女"ぷりん"とパン屋の水城康太(2)
「あ、ここ…みたいですね。どうやら。」
木下が、スマートフォンの地図アプリで現在地を確認する。
「このパン屋…でしょうか。ベーカリー・イズミ?」
「どうやら、間違いなさそうだ。」
パン屋の隣にある玄関の表札に、水城の文字を見た聡が呟くように言った。
そのベーカリー・イズミの店内には、ガラス越しに並んだ数々のパンと数人の客、そして、レジに立つ従業員の女が見えていた。
その店内は明るく、その従業員もまた、感じのいい笑顔で接客と会計を行なっている。
暫くして、店内に居た客が二組ほど出て行くと、店内に残った客が一人になったところで木下が「水城康太…らしいのは見えませんね。」と零した。
聡は、その言葉には返さずにじっと店内を眺めていると、店内の奥、レジの向こうのパーティションの先から、男がトレーに乗せたパンを持って出てきた。
「あの男でしょうか。」
男は、レジに居た女性従業員同様に、白のコックコートを着て、モスグリーンの帽子とサロンを付けて、従業員の女と和かに話しをしていた。
「ここからじゃ、光がガラスに反射して、奥の様子が分からんな。男の従業員が他にもいるかどうか、……見に行くか。」
「そうですね。行きましょう。」
聡と木下がそう話すと、店に向かった。
「いらっしゃいませー」
店内に、あの感じのいい笑顔をした従業員の声が響く。
店内は、外から見た以上に明るく、清潔感の溢れた様子が伺えて、パンの香ばしい香りが漂っていた。
「丁度、小腹が空いてたんですよねー。」
木下が早速トレーとトングを手に取ると、真剣にパンを選び始めた。
そんな木下に、やれやれと苦笑を浮かべて「あ、俺、それな、そのベーコンとチーズのやつ。」と、告げると、聡は徐に店内のパンやポップを眺め始めた。
聡たちよりも前から居た客がパンを選び終えると、レジに向かった。
「ありがとうございます。」
そう言った女従業員が手早くパンを袋に詰めて行く。
すると、どうやらその客が常連のようで、従業員が「今日はいつもより速いですね。さっき、店の前を加奈ちゃんが通ってましたよ。」と笑った。
「え?加奈が?いつもこんな時間まで遊んでるのかしら…。」
独り言のように小声でそう言った客が、更に続けた。
「今日は外回りばっかりだったから、直帰しちゃったの。子供が三人も居たら、ゴールデンウィークは休みのようで休みじゃないから。その前に、程々休んで、体力を養わないといけないからね。」
「賑やかそうで羨ましいです。千百円です。」
「いずみちゃんの所も、そのうちそうなるわよ。」
「そうですね。今のうちに体力付けておかないと、ですね。」
「そうそう!」
店内に、控えめな笑い声が響いた。
「ありがとうございましたー。」
再び女性従業員の声が響く。
どうやら、この店のベーカリー・イズ ミという名前は、この女性従業員の名前らしい。
聡が、いつまでもパンを選んでいる木下を肘で突いて、合図を送った。
「え、あ、あと一つ選ばせて下さい。」
木下がトングで音を立てながら、焦った様子でパンを選ぶ。
やれやれとため息を吐く聡。
その聡の目と、レジに立つ従業員の目が合った。
と、言うよりも、目を合わせた聡が微笑むと、「すみませんね。こいつ、優柔不断なんで。」と、そのいずみと呼ばれた従業員に話しを振った。
すると、「どうぞ、ごゆっくりお選びください。」と、その従業員も微笑み返し、それを機に聡がまた話題を投げかけた。
「ここの店はいつから出したんですか?全然知らなかった。ちょっと離れたあっちの方のパン屋には、たまに行くんだけどね。」
「ああ、駅前の蔵岸ベーカリーさんですね。あそこは昔からありますからね。それに比べたらうちはまだ三年なんで、知名度も低いんです。」
聡はガラスで出来たパーティションの向こうの厨房に目をやった。
奥では、先ほどの男が一人でパンを焼いている。
どうやら、従業員は二人だけのようだ。
「じゃあ、これで。」
木下がトレーに乗せたパンをレジに持ってきた。
「お前、こんなに食うのか!」
トレーに乗ったパンの数を見て、「さっき、あと一つって言ってなかったか?」と、驚いた聡に「今日も遅くなりそうなんで。」と木下が笑う。
「ありがとうございます。二千百五十円です。」
聡が呆れて財布を出すと、同じように財布を出して払おうとしていた木下が「え、いいんですか、課長。」と喜びの声をあげた。
「いいよ。俺のも入ってるから。」
「やった。ありがとうございます。でも、こんなにパンを選んでしまって…なんか、すみません。」
「じゃー、コーヒーを頼む。」
申し訳なさ半分の木下にそう返すと、聡は財布から紙幣を取り出した。
「分かりました。」
そう聡に返事をした木下が、「そういえば」と言うと、今度は今しがた聡から紙幣を受け取った、そのいずみという女性に話しかけた。
「ここって、従業員募集とかはしてないんですか?」
「え、あぁ、うちはまだ、人を雇える程の店でもありませんので、募集は今の所考えていません。夫婦二人でどうにかやってる段階ですので。すみません。」
「…そうですかー。ああ、すみませんね。うちの知り合いの学生の子が、パン屋のバイトを探してたって事を思い出したので、ちょっと尋ねてみただけなんで、気にしないで下さい。ありがとうございます。」
「そうなんですねー。パンがお好きなんですか?」
いずみは木下に微笑むと、「自分でパンを焼いてるって言うくらいだから、そうなんでしょうね。」と答えた。
聡も以前、木下からこの話を聞いた事があった。
友人の妹がパン作りに嵌っているとかで、木下の嫁さんと一緒にパンを作ってきたからと、木下からお裾分けと言ってもらった事もあった。
その時は、カスタードクリームを作りすぎたらしく、濃厚なカスタードクリームのたっぷり詰まった、大量のクリームパンが配られて、木下が、暫くは見るのもウンザリだと愚痴を漏らしていた。
だが、今、目の前には、クリームパンがしっかりとトレーの上に居座っている。
聡は思わず笑った。
聡達には、モットーがあった。
捜査や事情聴取をする際にも、出来るだけ嘘をつかない様にすることだ。
手段なんか選んでられるかという人間もいる。
勿論、場合によっては嘘も必要な事もある。同じ警察官でも、捜査4課の組織犯罪対策課となったりすれば、そうも言ってられない事も多くなるだろう。
だからこそ、聡達は、嘘をつく必要性がない時は、嘘はつかない様にしているのだ。
嘘はいつかばれる時が来る。警察が人からの信用と信頼をなくしてしまったら、ルールもモラルも無くなり治安は悪化するだろう。
それに、警察同士、内部で疑い合わなければならなくなってしまう。
そんな身内の治安や和を保てないそんな警察が、外の治安を守る事が出来るだろうか。
答えは、ノーである。
それに、実際、何と言ってもやっぱり嘘を付く事は、なかなか聡の性に合わないのだ。
そうゆう時は決まって、正しい事をしている筈なのに、相手を騙す様な事をして、気分がいい筈もなかった。
釣りを受け取った聡は、木下が上手いこと探りを入れた事に感心して、微かに笑った。
「ありがとうございました。」
いずみという従業員が、爽やかに笑って会釈した。
その向こうで、こちらを伺っていた男と目があって、その男も聡に微笑むと、会釈をした。
この男が、山田と小野に強請られていた男…。
この男が、山田を殺したのか…?
そう思った聡が、その男同様に微笑み、頭を下げると店を後にした。
「ただいま戻りました。課長、山田が以前、強姦未遂を起こしていたことが分かりました。」
署に戻っていた聡に、たった今戻ってきたばかりの木庭が、駆け寄ってきた。
その木庭の報告を受けた聡が顔を歪める。
「何だって?強姦未遂?そんな調書はどこにもなかった筈だが、どういう事だ?」
「それが…親告してなかったみたいで、聞き込みで偶然…」
木下が言葉を濁すと、聡はため息を漏らした。
その親告出来なかった被害者に、哀れを覚えたからだ。
先日は、山田の元交際相手を尋ねたところ、暴力を振るわれていた事が明らかになったばかりだった。
山田殺害が怨恨の可能性であることを見て、山田を恨んでそうな人物を洗い出していたのだが、山田真琴という男を調べれば調べるほど、山田は沢山のトラブルを抱えていた。
「なんて奴だよ。全く。」
木下がパンを頬張りながら悪態をついた。
「ほんっと、調べれば調べる程ろくな話しが出てこないし、言っちゃー何だけど、殺されて当然の奴だな。」
聡が木下を睨む。
「…分かってます。すみません。」
木下が聡に謝ると、聡は改めて木庭に問い質した。
「その親告出来なかったガイシャは?未遂ってのはどうゆう事だ?」
「その女性は、金子玲奈という二十五歳の女性で、その事で今はPTSDで通院してるそうです。未遂になったのは、近くの通行人の男が気付き、止めに入ってくれて助けられたとかで、それで未遂に。」
「そっか。PTSDとは、可哀想に…。だけど、その助けに入った男は、通報しなかったのか?」
「はい、通報の記録はないので、通報はしなかったと思われます。きっと、その金子玲奈が止めたかもしれませんね。人に知られたくないし、話すのも辛いと言う事で、今日はそれ位しか聞けませんでしたが…」
「そうか。他、何か分かった事は?」
「後、佐々木ですが、モールの防犯カメラを調べさせてもらいました。」
「どうだった。」
「犯行時刻に買い物していたっていう本人の証言通り、佐々木の姿を確認しました。」
聡はため息をついた。
「そうか。佐々木は白か…。」
佐々木とは、数ヶ月前、山田と金本と三人で喧嘩になっているところを通行人から通報されていた男だった。
「これで佐々木も、外れましたね。」
木下がパンをコーヒーで流し込むと呟くように言った。
未だに犯人を特定出来るような有力な証拠も情報もなく、聡達は頭を抱え、悩まされた。
以前見つかった自転車同様に、今日、聡達の行ったコンビニの防犯カメラの映像も、既に科捜研に回して、解析の依頼を行なっていた。
顔は分からなくても、身長と体格、後、声紋位は取れるだろう。あの防犯カメラに写っている男が特定できれば、随分と進展するはずだ。
自転車には、指紋は残されてはいなかったのだが、何かにぶつけた様な跡があり、ハンドルと前輪に僅かな歪みがあった。
だが、まだそれが、どういった経緯でついた跡なのかが解明が出来ていない様で、聡達は、他の捜査をしながらその結果を待つしかなかったのだ。
疲れからか、聡から再びため息が溢れた。
「あ、それから、山田の初犯も…」
束の間の沈黙の後、木庭がそう話そうとしたところで、同じ捜査班の安武が戻ってきた。
其々が安武に労いの言葉をかける。
聡も安武に「おかえり。ご苦労さん。」と、声をかけた。
安武は、この班で一番の若手である長身の木庭と比べると、随分小柄な男だ。
「安武さん、山田の初犯の件、詳しく分かりましたか?」
朝から調査で安武と一緒に回っていた木庭が、安武に聞くと、安武は木庭に「ああ、聞いてきた。それが、」と言い、聡の方を向いた。
「山田は十八年前に、強盗致死傷未遂罪で逮捕されていました。」
聡と木下が「何だって?」と、眉を顰めた。
「強盗致死傷未遂…?」
「はい、山田は当時大学生で、二十歳。地元の質屋に強盗に入り、そこの夫婦を。」
「二十歳で…」
聡が言葉を詰まらせた。
強盗致死傷罪・強盗殺人罪は、殺人罪と比べても極めて重い犯罪である。殺意の有無を問わず、その罪が確定すれば、死刑または無期懲役となる。
だが、山田真琴は強盗致死傷未遂罪だと言う。
「未遂と言うことは、その被害者の夫婦は亡くならなかったって事ですか?」
木下が、安武に聞いた。
「それが、事件後、一命を取りとめたものの、一人は意識不明、一人は付随で寝たきりの状態で、山田等の判決後、数ヶ月後に、二人とも容態が悪化して死亡したそうです。」
「なんだそれ。それで未遂に…。酷い話だな…。山田がろくな人生送れなかった訳だ。」
木下が徐に首を振って呟いた。
「ん?今、山田等と言ったか?」
言葉を見失っていた聡が、改めて安武に聞くと、安武は「はい。」と頷き、手帳に目を落としてそれに継いだ。
「強盗に入ったのは二人で、山田と、水城康太と言う、山田と同じ大学に通っていた男です。」
聡と木下は耳を疑った。
「え?水城康太って…」
木下が再び呟くと、聡は、より一層顔を険しく顰めた。
「水城康太、知ってるんですか?」
木庭が聡と木下を見て尋ねた。
「金本の話で出た小野裕華に話しを聞きに言ったら、その小野の元交際相手が水城康太で、小野は、山田と二人で水城康太を強請ってた様な事をほのめかしていたんですよ。その後一見しに行ったんだけど…。」
その木下の言葉で、聡は、先ほど見た水城康太らしき男の顔を思い出した。
「水城康太もそうだが、その強盗致死傷の事件も調べる必要がありそうだな。きっと強盗殺人未遂として、捜査本部がたった筈だ。その捜査に関わった人間を当たって行くか…」
コーヒーの入ったカップをデスクに置いた聡は、この事件を纏めたホワイトボードを眺めながら語った。
「あ、今、岡さんがその事について、調べてくれています。」
安武が言った。
岡さんとは、同じ班の岡部宗二郎の事で、この班の班長で、捜査一課で一番のベテランでもあり、聡よりも年輩の警察官の男だ。
「そうか。じゃあ、明日からは俺と木下で水城康太を探る。木庭と安武は、岡さんと手分けして当時の事件を調べてくれ。もしかしたら、被害者の家族、縁者の可能性もある。あ、森山春香の男の方はどうなった?」
森山春香とは、山田の元交際相手の女の名前だ。
「森山春香の男は、まだアリバイの裏とれてません。引き続き洗います。」
「ああ、地味だが、確実に潰していかなければいかんからな。宜しく頼む。今日はもう上がっていいぞ。皆、ご苦労さん。」
「課長は岡さんを待つんですか?」
「ああ、勿論だ。あと、藤本班の傷害事件の方もあるからな。」
「そうでしたね。そっちは、もうすぐ送検出来そうなんですか?」
「あぁ、今の裏付けが終われば送検だ。漸く一つ片付くよ。最初はこっちの事件も、4課と合同で早く終わると思ってたんだけどな…。4課の捜査のお陰で、早い段階で暴力団の組織が関係してない事が分かって、助かったのはいいけど。合同の本部が解散して、意外とこの事件が複雑で面倒だという事が見えてきて、ほんと頭が痛いよ。」
聡がため息交じりで語ると、木下と木庭は頷き、安武は「本当、そうですよね。」と、相槌を打った。
暫くの間、静かな時間が流れた。
そして、申し訳なさそうに口を開いた木下が
「それじゃ、嫁さんも心配なんで、今日もお先に失礼せせて貰います。」
と言うと、身支度を始めた。
「そうだったな。早く帰ってやれ。」
「木下さんがエプロンしてる所、今度見てみたいです俺。」
聡に続けて木庭が揶揄うように言うと、安武が笑った。
「え、じゃあ、今度、木庭の為だけに特別ショットで撮っといてやるよ。一枚千円で。」
木下は片目を瞑って微笑むと「それじゃ、お疲れ様です。」と言って、部屋を後にした。
残った三人が、何とも言えない気色悪さに「うわ…」と、声を漏らして青褪めた顔をした。
それが失笑を誘うと、次に安武と木庭が帰って行って、聡だけが狭い部屋に一人残った。
静まり返った館内の薄暗い廊下には、聡のいる部屋の明かりが漏れる。
聡は再びホワイトボードを眺めると、コーヒーを飲んで溜息をついた。
聡は、焦りに似た気持ちと、良くない予感に駆られていて、胸騒ぎを覚えていたのだ。
早く解決させないといけない気がする…
聡は、上がっていた心拍数を抑えるようにして息を吐くと、
カフェインを摂りすぎたのだろうか…
と、手に持ったコーヒーを眺め、また溜息を吐いた。
そして、夜は刻々と更けていった。
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