第10話 無念無想

 東京・武蔵野にある警察剣道の道場の周囲には、緑が多い。


 住宅街に混じって森や畑が点在している。その草木の一本一本までを包む霞のように、剣豪・浅村良一の気は、道場を超えて、大きく、静かに広がっている。


 豪太の剣を「火」だとするなら、良一の剣は「水」だろう。


 水が一定の形を持たず、状況によって千変万化するように、良一の剣も相手の出方に応じて自在に変化する。このとき良一は頭で考えてはいない。何も考えなくても体が動く。そういうけんきょうを彼は「ねんそう」という言葉で弟子たちに説明していた。


 後の豪太は、相手との駆け引きを一切しない、ただ相手より速く、強く打つことで圧倒する一撃必殺の剣道を目指していくのだが、少年時代の豪太は「相手の隙をうかがう」ということを多少していた。相手の心の準備が整う前に打ったり、お互いが竹刀を構えて対峙する中で一瞬、集中が途切れる、その隙を突いたりしていたのだ。


 しかし、良一に対してはそれを一切しなかった。


(このおっさんに隙なんかできねぇ)


 と直観したのだ。


 ***


 どう、と突風が吹いて、霞が揺れる。


 剣道の合理性である「けん」。それとは無縁の豪太だが、霞の構えが、面以外の箇所を隠しつつ、面を竹刀で守る形になっていることは分かる。


 しかし、そんなことはおかまいなしに、いきなり、


 ドンッ


 と踏み込んだ。


 防御されれば、防御ごとぶった斬る。

 豪太は自らの目指すべき剣道をはっきりと掴んだ。


「うぉりゃぁぁぁあああああ!!!」


 と渾身の力を込め、上段から竹刀を真っ直ぐに振り下ろす。


 天から地までを切り裂くような一閃!


 竹刀のスピードが恐ろしく速い。並の剣士であれば、面を予想していたにもかかわらず、防御も回避も間に合わずに、この剛剣の餌食になったかも知れない。


 しかし、現代の剣豪はわずかにも動じなかった。


 左足はすでに斜め前に踏み出している。


 クロスさせていた左右の腕をほどくように水平に構えていた竹刀を回転させる。物打ちより鍔元に近いところで豪太の竹刀を受けた。


 ズガッ!!!


 と衝撃が良一の腕に伝わってくる。想像していた以上に威力は凄まじい。

 より深い角度で受けていたら、竹刀を押し戻されたかも知れない。


 しかし、豪太の剣は回転する円の表面を滑るようにして弾かれ、流れた。


 桜の花びらを巻き込んで渦巻く水のように良一の竹刀が美しい弧を描く。けんさばきとたい捌き、両方で攻撃の威力を殺しながら、豪太の竹刀を巻き落としていく。


 火がついた隕石は、ただの石となって落下した。


 そして、次の瞬間。


 ざん


 ウォーターカッターのように鋭い一撃が豪太の胴を斬り抜けた。


 しかし、これでは負けを認めないことが分かっている。良一は流れるように反転すると、残心を取るのではなく、再び上段に構えて面を打とうとしている豪太の喉を、


 とつ


 と剣先で貫いた。


 衝撃で体が吹っ飛ぶ。豪太はトットトッと後退しながら何とか踏みとどまった。

 しかし、再び顔を上げようとしたときに「あっ」と思った。


 凄まじい速さで良一の竹刀が眼前に迫っている。


 


 竹刀が折れるほどの諸手面だった。

 豪太は膝から崩れ、床でバウンドするほどの勢いで倒れた。


 ***


 野生動物が洪水に飲み込まれるようなあっけなさで、豪太は負けた。一瞬のうちに三本の有効打突を決められ、かつ戦闘不能にさせられる、完膚なきまでの敗北。


 それでも、立ち上がろうとした。

 しかし、脳を揺さぶられているために、真っ直ぐ歩けない。


 右へ左へ、フラフラと歩いて、良一の前でバタッと倒れる。


 道場内がしーんと静まり返った。


(先生、あまりにも大人気ない)


 と思ったのだ。

 

 しかし、良一は分かっている。


 豪太がほとんど意識を失いながら、まだ竹刀を握りしめ、自分に攻めかかってこようとしていたことを。ここまでしなければ、彼を止めることはできなかった。


(少年よ、強くなれ)


 豪太の背中に、良一は心の中でそう呼びかけてから、竹刀を納めた。


 ***


「豪太くん!」


 有里が駆け寄り、前のめりに倒れている豪太の体を仰向けにする。また目から涙がこぼれ、豪太の顔にポタポタと落ちた。それでにわかに意識を回復させた豪太は、


「……おっさん、待て」


 と背を向けて去ろうとしている良一を呼び止めた。


「俺は、いつか……お前を倒せる男になってやる!」

 

 良一はすでに面をはずしている。端正な口元をわずかに微笑ませて、


「そうか。だが」

 と言った。


「君が今の私を倒せるようになるまでに10年かかるだろう。そのとき、私は残念ながら、現役の剣士としては歳を取り過ぎている」


 その代わり、と続けた。


「君の前に立ちはだかるのは、私の娘かも知れない」


 豪太はその言葉を聞く前に意識を失っていた。


 浅村良一という名も3日で忘れた。


 ただ、こういう思いだけが胸に刻み込まれた。


(世の中にはつえーやつがいるなぁ)

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