第17話 持てるものすべて

 中学時代、井伊直哉は秀一にとって別世界の住人だった。


 秀一が勉強だけはよくできる、他に取り柄のないダサメガネだったのに対し、井伊は文武両道のイケメン。学業の成績は学年で一二を争い、スポーツもよくできる。剣道では部の主将を務めていた秀一の兄よりも強く、他校の生徒にも知られていた。


 その「井伊先輩」が今、倒すべき敵として目の前にいる。


 三河台の副将が井伊だと分かった後、涼介は秀一に策を授け、最後にこう言った。


「いいか、田中。お前は自分で思ってるより強い。だが、一瞬も気を抜くな。お前が持っているものすべて、あいつにぶつけて来い。井伊はそれだけの価値がある敵だ」


 互いに礼をしてから三歩前進し、開始線に着く。

 竹刀を抜き合わせつつそんきょの姿勢を取り、2人同時に立ち上がる。


 井伊は秀一より10センチ以上背が高い。少し見上げるような格好になった。


 井伊は秀一の顔を見ていない。全体のたたずまいを見ている。いや、それすら見ていない。井伊は目の前にいる秀一を自分に倒される者としてのみ認識していた。


 ピリピリと肌を刺すような緊張がコートに漂う。


「始め!」


 という号令に合わせて、2人はカチッと剣先を合わせた。


 ***


 井伊の一つの武器は速攻だ。開始早々にそれを仕掛けてくることを秀一は警戒していたが、彼はしなかった。むしろ、少し下がって間合いを取っている。


(真田先輩の弟がどんな剣道をするのか、まずはお手並みを拝見させてもらうよ)


 はるか格上の剣士として秀一に胸を貸そうという態度だ。


 このことが、緊張気味だった秀一に冷静に思考するゆとりを与えた。


(僕が持っているもの、すべて)


 秀一はこの8ヶ月間に学んだことを一つずつ思い出そうとしている。


 ふと、竹刀の握りが硬いことに気がついた。


(竹刀の握りは傘をさすように)


 という咲の言葉が耳に甦る。

 秀一は右手首を内にひねり、力をゆるめた。


 次に甦ったのは美羽の声だ。


(足捌きは体の軸がブレないように♡)


 目と肩のラインが平行移動するように、ススッと前に出る。


 竹刀の物打ちを井伊の竹刀の右側につけた。斜め上から井伊の竹刀を抑えようとする。それを嫌った井伊が押し返し、剣先を秀一の喉元に向け直す。その竹刀を再び右斜め上から抑え、さらにパンッと強くはじいた勢いで右斜め上に振り上げる。


(お、表からの攻撃を意識させて……)


 赤石の声だ。


 井伊も表からの面と判断したのだろう。

 竹刀で応じようと手元を上げる。


 秀一はそれを確認してから、素早く竹刀を返し、


(裏から撃つ!)


 手首のスナップを利かせて面打ちを放った。


 バシッ!


 これが首を傾けてかわそうとした井伊の右面(向かって左側)に当たった。


 しかし、一本を告げる旗は揚がらない。


 井伊も同時に秀一の右面を打っていたからだ。


 あいめん――面の相打ちになった。


 井伊のもう一つの武器はカウンターだ。相手の面打ちを予測して、それよりも一瞬早く面を打つ。秀一が竹刀を返した瞬間に井伊はその意図を理解していた。背が高い井伊の面打ちはモーションが小さくて済む。速さなら負けない自負もある。


 しかし、秀一の面打ちも思いのほか速く、鋭かった。


「同時。双方無効!」


 が宣告される。


 開始早々の完全な相打ちに、おお、というどよめきが観客席で起こった。


 ***


 井伊は面を打つやいなや、リーチの差で自分だけがいっとういっそくで打てる間合いまで下がった。そこで呼吸を整えようとしている。


(表からと見せかけて裏から打ってきた。真田家お得意の表裏比興というわけか)


 井伊はこのときに気づくべきだったろう。


 自分が戦っている相手は、先入観で思い込んでいるより強いのではないか、と。


 井伊の相面が決まらなかったのは意表を突かれたからではない。秀一は、涼介や咲といった井伊より速い剣士と普段から稽古している。速い剣道に慣れているのだ。


 しかし、井伊はそう考えず、原因を自分にのみ求めた。


(こんな単純なフェイントを予測できないなんて、いくら何でも油断しすぎた)


 井伊直哉は決して悪い人間ではない。しかし、エリート意識が強すぎるという欠点がある。奢り、慢心、相手への尊敬の欠如。そうした性質が彼の胸の内にある。


 一方、秀一の胸にあるのは純粋なものだ。


 素直さ、謙虚さ。


 それに加えて今、井伊の面に竹刀を当てた秀一は、心の底からこう思っている。


(剣道って、なんて楽しいんだ!)




———————————————


 作者より


 実際の剣道の試合では、審判はこんなにしゃべらず、旗とジェスチャーで表現するのですが、演出上、こうしています。

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