第4話 日本一の剣士

 壮年剣士はまず豪太の怪我を気遣った。


「誰か、彼の傷の手当てを」


 しかし、それに豪太が反発する。


「いらねぇ。もう治った!」


 実際、血はすでに止まっている。一体、どういう体の仕組みになっているのか。壮年剣士は少し不思議だったが、すぐに他の者への気遣いへと思考を切り替えた。


「田上君、君は大丈夫か?」


「は、はい! 自分は何ともありません」


 それから、豪太を出迎えて面を打たれた不運な剣士にも声を掛け、全員無事であることを確認すると、「良かった」と表情をゆるめ、改めて豪太と向き合った。


「天童豪太君と言ったね」


「おう!」


「私がこの道場の責任者だ。私が相手になろう」


 壮年剣士がそう言ったことに、彼の弟子でもある警察剣道家たちが驚いた。


「そんな、剣道日本一の先生がこんなガキの相手をすることはありません!」

「私たちにお任せください!」


 その「日本一」という言葉に豪太が反応した。


「おっさん、日本一なのか?」


「昔の話だがね」

 と壮年剣士は淡々と答える。


「全日本選手権で優勝したことがある。それを日本一と言うなら、そうだろう」


 豪太は目を輝かせた。


「じゃあ、おっさんに勝ったら、俺が日本一ってことでいいか!?」


「ああ、かまわない。その代わり……」

 と言って、壮年剣士は初めて表情を厳しくした。


「私が勝ったら、君がこの道場に立ち入ることを永久に禁ずる。また、この道場に限らず、道場破りのような真似も二度と許さない。男と男の約束だ。守れるね」


「おう。いいぞ」

 と豪太は深く頷いて答えた。 


 ***


「では、防具をつけなさい。……誰か、この子に合う防具を探してきてくれ」

 と壮年剣士が言ったことに豪太が再び反発した。


「必要ねぇ!」


 壮年剣士がもう一度静かに、しかし、威厳に満ちた声で言う。


「防具をつけなさい」


 しかし、豪太は首を激しく振って拒否した。


「そうか。ならば、私はこうしよう」


 と言って壮年剣士が取った行動は、豪太の頭に血を上らせた。

 コトリ、と竹刀を床に置いたのだ。


「おっさん、何の真似だ?」


 と豪太が壮年剣士を睨み付ける。


「私は防具をつけていない君を竹刀で打つことはできない」


「おっさんが竹刀を持たなくても、俺は竹刀を捨てねーぞ」

 と言って、改めて中段に構える。


「かまわない。君の流儀とやらでいい。かかってきなさい」


 壮年剣士は胴をつけているが、面と小手はつけていない。

 その彼に向かって、豪太がいきなり竹刀を振り上げて飛びかかった。


 しかし、次の瞬間……。


 その場にいる誰もが、

「あっ」

 と目を疑うようなことが起きた。


 豪太の手から竹刀が消えてなくなっている。


 その竹刀は壮年剣士の手にあった。

 しかも、豪太の面を打つ寸前で止めている。


 さすがの豪太も驚いた。

 目をパチクリさせながら聞く。


「すげーな、おっさん。どうやったんだ?」


 ***


 これはいにしえの警視流柔術「つかり」という技だ。


 相手が刀を振り下ろしたとき、その腕を左肘でブロックしつつ、刀のつかを左手で、とうしんを右手で上から掴んで奪い取るのだが、動きが速すぎ、魔法のように見えた。


「教えたところで君にはできない。それに、これはだ。覚えても仕方がない」


 さらに、豪太に竹刀を返しながら、壮年剣士は言った。


「これで分かっただろう。君を倒すだけなら、私は自分の竹刀を持つ必要がない。もしどうしても道具を使えと言うなら、割り箸でも持とう。私はそれで君を倒せる」


 豪太は頭が悪い。しかし、侮辱されたことは分かった。


(この野郎!)

 と怒鳴ろうとした。


 が、できなかった。

 その言葉を口にするより早く、壮年剣士に一喝されたからだ。


「防具をつけなさい! でなければ、私は君と試合をしない!」


 すべては気迫と間の良さがなせるわざだ。壮年剣士は豪太に心理的な揺さぶりかけ、隙をつくりだした上で、気迫で圧倒している。


 豪太はせんを制され、怒声を発しようとしていたその口で、


「ちっ。分かったよ」


 と言ってしまった。

 自分らしくないことを言った、と感じながら。


 豪太はこのとき、生まれて初めて「人の威圧に負ける」という経験をしたのだ。


 ***


 壮年剣士は穏やかな表情に戻り、改めて言った。


「誰か、豪太君に防具を」


 田上が防具を持ってきて、それを豪太が身につける。


 この獣のような少年の乱入以来、嵐のように荒れていた空気はすっかり鎮まった。その代わり、壮年剣士の静かで威厳に満ちた「気」が道場内に広がっている。


 しかし、豪太はそれに完全に飲み込まれてはいない。

 防具をつけ、竹刀を握った彼は、元の怖いもの知らずな悪童に戻っていた。


 壮年剣士に向かって言う。


「おっさん、名前はなんつーんだ? 俺はまだ聞いてねぇ」


(あのガキ!)

(なんて無礼なんだ!)


 警察剣道家たちはいきり立ったが、壮年剣士は怒らない。

 穏やかな口調で、はっきりとこう告げた。


「私は当道場の筆頭師範、あさむらりょういちである」

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