不可解の極み、校閲・校正課!(1)

「ねえ、野口さん?確か編集に仲のいい友達が居たって言ってたわよね?もしかして、この雑誌の担当変わった?」

沙羽は怖い顔をして、訂正をし終えたプリント用紙を見ながら、パソコンでの作業を進めていた。

3係は今、売れ行きの悪い、例のメンズファッション誌を、明日までに初校戻しをする目標で取り掛かっていた。

「そうみたいなんですよね~。」

野口はそう言うと、沙羽の手にしている、チェックされて至る所に赤字が付けられている原稿のプリント用紙を見て、微苦笑を浮かべた。

この場合で言う赤字とは、文章の誤脱や誤用を赤のマーカーで訂正された文字や記号の事だ。

「私も、一昨日この話を聞いたんですけど~、この雑誌の担当の編集が、二人とも変わったらしくて、その二人ってのが~、センスの良さを買われたみたいで~。だからか色校は~、殆ど直しがいらないですね~。何だか他所のめちゃくちゃ売れてるファッション誌みたいにさまになってるし!」

野口が嬉しそうに、微笑みながら続ける。

「それに江崎さん、気付きました?何だか前より服のコーデも変わって、良くなってると思いません?変わったのは編集だけじゃなく、企画もだそうですよ!」

「 そう言えば、確かに服のセンス、良くなってるっすね。」

話を聞いていた坂井が口を挟んできた。

野口の言葉に黙って耳を傾け、いまだ怖い顔をしている沙羽が「そうみたいね。だけど…。」と言って、キーボード操作をしながらパソコンのスクリーンを睨みつける。

「ま、嘘字は多いですけどね。頑張って売れたら、人、増やして欲しいですね!」

そう言って野口は、洒々落々な様子で笑った。

プロレスの事になると煩いのに、それ以外の事に関しては、温和な野口に呆れたような、羨ましいような複雑な気持ちで、沙羽は眼差しを向けた。



丁度、お昼を終えて、眠気と戦いながらの作業を続けていた沙羽達は、黙々とその地味な作業を続けていく。

そして何時間か過ぎた頃、漸く周りの社員が動き出した。

どうやら、一応の就業時間は終わった様で、時計は既に6時を回っていた。

「あ~、疲れた~!でも、終わってな~~い!」

沙羽がデスクに突っ伏して、べそをかいた。

沙羽は、その突っ伏した姿勢のまま「まだ、やって帰るでしょ?下(コンビニ)行かない?」と、野口に顔を向ける。

「行きましょ~。息を抜かないと、死ぬ~。」

野口のその表情も、げっそりとしていて疲れている様子だった。

バッグから財布を取り出すと、まだデスクに座って作業をする、同じ3係の坂井と、田中と、佐藤に「良かったら、何か頼まれましょうか?」と野口が尋ねると、坂井は「あ」と顔を上げた。

「俺は大丈夫っす。もう上がるんで。」

坂井がそう言って笑うと、沙羽も田中も佐藤も「えっ!」と声を上げ、一体、坂井はこんな忙しい時に何を言ってるんだと、眉を寄せた。

「あ、仕事はちゃんとうちでやってきますんで!今日は彼女の誕生日で、帰らないと後々煩いっすので~、ほんと、すみませんけど、帰らせてもらいま~っすっ。」

坂井は自分のUSBを手に取ると、顔の高さまで持ち上げて『仕事持ち帰ります』アピールを、皆に向かってして見せた。

「大変だな。お疲れ。」

恋人の必要性を感じてない佐藤が言うと、続いて田中が「乙!サービス業頑張れ~」と、軽く手を上げた。

沙羽は恨めしそうな顔をして坂井を見つめた。

顔を覆う髪の隙間から、眼を覗かせてじっと見つめる沙羽のその姿に、身震いした坂井は「まじ、怖いっす。今日の江崎さん。」と、苦そうに笑った。

「訳は知りませんが、江崎さん、元気出して下さい。それじゃお先っす。」

そう言うと、坂井はオフィスを後にした。

「じゃ、江崎さん、行きましょうか!」

野口がそう言って立ち上がると、沙羽も立ち上がり、田中と佐藤は再び顔を上げた。

「あ、俺、コーヒーがいいな。ホット。悪いけど、いい?」

「あ、俺も俺も!ホットでLサイズ!」

「了解で~す。佐藤さん、サイズは?」

「俺は、レギュラーでいいかな。悪いね。」

「いえいえ。これくらいオーケーです。」

沙羽がバッグから財布を取り出すと、後ろに座って仕事をする黒谷を横目で一瞥する。

「わぁ、ほんと仕事が早いですねー黒谷さんって。助かるー!」

1係で黒谷の向かいの席に座る、桑原美鈴が歓声を上げた。

「そうですか?」

「そうですよ!ねえ!小橋さん!」

「え、あ、俺ですか?あ、えぇ、まぁ、そっすね。確かに早くて、助かりますね。」

「まじ、ほんと、終わったら、俺の分も頼みたいくらいだよ。はぁ、今日までに終わんのかよ、これ。まじで。」

沙羽の後ろではそんなやりとりが為されていて、沙羽は、黒谷に対して不服げに、小さくため息をついた。

「戻りました~。はい、コーヒー。」

上手いこと息抜きが出来たのか、コンビニから戻ってきた野口が、朝と変わらないテンションでコーヒーを渡していく。

「あ、サンキュー。はい、百八十円。」

「ありがとね。あれ、江崎さんは?」

「江崎さんならカフェスペースです。あ、これ、江崎さんが、皆で食べてって貰ったので、どうぞ~、食べましょ~!」

「まじで!ラッキー!」

野口が嬉しそうにチョコレートの包みを開けると、田中が一番に手を伸ばしてきた。





「はぁ、なんなの、一体。ほんと、最悪な日だわ。」

コンビニから戻った沙羽が、エレベーターから降りると、野口と別れてカフェスペース(談話スペース)に向かっていた。

そのカフェスペースは、エレベーターから降りると、沙羽達の部署とは反対側にあり、カフェスペースと言っても、自動販売機と、自由に飲める煎茶とほうじ茶と、お水、そしてお湯の出るサーバーがあるだけで、後はその前に椅子とテーブルが少し置かれているだけの、ほんのちょっとした場所にすぎなかった。

そのカフェスペースの、外の景色が見下ろせる窓際の席に、携帯を手に頭を抱える黒谷の姿があった。

「なんで、出ないんだ遥貴は。…一体、何をやってる…。」

黒谷は両肘を突いて両手で顔を覆うと、ため息をついた。

暫くして、顔を覆ったついでに疲れた目を指圧して、息を吐いた黒谷が、顔を上げて外の景色に目を向けると、目の前のガラスに映った沙羽の姿に驚いた。

「あ、え、江崎さん…でしたよね…。お疲れ様です。」

「………………………」

振り返った黒谷が、自分の斜め後ろに立つ沙羽に尋ねるが、返事もなく黙ったまま此方を見ている沙羽に、強張らせた苦笑いを浮かべると、「ど、どうぞ?あ、俺、席を外しましょうか?」と、言った。

「…………いえ、居てくれて構いません。」

やっと口を開いた沙羽は、徐ろに黒谷の隣に座った。

黒谷は、顔に硬い笑顔を作ったまま、窓の方へ視線を向けた。

窓の外には、ヘッドライトを点けた車の行き交う様子が見えていた。

黒谷は更に、沙羽から顔を背けると、『何なんだよ、この女は…』と、そう思った。

そんな黒谷にじっとあからさまに視線を投げかけてる沙羽の姿が、二人のその目の前のガラスに映し出されていて、今度は背中をゆっくりと沙羽の方へ向けた黒谷だったが…。

しかし黒谷は、ふと真剣な表情に戻ると、目を閉じ、一息吐いて、沙羽の方へ振り向いた。

黒谷も、沙羽に聞きたい事があったのだ。

「江崎さん。」

「……はい。」

「朝の話し…なんですが、俺と前に…」

「会いました。」

即座に沙羽が黒谷の言葉に大袈裟な表情で返してくる。

「間違いなく俺でした?」

「ええ!間違いなく!」

「本当に?間違いなく?この顔でした?」

沙羽は僅かに眉を寄せて黙り込むと、何を言ってるの?バカにしてるの?と思って、ため息をついた。

「えぇ、そっくりそのまま、丸っごと!上から下まで、勿論その顔も、丸っとまるまる貴方そのものでしたよ。ま・ち・が・い・なく。心も!身体も!剥き出されてましたよ。」

一言一言言う度に、その目を見開いて、憤怒の形相を見せると、最後に不気味に笑って見せた沙羽に、黒谷は、苦虫を噛み潰したような笑顔になって、その顔を引き攣らせる。

更には、その上になお「詳細を説明しましょうか?」と、沙羽が言う。

「結構です!」

黒谷は堪らず顔を背けて手でその顔を覆うと、もう片方の手を上げて沙羽を止めた。

「そんな趣味、俺にはないので…」

黒谷は言った。

その言葉が沙羽の気に触ってしまったようで、沙羽の中でカチンと音を立てた。

「それは、どう言う事でしょうかっ!」

沙羽は、目と鼻を大きく広げて黒谷に問い質した。

「あ、いや、気にしないで!深い意味はないから!悪い意味でもないので、大丈夫。大丈夫。」

黒谷は慌てて沙羽を宥め賺そうとした。

「………………。」

沙羽は顔を顰めると、悪い意味じゃないと言うその言葉に、本当かしらと懐疑的な目で黒谷を見据えた。

そして次に、首を傾げ、怪訝な顔で黒谷を見つめる。

自分の中で、まるで薄靄に見え隠れしている、漠然とした違和感を感じ取ったからだ。

「それで…」

と、黒谷がそんな沙羽の顔色も合わせて伺いを立てる。

「それって、いつの事だったか覚えて……………」

そこまで言った黒谷が、目と鼻に加えて口を大きく開けた沙羽を見て、透さず「ますよね!」と足して沙羽に微笑んで見せた。

すると沙羽が、

「まさか、本当に忘れたって言いたいの?」

と、信じられないと云った様子で黒谷に聞いた。

「いや、その、忘れたって言うか…、何て言うか…その…」

黒谷は言葉を詰まらせた。

説明に困っているそんな黒谷を見た沙羽が、露骨に呆れ顔を作ると、大きなため息を零した。

「4月10日よ。」

「4月10日?って、確か、火曜だったっけ。」

「……そうです。」

黒谷は思案顔で窓の外に視線を移した。

「確か、先日の大雨が降り出した日…だったよな…」

黒谷は独り言の様に呟くと、暫くの間黙り込んでしまった。

そんな黒谷を、沙羽が不機嫌な顔をして見つめていると、黒谷は何か思い立ったのか「分かった。」と声を出した。

沙羽の表情が、一瞬にして晴れ渡る。

「思い出したの?」

沙羽が期待を膨らませた眼差しで笑顔を作ると、身を乗り出して、黒谷の次の言葉を心待ちにする。

「いや、あの、そうじゃなくて…。ごめんけど、それは思い出せません。」

黒谷がそう言うと、沙羽は「はぁ!?」と、顔を歪ませた。

「とにかく、それはやっぱり、人違いなので。忘れて下さい。」

「はぁ!?忘れるですってぇーーー!!」

沙羽の中で再びカチンと鳴ったその音は、玲瓏さを増して響かせた。

この男は、また、性懲りも無く人違いだと言い張るつもりなのか!

そのように思った沙羽は言葉を失った。

そして、自分の頭に血が上っていくのを、否応無しにはっきりと自覚した。

そんな呆れ果てた沙羽に、黒谷は『しまった!』と、思うと、「あ、違っ。ごめん。やっぱり、覚えてて。しっかりと、覚えててくれててもいいから。だけど、それは俺じゃなくて、他人の空似で別人ですので。別人ね。お忘れなく。とにかく、話が聞けてスッキリした。ありがとう。仕事に戻るので、俺は、失礼します。」と、立ち上がり、沙羽を宥めつつ後退った。

沙羽が、開いた口が塞がらない状態で黒谷を目で追っていると、黒谷がもう一度「別人。」と、念を押す。

沙羽は改めて眉を寄せた。

沙羽が『よくもまあ、ぬけぬけと、そんな出鱈目な事が言えたものね。』と、黒谷に言い寄ろうとした。

が。

しかし、沙羽が声を出す前に、黒谷の向かおうとしているその先から、渡辺が顔を出し、「あ、いたいた。これも頼みたいんだけど、いい?ここのところの事実確認も合わせてやってくんない?」と黒谷に歩み寄ってきた。


「あれ?」

沙羽に気付いた渡辺が、話す相手の対象を、今言おうとして言えなかった、その、言葉達のやり場に困ってる沙羽に変更させた。

「どうりで向こうが静かだと思ったら、こっちにいたのか。ん?もしかして、また黒谷に訳分からないことを吹っ掛けてたな!江崎ぃ。勘弁してくれよ。うちは明日一番に初校戻ししないとやばいんだからさー、うちの大事な黒谷君に、変なちょっかい出さないでくれる?」

そう言って露骨にため息をついた渡辺に、沙羽が「ちょ、ちょっかいとか出してないから!」と声を荒げた。

そして、沙羽の前から去っていく黒谷に対して、沙羽は、「一体何だって言うのよ!一人で勝手にスッキリしないでよ~!こっちは全然、スッキリなんかしてないんだから~!」と、やきもきしながら、更に地団駄を踏んだ。



それから沙羽は、部署に戻ったのだが、以前に増して不機嫌そうにして戻ってきた事に、驚きを隠せない様子の3係の野口達は、触らぬ神に祟りなしと肝に銘じ、そそくさと仕事をこなすと、そそくさと帰宅の準備をする。

2係に続いて帰ろうとする3係の面々に気付いた渡辺が、溜息を零した。

「お前らも帰るのかー。いーなー。俺も帰りてー。」

「否否、俺らかなり計画的にやってるもんで、お先に。悪いな。」

渡辺に田中が答えると、「どこが計画的だよ!3係だっていつも前日にはヒーヒー言ってんじゃん。どうせ明日、間に合わないなら残ってやってけばいいのに。」と、渡辺が返してくる。

だが、機嫌の悪い沙羽を一瞥すると、田中も佐藤も野口も、顔を強張らせて首を横にゆっくりと振った。

「それに、今日はBSの中継があるから、絶対帰らなきゃ!光ちゃんも待ってるから!」

野口が両手でガッツポーズをする。光ちゃんとは野口の恋人の名前だ。

「お前が彼氏と技掛け合ってじゃれ合う姿が、安易に想像できてしまう俺が怖いよ。」

渡辺がそう言うと、田中と佐藤に加えて、黒谷の前に座る桑原と、引っ込み思案でコミ症の小橋も笑った。

「えー、別に、全然笑うとこでもないんですけど~。」

野口が不服そうに言うと、桑原が身を乗り出した。

「そういえば!黒谷さんって、彼女さんは、いらっしゃるんですか?」

桑原は、黙々と仕事をする黒谷に話を振り、目を輝かせて、興味津々と云った表情を浮かべている。

班で唯一、一人椅子に座ったままでいる沙羽の手が止まった。

沙羽はそのまま、黒谷の返事にじっと聞き耳を立てる。

「え?あ、はい。います。」

黒谷がそう言った時、沙羽の頭に再び、血が急激に登っていった。

マウスを持つ手が震えた。

「えー、残念~~~。」

桑原が露骨に残念がると、1係の隅で黙々と仕事をこなして、小橋以上に口数が少なく大人しくて、真面目で少し地味目な藤澤香澄が含み笑いを零した。

「あ、今、藤澤さん笑わなかった!酷~い!」

桑原が顔を歪めて藤澤を睨んだ。

「いえ、笑ってなんか…」

藤澤は俯くと、肩までの長さのあるボブスタイルの髪で顔を隠して、一方の桑原は膨れた。

「お前の気のせいなんじゃねーの?」

「あはは、美鈴ちゃん、ドンマイ!」

「じゃあ、黒谷さん、予約!今の彼女さんと別れたら、次は私で宜しくお願いしまーす!」

「なんだよそれ、お前にはプライドってやつはないのか!」

「えーー、ありません!これに関しては!えへ。」

そんな風に、沙羽の後方で暫く談笑が続いたが、沙羽はと言うと、怒髪、天を突く勢いで、その胸の内は黒谷に対する怒りで煮え滾っていた。


彼女がいるですってーーーーー!!!


沙羽は俯いて、この煮え滾る憤慨の念を抑えようとした。

信じられない。ありえないから。ほんと!信じられない!

沙羽が胸中で何度も何度も繰り返す。最早、その怒りは、抑えられそうにはなかった。

後方で盛り上がる中、沙羽は徐に立ち上がると、低い声で呟くように「じゃあ、私は上がるから、お疲れ様でした。」と言って、部署を後にした。





「何だか、今日は特に様子がおかしかったですね、江崎さん。一体、どうしちゃったんでしょうか…。」

先程まで盛り上がっていた談笑が止むと、心配そうな野口の声がした。

「さあ。確かに、朝のあれは異常で、酷かったな。ま、寝れば、きっと、元の少しおかしいくらいの江崎に戻るんじゃねーの?一時的な病気みたいなもんだよ。きっと。黒谷は、初日にして散々な目にあってしまったけど、その広い心で、大目に見てくんねーかな。」

渡辺がそう言って笑うと、黒谷も「ええ、俺は大丈夫です。もう忘れましたので、気にしてません。」と笑った。

そして、部署内に再び談笑が戻ると、3係の野口達は帰って行き、1係のメンバーだけが残った。

外で響く喧騒とは対照的に、オフィスは静まり返り、作業をする音だけが響いていた。

黒谷は、この今日一日の、抑の元凶の事を思案し、そして、その元凶が気掛かりで気掛かりでならなかった。

黒谷はまた、自分の携帯のスマートフォンの画面を眺めて、溜息を吐いた。






「信じられない…」

俯きながら足早に、オフィスのあるビルを出た沙羽が呟いた。

まるで、あの日の出来事が無かったかのような態度を見せた黒谷は、あろう事か、恋人がいたのだ。

朝からずっと理解に苦しんだ黒谷の態度が、沙羽の中で腑に落ちてしまった。

黒谷にとって、沙羽とのあの日の事は、最初から、火遊びをしてしまった程度だったに違いない。

もしくは、蚊に刺されたような、ほんの些細な出来事だったのかもしれない。

どうでも良かったのだ。二度と会うつもりはない…と、そう思っていたから、寝てる間にこっそりと抜け出して、消えてしまったのだろう。

そこまで考えが及ぶと、沙羽の脳裏に、あの日の涙を流して見上げる黒谷の姿が目に浮かんだ。

あの日、沙羽の胸に抱き寄せた後、顔を上げた時の、あの悲しげな表情から一瞬だけ、あの目に、ふと、微かな柔らかい光を灯して微笑んだ黒谷の姿が、どうしても忘れられないでいた沙羽。

どうしてあんな顔をしたのかも、分からない沙羽であったが、あの時は確かに、愛情に似たものを感じ取る事が出来た。

沙羽にはとても、そんな黒谷に恋人がいて、浮気をしている様な感じには、どうしても見えなかった。

浮気をする軽々しい男のその様なものは、微塵にも、黒谷からは感じ取れなかったのだ。

だから、運命とかそんなものを軽々しく信じる方ではない沙羽だっが、あの時、接触事故を起こして、黒谷にこの胸を高鳴らせた時から、その晩、目を赤くして、黒谷が沙羽を見上げて微笑んだ時、改めて、運命だと思ってしまったのだ。


なのに…


「酷すぎる…」

沙羽の目に涙が溢れ、視界が滲んだ。

何処かの芸人が、「なんて日だ」と言って叫んでいたが、まさに沙羽にとってのこの一日は、そう叫びたい程の、最低で、最悪な一日だった。

明日から、どうやって過ごせばいいのよ。酷いじゃない。こんなのって、ありえないわよ。何が、別人よ。ふざけてるわよ。ふざけ過ぎよ。信じられない。遊ばれただけだなんて。滑稽で…笑える。バカみたい…。

沙羽は歩くのをやめて、その場で居竦まってしまった。


どうしてこんな目に…


涙が止めどなく溢れては、レンガで埋め込まれた足元の歩道を、次々と濡らしていった。


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