言も言ってませんけど!私は至って真面目です!」と言ったが、二人とも声を合わせる様にして笑うだけだった。
沙羽が唇を尖らせると、「真剣に悩んでるのは、本当なのに…」と呟いた。
昼休憩になると、後ろで黒谷を誘う渡辺の声がして、小橋を合わせて三人で昼食に出かけたのを、背中で見送った沙羽は、財布から取り出した五円玉を手に取ると、糸を通して、それをぼんやりと眺めていた。
「え、何っすか、それ。まさか、それで催眠術~とか、言わないっすよね。」
席を立った坂井が沙羽に笑って問い質すと、沙羽は坂井に目を向けて何も言わなかった。
「え、もしかして、その、まさかっすか?」
坂井は顔を引攣らせた。
佐藤も掛ける言葉に困り、様子を伺っている。
沙羽は徐に立ち上がると、目を細め、坂井を見つめて手を伸ばし、そしてその糸の付いた硬貨を、坂井の目の前で垂らしてみせた。
坂井の顔が歪み、沙羽はニヤリと笑った。
「なーんて、催眠術とかありえないでしょ!バカね!」
「もー、冗談きついっす!てか、一瞬、江崎さんなら、そういう事考えていても可笑しくないって思ってしまいましたからね。俺。」
「何それ、どうゆう事よ…。」
坂井は沙羽に問い詰められてしまった。
「いやいやいや、だって…」
坂井が言葉を濁して困惑していると、席を立った佐藤が「よし、坂井、飯行こう。」と、助け舟を出してくれて、坂井は安堵の表情を浮かべた。
「はい、行くっす、行くっす!」
沙羽は、再び唇を尖らせる。
佐藤が沙羽に「一緒に行く?」と尋ねたが、沙羽は、「今日はここでホカ弁買って食べるからいいです。」と、更に唇を尖らせた。
そんな沙羽を見て、苦笑いを浮かべる二人が出かけると、沙羽は糸の付いた硬貨をしんみりと眺めて溜息を付いた。
これで、遥貴君を呼び出せるかな~と思ったんだけどな…
暫く眺めていた沙羽だったが、急に馬鹿馬鹿しく思えてきて思わず笑ってしまった。
「お弁当、買ってこよっと。」
そう言ってデスクの上に糸を付けた硬貨を置くと、沙羽は財布を手にして出かけていった。
「むむ…」
すると、顔を強張らせながら呻吟した杉本が、恐る恐るその硬貨に近づくと、その硬貨を凝視して「まさか、私を…」と、呟いた。
それを見ていた2係の高倉が、持参した手製の弁当を頬張りながら、「杞憂しすぎにも程があります、課長。」と言い放つ。
沙羽がオフィスの下にあるコンビニの前を通りすぎようとした時だった。
先程、沙羽よりも前に、渡辺らと昼食に出かけたはずの黒谷が、コンビニの入り口近くで、ショートカットのヘアスタイルをした女と話し込んでいるのが目に入った。
コンビニの前の駐車場が広いため、その二人の様子は遠目からしか確認できないが、何やら険悪な様子が伺えた。
沙羽が首を傾げて二人を見つめた。
あの人が、黒谷さんの恋人なのかしら…。
沙羽がそう思った時、黒谷はその女を睨みつけ、何か言った様な素振りを見せると、沙羽に気付いて声を掛けたのだ。
「江崎さん!」
「え?」
いつも穏やかな口調で喋る黒谷からは、思ってもみなかった程の大きな声がして、沙羽は驚いてしまった。
勿論、声を掛けられるとも思ってもみなかった沙羽は、その女の方を振り向く事なく沙羽の元まで駆け寄って来る、いつもと様子が違う黒谷に、一体、どうしたのだろうと思って、戸惑いを隠せなかった。
「ちょうど良かった。お昼、これからですか?」
「え、は、はい。」
「それなら、一緒に行きましょう。」
「え?でも、いいんですか?あの人と一緒だったんじゃ…」
沙羽は言葉を濁すと、あのショートカットの女の方に視線を移した。
「ああ、もういいんです。用事は無いので、大丈夫です。」
黒谷が腕時計を見ると「さ、行きましょう」と、沙羽を促した。
沙羽は黒谷の顔色を伺いながら、恐る恐る「あの人がお付き合いされてる人ですか?」と、聞いてみた。
「え?ああ、違いますよ。全然。」
「え?違う?」
「あの人とは、全然、知り合いでも何でもありませんから。今日初めて会った人です。」
それを聞いて、沙羽は怪訝に思った。
初めて会ったにしては、凄く険悪な雰囲気だったし、それに、黒谷はあの女を睨んでいるようにも見えたからだ。
しかし、あまり立ち入った事を聞くのも気が引けて、「そう…ですか。」と返した。
もう一度振り返り、あのショートカットの女の方見ると、灰皿の方へ移動してタバコを吸っていた。
あの人、三十代半ばといったところかしら…
沙羽はそう推測した。
そして、付き合ってる彼女ではないのか…と、舌打ちをした沙羽は「なんだ…残念…」と呟き、また唇を尖らせた。
沙羽は、先日の昼休憩の時に黒谷をこっそりと追って入ったあの時の店に、黒谷と訪れていた。
「なんか、すみません。強引に誘ったりして…」
注文を終えたばかりの黒谷が、沙羽に詫びの言葉を告げた。
「ううん、謝らなくても大丈夫です。私は大丈夫ですので。気にしないでください。」
「ありがとうございます。」
「いえ、お礼も言われる程では無いので。寧ろ、謝らなければならないのは私の方ですし…。黒谷さんには、大変失礼な事をしてしまってますし、ねぇ…。」
沙羽は恐々と黒谷の顔を伺いながら、硬い表情で笑顔を作って、初日に飛び掛かって膝蹴りをしてしまった事に、「本当に、すみませんでした。」と、謝った。
すると黒谷が、「ああ、あれね…」と、苦笑いを浮かべる。
暫く、気不味い雰囲気が流れていく。
しかしそれは、店内に流れるクラシックの曲と、この店の穏やかな雰囲気で、その気不味さは忽ち打ち消された。
「このお店、よく来るんですか?私、こっちの方には足を運んだことが無くて。こんな素敵な洋食屋さんがあるなんて、知りませんでした。この前食べたオムライスが美味しくて、また、頼んじゃった。」
「確かに、オムライスも美味しいですね。だけど、ここのハンバーグカレードリアもまた、美味しいですよ。俺なんて、この店ではいつもそれ。」
「あぁ、そういえば、確かに、この前オムライスを食べてる横から、更なる食欲をそそられる様な、スパイシーでいい香りがしてたかも。あ。」
沙羽が、漂って来た匂いに気付いて顔を上げると、丁度今沙羽が語っていたそれらを、店員が運んできたところだった。
「お待たせ致しました。」
そう言って店員が、二人の前に其々が注文した料理を並べ終えると、「ごゆっくりどうぞ。」と言ってカウンターの奥へと引っ込んで行った。
「それじゃ、時間もあまりないんで、食べましょうか。」
黒谷が沙羽に伺いを立てると、「そうですね。頂きます。」と、沙羽が手を合わせてスプーンを手に取り、黒谷もまた同じようにしてフォークを取った。
「美味しそう。玉子がヤバイ。」
黒谷が沙羽を一瞥すると笑って、ハンバーグカレードリアを口に運んだ。
「だけど、本当にそっちも、美味しそうですよね。今度、そっちを頼んでみようかな…」
沙羽は黒谷の目の前にある皿をじっと見つめると、黒谷が、「一口、食べ…ますか?」と、引き気味に苦笑いをする。
「ううん、大丈夫です。とんでもない。黒谷さんとはそんな関係でもないのに、そんな事…、出来ません。彼女がいる場合は尚更です…。人としてあり得ません。」
「………へぇ。」
黒谷は、意外だと驚いて沙羽の顔を見ると、こうゆう所は礼節を弁えられるんだな…と思った。
だけど、それでもやっぱり沙羽に対しては、これまでの言動で首を捻ってしまう。
沙羽はと言えば、昼休憩が、黒谷と一緒になるんだったら、さっきの五円玉を持って来れば良かったな…と、デスクに置いて来た事を後悔しているところだった。
また暫く沈黙が続いて、お互いに箸を進めていたが、沙羽が意を決して黒谷に尋ねて見た。
「そう言えば、ゴールデンウィークの予定は、もう決まったんですか?」
沙羽が今日一番気になって仕方なかった事だった。
だけど、聞くのも怖いし勇気もいるし、それに、聞いて良いのか悪いのか躊躇っていた沙羽だったが、口にしてみれば以外と自分でも思った以上に自然に聞けた気がして、胸を撫で下ろした。
大丈夫、別に聞いてもおかしくなんてない。
極普通の世間話なんだから…。
変に意識しすぎたのか、息が上がってくるのが分かって、誤魔化すように微笑むとその上がった息を落ち着かせる為、水を口にした。
黒谷は微笑んで口を開いた。
「ええ。明日から大阪に二泊三日です。どこも予約がいっぱいだったらしいけど、丁度キャンセルが出て予約が取れたみたいです。」
「へー、良かったですね。もしかしてそのうちの一日はユニバーサルスタジオ?」
「そうみたいです。」
「わー、良いですねー。大阪、晴れると良いですねー。」
オムライスを食べ終えた沙羽は、胸の前で手を合わせると和かに笑った。
そして、ゴールデンウィークの明日から三日間は、間違いなく遥貴に会えない事を悟った。
「だけど大阪も、天気が崩れるみたいな事を天気予報で言ってた気がするんですよね。残念だけど。」
黒谷も食事を終えると、苦笑いを浮かべた。
「そっか~、それは残念ですね~。」
「だけど、こればかりは仕方ないですからね。」
「そうですよね~」
沙羽は笑いながら、
世の中平等なんだから、雨が降って当然よ。
私だけが一人寂しく過ごさなきゃならないなんて、あり得ないじゃない…。
と思うと、ハッとして、自分自身を疑ってしまった。
やだ私ったら、凄い嫌な女になりかけてない?
沙羽は立ち上がり「私、先に戻りますね。」と、黒谷に告げた。
「コンビニにも寄りたいので。」
そう継いだ沙羽が、注文した分の代金をテーブルに置くと、黒谷の
「そうですか。わかりました。」と言う返事に、
「じゃあ、お先に。」と返して沙羽は店を後にした。
店を出た沙羽は、足早に歩きながら胸を抑える。
黒谷から、ゴールデンウィークのその後の予定も聞きたかったのだが、昨日から時間が経つにつれて、どんどんと望みが薄くなっていく感覚に居た堪れなくなってしまった沙羽は、こんな望みも何もない、不確かな相手を想って心を動かされ、右往左往している自分に、哀れで惨めだと思った。
何をやってるのかしら私は…
ゴールデンウィークに一緒に過ごせるなんて期待しちゃって、本当馬鹿みたい…
「今日仕事終わったら、ブルーレイでも借りようかしら…」
沙羽は、ビニール製の傘越しに見える空を見上げて呟いた。
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