不可解の極み、校閲/校正課!(2)

翌日、目を腫らした沙羽が、とぼとぼと出社した。

そんな様子の沙羽に、挨拶を投げ掛けると、粗全員、黒谷以外は皆、同じ様に二度見をして驚いた。

一体、彼女に何があったんだ。何でまた、こんなに目を腫らして出社して来ているのだろう。

そう、誰もが不可解に思った。

そして、更にはもう一つ不可解な事に、何故か、黒谷のその様子もおかしかったのだ。

昨日とは明らかに様子が違い、辺りをキョロキョロと視線を動かしながら出社して来ると、「おはようございます。」そう言って、デスクに座った。

「おはよう…ございま……………」

そして、藤澤が自分のデスクの前で固まった。

何故なら、自分のデスクに黒谷が座っていたからだ。

「あ、あの、私のデスク…………」

黒谷は俯いてメモ帳らしき物を眺めていて、藤澤に全く気付かない。

周りもこの異様さに、どう反応していいか分からずに、ただ、その様子を傍観していた。

「あ、あああ、あの!」

藤澤が精一杯の大声をあげる。

「え?」

黒谷は振り返ると、後ろに立つ藤澤に気が付いた。

顔を真っ赤に染めた藤澤が、「ど、どうして私のデスクに座っているのでしょうか。」と黒谷に聞いた。

「あっ」と、短く声を上げた黒谷は慌てて立ち上がると、「ごめん!……じゃない、すみません、でした。……ちょっと、ぼんやりとしてたもので…」と途中で一回咳払いをすると、徐に言い直し、隣のデスクに座った。

「本当にすみません。今日は体調が優れなくて、もしかしたら今日一日、皆さんにはご迷惑をお掛けしてしまうかもしれません…」

黒谷は一旦俯くと、またメモ帳に目をやって、つぎに目の前のパソコンを起動させた。

その様子を見てた渡辺が、「大丈夫か?どうりで何だか、顔色も良くないみたいだし。それだったらあまり無理しなくてもいいから、キツイ時は直ぐに言ってくれ。」と言った。

黒谷は目を細めると、俯き加減で渡辺に視線を移した。

「…………ありがとうございます。」

何故か、微妙な間を取って、微妙な顔をして返事をする黒谷に、渡辺は違和感を感じた。

実は昨日渡辺は、黒谷に、「同級だし、敬語もそんなに使わなくていいから」と告げていた。

そして1係が解散する直前には、随分と敬語も減って、砕けた感じの話し方にシフトしてくれていた黒谷だったのだが、今日になって、また、硬い敬語に戻ってしまっているのだ。

「まさか、昨日の江崎の蹴りが原因…なんて事はないよな?もしかして、黒谷、昨日倒れ込んだ時に、頭、打たなかったか?とにかく、本当にムリはしなくていいから。キツイ時は遠慮なく、直ぐ言って。」

渡辺が心配そうに訪ねると、微かに顔を顰め、一瞬だけ、渡辺に鋭い視線を向けたかと思うと、江崎の蹴り?と小さい声で呟いた黒谷。

「………はい、ありがとうございます」

渡辺に礼を言うと、黒谷は、デスクに両腕を突いて頭を抱え込んでしまった。

皆が、絶対あれだ!よっぽど、昨日の蹴りが堪えたに違いない。何だっけ…野口が言っていた、ボマー何とかってやつだ。きっと。あれが堪えているんだろう。そうに決まってる。と、思った。

ここにいる誰もが、黒谷に対して間違いなくそう思ったのだ。

そのような沙羽の後ろに座る黒谷の様子に、パソコンの画面を眺めたまま含み笑いを零した沙羽が、今度はどんな真似をして見せるのかしらと、嫌味をたっぷりと含ませてそう思った。

そして、その嫌味を込めた表情から一変して、悲しげな表情に変えると、沙羽は胸を押さえて溜息を吐いた。

沙羽は昨日、一晩中、あの日の黒谷の事を思い出しては泣いて、自分を弄んだ黒谷の事を思っても泣いた。

そして結局、そんな黒谷の事が、気になって気になってどうしようもない事に気付くと、嫌いになれないそんな自分に嫌気が差して、また、泣いた。

嫌いになれないどころか、沙羽は黒谷の事が『好き』なのだ。間違いなくあの日、涙を流していた黒谷を、この胸で、この腕で包んだと思うと、未だにこの胸はじんわりと熱を持ち始めるのだ。

「どうしたんだ江崎。自分の胸がない事に、今更、嘆いているのか?」

沙羽の向かい側に座る田中が、沙羽のいつもの食って掛かる様なツッコミを期待して揶揄して見せた。

だが、沙羽は、田中の期待も虚しく、自分の胸の中央に当ててたその手を、自分の両胸に当て、その胸の大きさを確認すると、徐に、そして悲しげに溜息を零した。

どうすれば大きくなるのかしら。

そう思うと、また目頭が熱くなった。

その様子にまた、皆が蒼ざめ、絶句した。




その一方で、沙羽の後方の黒谷が、振り向いて沙羽を見ると「昨日の江崎の蹴り…江崎…」と、何かの呪文の様に小さく呟いた。

「おはよう。」

杉本が入ってきて挨拶をすると、一番に気がついた桑原と小橋が、挨拶を返して席を立とうとした。

それを見た杉本が「今日は朝礼いいから続けて、続けて~」と、言いながらデスクに座る。

「おはよう。それじゃ~、今日も一日宜しくね~。」

改めて、杉本が挨拶をすると、皆が其々に返事を返した。

今日もまた、一日が始まった。

沙羽が腫れた目に、濡らしたハンカチを当てると、「大丈夫ですか?目、どうしたんですか?」と、心配そうに野口が沙羽に尋ねた。

鏡を見て、自分でも笑えるくらいその目を腫れさせていた沙羽。

きっと、どこの誰がどう見ても、泣いた事が原因だという事は直ぐにでも分かってしまうだろう。

今ここにいる皆も、恐らくは、察しがついているはずだ。

沙羽は、泣いた事には嘘はつかずに、余計な気を使わせない為にも、僅かな嘘をついた。

「うん、大丈夫よ。…昨日、泣ける映画を何本も見ちゃったせいなのかも…。朝方近くまで…」

「え!朝方近くまで…!?そんなに泣ける映画だったんですか?」

「………………哀れで可哀想な女が、運命と男に翻弄されて泣きながら暮らす、救いの無い、見てて痛々しい…そんな映画…。」

沙羽は、少し間を置いて続けた。

「だけど、やっぱり違うかな。私は…そんなんじゃない。全然。だって『キャラ』じゃないんでしょ?泣いて終わったりはしない…」

沙羽がそう言うと、野口は言葉を失って、乾いた目を数回瞬かせた。

「…………あの、江崎さん?それは、何の話でしょうか……」

野口が呆気にとられていると、周りが野口に向けて、黙って首を横に振った。

そっとしておけ。

昨日に引き続き、触らぬ沙羽に祟りなしだ。


みんなの目が、そう訴えていた。





「間に合っかなー、コレ。小橋、急いでバイク便呼んでくれる?」

「わかりました。」

「それから、ボックスに次の原稿入れといたから、再校のやつね。あと、釣りの初稿も届いたからそれも宜しく。」

沙羽の後ろから、1係のメンバーに指示を出す渡辺の声がする。

どうやら1係は、無事に仕事をこなせている様だ。

優秀な2係も、黙々と仕事をこなしていた。

3係もまた、今日中に纏められる様に作業を進めていた。

目元を冷やすハンカチの、冷んやりとした感覚がとても心地よくて、昨日の様な胸の内の煩わしさは随分と薄らいでいた沙羽。

そのハンカチを、片目ずつ当てながら作業を続けていると、部署内で、何かを探す様な素振りをしながらウロウロと歩き回る黒谷の姿が目に入った。

沙羽が顔を上げて首を傾げると、部署内の全員もまた、同じ様に首を傾げて黒谷を見ていた。

「何か探してんのか?」

渡辺が黒谷に尋ねる。

「あ、えっと、ボックスを探してるんですが、どこにあるんでしょうか。」

「ボックス?」

「はい。原稿を…………」

黒谷がそう言うと、渡辺は言葉を無くして、暫くの間、身動ぐ事をも忘れてしまった。

「ボックスは…、パソコンの中にあるけど…。そこには…ねーよ?」

「…………」

「………………」

「そう!そうですよね!そのボックスはパソコンにあるのは、分かってます!大丈夫です。ボックスじゃなくて、その…ボックス…ゲンコウ、ぼくすげーこん、ぼくすげーコン!僕スゲーコンです。」

顔色を悪くした黒谷が微笑んでそう言うと、その黒谷の言葉で部署内は静まり返ってしまった。

「は?」と、思わず渡辺が顔を顰める。

皆が目を丸くする。

スゲーコン?

誰もが心の中で反芻させた。

そして、2係の「自分に知らない言語は無い」と自負する増田賢吾が眼鏡を光らせると、隣の桐谷勇太のデスクにある辞書を手に取り、調べ始めた。

「いや、載ってないと思うわよ。それ。」

増田の向か一日側のデスクにいる、この課で一番の古株で、ベテランの高倉祥子が増田に告げる。

「あ、コンタクトの事です。僕、てか俺のコンタクト、特注の凄ぇハードな奴なんで、ほら、今、頭文字だけ取って言うの、流行ってますよね。」

え?まさか…

その時、部署内の全員が、心を一つに通わせた気がした。

「あ、正確には、BSCですね!」


やっぱりーーーーー!?


間違いなく、部署内全員の心は通っていた。

渡辺は顔を引き攣らせて、「あ、あぁ、確かに、そんな喋り方をしてる奴をテレビで見た事はあるけど……だけど…」と、言葉を濁らせた。

「黒谷、昨日、目はいい方だって……」

「た、たまにするんです。」

「たまに?」

「えぇ、度数ゼロですが、あ、そう!ブルーライトカットの特殊なもので。」

周囲の社員全員が、拭えない不可解さと、脳内で次々と起ち上がっていく疑問符達に手に余り、この靄のかかった頭がスッキリと晴れる事を期待して、二人のやり取りの帰結するところに注目して様子を伺っていた。

「え?そんなのあるのか!?」

黒谷が一瞬、たじろいだ様に見えた。

「………し、知り合いが、開発してて……、まだ市場には…出てません……」

そして黒谷は、辛そうに微笑んだ。

「じゃあ、俺も探すよ。大事な物なんだろ?」

「え?」

「あ、私も!私も探しまーす!」

「え!」

「じゃあ、私も」

「!!!」

「じゃあ、俺も。探すか!」

そう言って皆が席を立ち始めて、黒谷は焦ってしまった。

「いやいやいやいやいや!大丈夫です!探さなくて!いいんです!ほんとすみません。そのうち見つかるでしょうし!ほんと!仕事をして下さい。仕事しましょう!ほんとお騒がせしました。」

そう言って、黒谷は、若干口調を強めて仕事に就くよう促すと、渡辺に「ほんとごめん、ありがとう。」と告げ、黒谷自身も席に着いた。

益々皆の不可解さは、極まっていった。

「ほ~~。最近は、そんなコンタクトが開発されてるとは、凄いですね~~。」

二人のやり取りを眺めていた杉本が、お茶を啜りながら感心して微笑んだ。

席に着いた黒谷は、そんな杉本の言葉を聞くと、今度は身動ぎ一つせずただ一点を見つめて、その姿は何かを思案しているように見えた。

一方で、終始席に座ったままだった沙羽は、黒谷の様子に不可解には思ったが、先程の、若干口調を強めて言った所に、あの日、事故を起こして直ぐの、びしょ濡れで自分に怒鳴った、あの時の黒谷のことを思い出して、また、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。

沙羽が深くため息を零した。

そして、その後ろでは、徐に頭を抱え込んだ黒谷が、沙羽と同じ様に溜息を零した。

その二人の溜息が、ピッタリとタイミングが合ってしまって、


本当に、一体どうしてしまったんだ。この二人は……。


と、この部署の杉本以外の全員がそう思った。

午後になると、昼食をとるために其々が休憩に入り、野口が沙羽に「今日は、どこにしますか?」と尋ねた。

「そうね~、何がいいかしら…」

昨日から何かと続くストレスで、疲労困憊した沙羽が、目に当てていたハンカチを外して力なく答えると、その沙羽の顔を見た野口は「あ、随分と腫れ引きましたね。」と微笑んだ。

「うん。やっとね。」

沙羽がそう言って苦笑いを浮かべる。

「おい、江崎。昼、俺らと一緒に行くぞ。」

沙羽が財布を取り出していると、渡辺が歩み寄ってきて、自分と沙羽の視線の高さを合わせるように屈むと、渡辺は声を潜めた。

「お前、昨日の事、黒谷に詫びをいれないと、まじヤバイかもしれねーぞ。」

「はい?」

沙羽が、いきなり何の事を言ってるんだと、怪訝そうに返事をすると、3係のメンバーは、渡辺のただ事じゃなく深刻そうな様子に、一体どうしたんだと、渡辺の言葉に耳を傾けた。

「だって、明らかにあいつ、昨日とは違うし、様子おかしいだろ!」

「…あいつって?誰の事を言って…」

「惚けんなって!そんなふざけてる場合じゃないから、まじで。」

渡辺が、沙羽の言葉を待てずに自分の言葉を覆い被せる。

「……………」

誰の事を言っているのかなんて事は、容易に察しが付いていた沙羽だったが、そもそも、沙羽からしてみれば、黒谷の不可解さは昨日と何ら変わらない。

黒谷が、本当に、あの日の事を忘れているのか、将又、覚えているけど、認めたくないだけなのかは分からないが、あんなにムキになって別人と言い張る事自体、沙羽には、未だに不可解で理解できないでいるのだ。

確かに、昨日の沙羽への態度に加え、今日は、一段とおかしな様子を見せている黒谷だが。

「多分、絶対頭打ってるぞ。どうすんだよ、おまえ。黒谷からは無いとして、あいつの女とか、両親から訴えられでもしたら………」

そう言って渡辺は、視線を2係のメンバー全員に移した。

田中と佐藤が、顔を見合わせて青褪め、渡辺が坂井に『な、ヤバイだろ。』と言いたげな目で訴えると、坂井は、それは心配し過ぎなのではと、顔を痙攣らせて笑った。

「そんな…まさか」

流石にあり得ないっすよ、それは…。

そう言いかけてやめた坂井。

「あり得ない事ないだろ!世の中わかんねーんだから。」

渡辺がそう言うと、益々みんなの顔が青褪めていった。

「いやいやいや。ちょっと待ってよ。話、大きくし過ぎじゃない?幾ら何でも…。訴えられるとか、そんなの…」

沙羽は苦笑いを浮かべた。

だが、そんな沙羽の言葉が、皆の耳に届く事もなく、皆の脳裏に浮かんだ想像はと言えば、訴訟を起こされて、裁判所で項垂れた沙羽の姿のある光景だった。

メンバーの誰かが生唾を飲み込む音が、聞こえた気がした。

居た堪れなくなった渡辺が、踵を返し、黒谷に話しかけた。

「黒谷。一緒に飯、行こうぜ。」

「え、あぁ、はい。」

そう言って、渡辺に返事を返した黒谷が、複数の視線を感じて2係の方へ目を移した。

そして、黒谷が直ぐ後ろに座る沙羽の顔を見ると、黒谷と沙羽の目がかち合った。

二人が今日、真面に顔を合わせたのはこれが初めてだった。

沙羽と目が合った黒谷の目が、勢いよく見開かれていった。

すると、黒谷は、驚愕した表情を剥き出しにして「な!」と、短く声をあげだと思ったら、音を立てて椅子から跳び退いたのだ。

誰もが呆然となり目を疑った。

そして、今度は一体、どうしたんだ?そう思った。

「何のまねでしょうか。それ。」

沙羽が些か不愉快そうに苦く笑って、黒谷に尋ねた。

「なんで、ここに……。」

「はい?」

「あ、いや、その………、」

何故か狼狽えた様子を見せる黒谷が、口に手を当てて暫くじっとして黙り込み、再び口を開いた。

「江崎……さん?」

黒谷が、手の平を上に向けた手を沙羽へ差し出し、まるで、貴方が江崎さんですか?と、尋ねているようにして名前を呼んだ。

「は?」

その黒谷の態度で、やっと静まり返っていた沙羽の脳内で、昨日に引き続く玲瓏な鐘の音が、今日もまた鳴り響いた。

「そうです!まぁ、まぁ!それも、お忘れですか!とても素晴らしい能力をお持ちで、フゴ!」

怒りを露わにした沙羽の口を、慌てて渡辺が掌で塞いだ。

「お前、何言ってんだ、黒谷は今、お前のせいで、すげー弱ってんだぞ!もっと労われ!」

そして渡辺は、次いで黒谷に微笑んで、

「あぁ、これ(沙羽)の事は気にすんな。さ、皆で飯に行こうぜ!疲れたろ!な!」と、昼食に誘った。

沙羽達は、オフィスの近くにある、有名チェーン店のファミレスに入った。

「本当、うちの江崎が申し訳ない事をした。すまん!」

そう言った沙羽の隣に座った渡辺が、向かい側の窓際に座る黒谷に向かって、沙羽の頭を押さえ付けながら頭を下げさせると、ゴン、と云う、鈍い音がなった。

「痛~い!ちょっと、やめてよ!打ったじゃない!おでこ!」

沙羽が渡辺の手を払い除けた。

「少しくらい痛くていいーんだよ、お前は!昨日の事を考えると、これじゃ済まされないんだぞ?ほら、謝れ。」

同じテーブルに坂井と、野口と、佐藤が席に付いて、その様子を眺めながら微苦笑を浮かべる。

ここに来る際に、1係の桑原も付いていくと駄々を捏ねたが、話が余計にややこしくなるからと、渡辺に切り捨てられた。

そして、オフィスで興味本位に話を聞いていた、2係の田中は、そう言った災いには関わらないと決めているんだと、逃げるように3係の桐谷を誘い昼食に出かけて行った。

「俺らが課を代表して謝るよ。本当、江崎がすまなかった!」

そう言って渡辺が再び頭を下げると、『俺ら』と言った渡辺に驚きながらも、頭を下げるメンバー達。

「あ、いや、頭を上げてください。やめて下さい。そうゆうの。」

黒谷が頭を下げるメンバーに、戸惑いながら顔を上げるように促した。

「その、昨日のって……江崎…さんの蹴りの事…ですか?」

黒谷が、躊躇いながら渡辺に尋ねると…

「あら、覚えてたのね、それは。私の事に至っては、顔すら覚えてないようだったけど。」

と、横から沙羽が不貞腐れた顔をして言い捨てると、その顔を背けた。

「江崎!お前は黙っててくれ。話が終わらん。」

まるで、子供のような態度をとる江崎に坂井達は苦笑いをするしかなかった。

「それは、その、顔が朝と違ってたので、まさか…その、分からなくて……」

黒谷がそこまで言うと、しまったと、顔を強張らせた。

沙羽は、それは一体どうゆう事かしらと、黒谷を睨みつける。

そこで佐藤が「プフッ」と失笑を零して口を開いた。

「確かに、今朝は全くの別人だったもんな。俺も暫くは、本当に、江崎さんかどうか分からなかったよ。」

黒谷の顔を睨んでいた沙羽が、今度は目の前の、黒谷の隣に座る佐藤を睨む。

「とにかく!何か合ってからでは遅いから、って、もうとっくに遅いんだけどさ。とにかく、これ以上、その症状が酷くなる前に、一度病院で見てもらって、俺らに知らせてくんねーかな。あれだったら、これから病院に行ってもらっても構わないから。」

「その症状?」

渡辺の言葉にそう呟いた黒谷が、暫く考え込むと、それなら、と言って次の言葉を継いだ。

「そうさせて貰えると助かります。昨日の事が関係してるかはわかりませんが、丁度、今日は体調が良くなかったので。」

微苦笑を浮かべた黒谷。

その表情には、どこか、ホッとしたような安堵感を滲ませたように見えた。

「うん、うん。しっかりと、調べて貰ってきてくれ。頼むな。」

渡辺が、誠心誠意を込めて黒谷に真剣な顔を向ける。

沙羽は、気に入らないといった様子で頬杖を突くと、黒谷と渡辺の反対側へと外方を向いた。

その外方を向けた側に座っている野口と坂井が、その沙羽の不貞腐れたような顔を見て「江崎さん………」と言って、苦笑いを浮かべた。

「お待たせ致しました。」

そう言って、注文した物をウェイターがテーブルに次々と並べていくと、「それじゃ、気分を変えて!食べよっか。俺なんか、朝からずっと腹減ってたんだよね。」と、佐藤が笑って言った。

「だな!食おうぜ!坂井も食え食え!もっと大きく育て!」

「いや、もう俺、育ち盛りとっくに過ぎてるっす…。」

「じゃあ、私が沢山食べるので、辺さんの半分下さい!」

「いや、お前は控えろ!てか、お前は昨日どれだけカロリー消費してんだよ!どんだけ彼氏とプロレスごっこして、じゃれ合ったんだ?食っても太らねーし。格闘家にでもなるつもりか?」

渡辺が、つい、軽はずみで野口にそう言うと、渡辺のその言葉の端に、野口は食いついてしまった。

「あー!ちょっとちょっと、辺さん!そこ間違えて覚えちゃってますから~!プロレスは格闘技と、実は違うんですよ!私が好きなのはプロレスで、主に観客を楽しませるために、舞う様にして、華麗に技を掛け合い、魅せるのがプロレスです!」

意気揚々と、否応無しに語り始めた野口を尻目に、地雷を踏んでしまった感が否めない渡辺が、苦虫を噛み潰した様な顔をして佐藤らに助けを求めると、坂井も佐藤も未だに語る勢いが衰えない野口に「あーあ」と、憫笑を浮かべる。

その憫笑が次第に哄笑に変わると、和やかな時間が流れていった。

黒谷はそんな様子を横目で傍観しながら、黙々と食事をとっていた。

沙羽は、膨れっ面の状態で食事をしながら、みんなの話に耳を傾けていた。


「だけどあれだな。ここんところ、本当、仕事の量が増えてしんどいよな。」

一頻り談笑が済むと、渡辺がしみじみとした顔で話題を変えた。

「最近、本社の仕事が回ってきてるのって、もしかして…」

佐藤がそう言うと、次いで坂井が「あの、暴力団の男が殺されたって言う、あの事件っすか!?」と、興奮気味で身を乗り出した。

黒谷の動きが、一瞬だけ、止まった。

「あぁ、そうなんだよ。本社では、週刊誌の方に人を割いてしまってっから、本社では、校正作業なんかも間に合ってないらしい。」

すると、部署で一番の情報通の野口が割って入ってきた。

「そうらしいですね~。なんか、記者も足りてないらしくて~、記者経験もないのに、編集部だった私の知り合いも記者に駆り出されてるって聞きました~」

「そっかー、どこの部署も大変だけど、そいつもまた、慣れない仕事で大変だな。」

渡辺が徐にため息を吐いた。

そして、沙羽に向かって「ここに一人、唯一その情報を得やすい立場の人間がいるって言うのに、こいつは記者の仕事を嫌ってるしな。」と言った。

沙羽は黙り込んで、口をへの字に曲げる。

「…………」

「情報を得やすい立場って…どういう事ですか?」

黒谷が、誰にともなく問い質した。

「あぁ、こいつの親父さん、刑事なんだよ。L県警のな。」

「え?」

黒谷が小さく声を漏らすと、江崎の顔を改めて眺めた。

黒谷の箸を持つ手が、微かに震えた。「何よ。だって、しょうがないでしょ。私が、昔のこ~んなに小さくて可愛らしかった子供の頃に、記者の人間が常に父の周りに張り付いて、出かけ先での楽しい筈の一時を邪魔されれば、誰だって嫌いになるわよ。そんな記者に、私がなりたいと思う?」


沙羽は身を乗り出すと、いつか放送されていたアメリカ発信の、ティーンズ向けコメディードラマに出てくる、そのコメディー女優にも負けない程の大きなジェスチャーを用いて、「ぜーんぜん!」と、言い放った。

みんなが失笑を漏らす。

「ま、お前には、誰もそんな期待はしてないから、安心しろ。」

その渡辺の一言で、再び哄笑が巻き起こると、沙羽は鼻を膨らませて唇を尖らせると、不機嫌そうな顔をして隣の渡辺を睨んだ。

「その言い方は、渡辺、聞き方によっては、全然宥めた事になってないから。」

佐藤は笑いながら、渡辺にツッコミをいれた。

再び談笑が始まると、そんなメンバーを他所に、黒谷は、窓の外を眺めて沈思黙考に浸っていた。





早々に昼食を終えたメンバーが、オフィスに戻ろうとすると、黒谷が「すみません」と口にした。

「先に戻ってもらえますか?俺、一服してから戻りますので。」

「え?」

また渡辺が、数時間ぶりに眉を顰めた。

「黒谷、お前、昨日タバコは吸わないって言ってなかったか?」

ここにいるメンバーの中で、唯一、同じ1係の渡辺だけが、昨日黒谷が喫煙しない事を黒谷から聞いていた。

その事実を問い質した渡辺に、黒谷の顔色は一層と悪くなった。

「そ、そうなんですが、何か今日は、急に吸いたくなって…」

黒谷がそう言うと、渡辺は今日で何度目になるのだろうか、怪訝そうな顔を浮かべると、次に何か閃いたようでハッとなって大きく目を見開いた。

「あ、そうか。もしかすると、体質が変わったのかもしれないな。昨日ので…。お、おう、吸ってこい。」

渡辺が、清濁併せ呑む振る舞いをして見せると、黒谷が微かに首を捻り、「……はい」と、返事をした。

「喫煙室なら、オフィスにあるけど。」

次いで、佐藤が黒谷にそう言うと、「あ、切らしてるんで、コンビニに行ってから…」と、黒谷が言う。

「じゃ、じゃあ、先に戻るから、ムリしなくていいからな!慌てなくてもいいぞ!ゆっくり来い。」

渡辺がそう言うと、黒谷と別れオフィス戻って行った。

黙って皆の後ろに付いて行く沙羽の中では、黒谷に対する新たな疑問が浮かび上がっていて、「どうして、そんな事を」と、呟いた。





コンビニを出た黒谷が、外の喫煙所で、タバコを吸おうとして火をつけた時、ふと視線に気付いて驚いた。

数メートル離れた所から、沙羽がじっと、懐疑的な視線を向けていたからだ。

沙羽は、黒谷が気付いた事に気がつくと、徐に黒谷の方へ歩み寄って行った。

「タバコ、吸われるんですか?」

沙羽が微笑んだ。

「あ、いや、その……いつもは吸わないんです。」

黒谷は若干目を泳がせて、視線を沙羽以外の所で遊ばせていた。

「そうなんですね~。そういえば、仕事は慣れましたか?」

「えぇ、まぁ、少しづつですが。徐々に慣れてきています。……皆さんいい人ばかりで……」

黒谷は、無難な言葉を選び、ぎこちなく笑った。

「そうですか~。それは良かった~。私だって、黒谷さんには、ちょっと、悪い事をしちゃったな~っては、思ってるんですよ~。それに、黒谷さんには、早く仕事に慣れてもらいたいし、皆、優秀な黒谷さんに期待してるので。ですので、なんでも、遠慮なく仰ってくださいね!黒谷さんにとって、うちの部署が、居心地のいい職場になったらいあな~って、思ってますので。」

沙羽がこれまでに無いくらいの和かな笑顔を作る。

「ありがとうございます。そう言って貰えると……有り難いです。」

「ところで今日は、ほんといい天気ですね。」

そう言って沙羽が仰ぐと、黒谷もその空を見上げて、「そうですね…」と呟く様に返す。

空は晴れ渡り、雲一つない、快晴。

あの豪雨の日が嘘の様だ…

そう黒谷は思った。

沙羽といると、あの雨の日を思い出さずにはいられなかった。

空を仰いだままの沙羽が、「風が気持ちいいですね~」と言うと、暫く間を空けて黒谷に尋ねた。

「そういえば、あの時の足は、治りましたか?」

沙羽と同じ様に空を仰ぎ、風を感じていた黒谷が、

「えぇ、お陰様で治りましたよ。あの湿布のお陰です。」

と、沙羽に返事を返すと、直ぐにはっとして息を呑んだ。

一瞬、見上げる空と建ち並ぶビルが歪んだように見えた。

怖ず怖ずと沙羽の方へ視線を移すと、沙羽が一笑し、「それは良かった。病院で貰った余り物だったんで、強いかなって思ってたけど、効いてくれて良かったです。あ・の・湿・布!」と言い放った。

黒谷の目は、その動揺を隠しきれてはいなかった。

長年の聞き込みや事情聴取、そして様々な勉学を合わせて編み出された、沙羽の父、聡からの直伝だった。

「やっぱり!ちゃんと覚えてるじゃない!もう、誤魔化せないわよ!なんで、別人の振りなんかするんですか!昨日も惚けてばかりで!酷いじゃな~い!タバコ吸うのに、吸わないって嘘ついたり!そんなに周りに良く見られたいんですか!彼女がいるから、浮気した事、バレたくなかったから!?」

「いや、違っ、それは…。えっと…あいつは確かに浮気はしないし、本当なんだ!そんなんじゃないから!昨日は嘘じゃないし、俺でもないんだ。…そう、俺じゃない!本当だ。」

「はぁ?また、別人だと言いたいんですか!も~、ふざけないで~!じゃあ聞くけど、誰だって言いたいのよ!」

沙羽にそう言われてたじろいだ黒谷。

だが、ここで素直に話す訳にもいかなかった黒谷は、暫く考え込んだ。

沙羽の父親は刑事。その事が脳裏を過ぎったからだ。

いったい、どうすれば…

そう思った黒谷が、俯き、思考力を深めるために目を閉じた。

「ねえ!」

沙羽が急かす様に口調を強める。

すると、黒谷が目を開けて「ごめん」と呟くと、タバコを灰皿に捨て、沙羽の肩を掴み、まっすぐに沙羽の目を見つめたのだ。

沙羽の鼓動が、ドキッと大きく跳ね上がった。

「え?」

「本当だ、信じてくれ。俺は、君のこと、忘れてなんかない。あの雨の日の事も…。だけど、薄々感じてはいたけど、どうやら俺は、俺じゃない時があるみたいで、昨日の俺は、俺じゃないんだ。」

「は?何それ…どうゆう事?」

「俺も詳しくは分からない。だけど、俺はそんなに長い時間出てこれないんだ。分かってくれ。」

「え、待ってよ、意味がわからない。どうゆう事なの!ねえ!」

黒谷は、沙羽の肩を掴んだその手を外し、目を覆った。

「あぁ、何だか視界が揺らいで、意識が薄れて…。頭がいたい!」

「え?」

「必ず、また、君に会いに、戻ってくるから…。」

黒谷はそう言って急に蹌踉めくと、コンビニの建物に寄り掛かり、ずるずると腰を下ろして居竦まり、仕舞いには俯いてしまった。

「え、どうしたの?大丈夫?え?」

沙羽が慌てて黒谷の顔を覗き込んだ。

すると。

「あれ?」

そう言って顔を上げた黒谷が、急に周囲をキョロキョロと見回し、沙羽に「あれ、江崎さん、どうしたんですか、こんな所で。あれ、なんで俺はここに居るんだ…」と言って、立ち上がった。

「え?」

目を丸くした沙羽が、黒谷を見上げて固まった。

「あれ、ここって会社の下じゃ…。あれ?確か俺は出勤前で家にいた様な気がするのに、なんで…。はっ!江崎さん、今何時です?会社、始まってしまいますよ!さ、行きましょう。」

「え?」

「さぁ、行きますよ!」

黒谷はそう言うと、驚いたまま身動ぐ事のできない沙羽を置いて、さっさっとオフィスに戻って行った。

呆然とする沙羽は、その黒谷の後ろ姿を目で追う事しかできないでいる。

沙羽は立ち上がり口に手を当てる。


「どうゆう事?」


そう呟いて、早鐘を打つその胸を抑えると、「必ず、また、君に会いに、戻ってくるから」と言った黒谷の言葉を、その胸の中で何度も反芻させた。

幻…?そう思った沙羽だったが、あの人は、間違いなく、あの雨の日の人だった。と確信を持った沙羽。


「まさか…、やっと、会えたの?」


そう呟いてオフィスに戻って言った。

一部始終をコンビニの外で見ていた他所の喫煙者が、途中からスキップになった沙羽を見ると、口をぽかんと開けて「信じたのか?今の…」と、呟いた。

側から見ると、それは、間違いなく茶番に見えていた様だった。






その後、黒谷は仕事を早退し、二日間の間仕事を欠席した。

部署のメンバー全員が、いよいよやばいぞ…と、沙羽を心配し、渡辺と野口が、慰謝料の事を頭に入れて、沙羽の為に募金をしようかと相談しあった。

だが、沙羽だけは、どこか浮かれていて、今度はいつ会えるのだろう…と、黒谷の中の別の黒谷、あの、雨の日に出会った方の黒谷に、想いを馳せていた。


















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