第9話 「火」と「霞」

 上段は「火のくらい」と呼ばれている。


 胴をがら空きにする代わりに、攻撃、特に面打ちをしやすくする構えだ。中段から面を打とうとすると、竹刀を一旦大きく振り上げなければならないが、上段からはそのモーションが小さくて済む。特に体格で優る剣士にこの構えは向いている。


 といっても、豪太の身長はこの時点で170センチにも満たない。それに対して、良一は成人男子の剣士としては小柄であるとはいえ、174センチある。


 しかし、それでも。


 火の位に構える豪太と対峙した良一は、


(大きいな)


 と感じた。

 山とまでは言わないが、何か大きな生物と対峙しているような感覚がある。


 髪の毛までを逆立たせるようなエネルギーが内部からほとばしり、全身を包んでいる。豪太を初めて見たとき、道場内いる者たちは「獣のようだ」と思ったが、今、左上段に構える豪太と向き合う良一は、彼の中にもっと大きな生物を見出していた。


 鬼だ。


 一匹の鬼がこの少年の中には宿っている。


 ***


 良一は構えを変化させた。


 豪太に対して体を半身に(左肩を向けるように)構え、顔よりやや高い位置で腕をクロスさせるようにして竹刀を水平に掲げ、剣先を豪太の眉間に向けている。


 いわゆる「かすみの構え」だ。


 古流剣術の構えだが、現代剣道でも、左上段に対してこの構えを取る剣士はたまにいる(少なくとも「はっそうの構え」ほど珍しくない)。


 見るからに攻撃的な構えだが、剣道における利点は、むしろ防御にある。


 相手から見ると、右胴(向かって左側)が体の奥にあるため、狙いにくい。逆胴を打とうとすると、水平に突きつけられた竹刀が上段からは邪魔になる。右小手は竹刀の裏側にあるため、打てない。奥にある左小手を狙っても一本にはなりにくい。


 そして、面は高く掲げた竹刀で防御されている。


 上段に構えた剣士は、相手にこの構えを取られると、一瞬、どこを打てばいいのか分からなくなる。捉え所がないように感じる、ゆえに「霞」だ。


(どうする、豪太君)


 霞の構えは中段からなら崩しやすい。しかし、この気位の高い少年剣士は、一度取った左上段の構えを崩すような真似はしないだろうと思った。


 もっとも、良一の側には霞の構えを取らなければならない必然性はない。


 技でもスピードでも圧倒的に優っているのだ。変則的な構えを取らなくても、振り下ろされた竹刀をかいくぐり、面抜き胴でも決めればいい。


 良一がこの構えを取った理由は、剣道の合理性とは別のところにあった。


 豪太は「上段から面を打つ!」と宣言しているに等しい。

 それに対して、良一も「その面を竹刀で受けて返そう」と宣言したのだ。


 片手面でもあの威力。

 もろならどれほどの威力があるのか。


 それを竹刀で感じたい。その上で技を殺し、攻撃を返そう、と思っている。


 ***


 良一には、弟子たちから「先生の悪いところだ」と思われている癖がある。


 優れた剣士の原石を見つけると、磨いてみたくなるのだ。

 ほんのわずかな時間であっても。


 彼がこれまでに見つけた最高の原石は、自分の娘だった。


 彼女が生まれたとき、良一は「剣道はせんを制する者が勝つ」という意味を込めて、「先」の音にちなんだ「千」という名前をつけようとした。


 しかし、華道家である妻は「そんなお婆さんのような名では娘が可哀想です」と笑い、和紙に書かれた千の字にバツをつけ、隣にこう書いた。


さき


 良一は咲が物心つく以前から手に竹刀を握らせ、剣道に親しませた。


 驚くべき反射速度と敏捷性を持っている子だ。


 しかも、技の覚えが異常に早い。習った技をすぐ使えるようになるだけでなく、稽古の中で父や先輩剣士が使った技を瞬く間に自分の技とすることができた。


 良一が豪太と試合をしているこの時点で咲はまだ8歳でしかない。しかし、巻き上げのような複雑な技を含め、剣道のすべての技をすでに使いこなしている。


 天才・浅村咲。


 後に女子剣道界をせっけんする彼女は、良一が丹精込めて磨き上げた宝石でもある。


 そして今、彼はもう一つの原石を見つけた。


 それが豪太だ。


 あまりにも熱く、荒々しく、まだ原石ですらないかも知れない。

 天から降ってきた、火がついている隕石だ。


 それを素手で掴むように、良一は豪太の剣を感じてみたいと思っていた。



―――――――――――――――



 作者注


 霞の構えという名前の由来、捉え所がないように感じるから、という説のほかに、刀の切っ先(先端)を目に向けられているため、そこに意識が集中して相手が見えなくなる、頭部の急所である霞(こめかみ)を狙うから、などの説があります。


 霞の構えには上段・中段・下段があり、良一が取っているのはたかがすみ(上段霞)。


 戦国時代、甲冑を着て戦う場面では、目線を狙う高霞は有効な構えでした。現代剣道では、上段から打てる箇所を隠す効果があると(一部で)言われています。

 

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