第16話 私の生きる道
クヌギ林に囲まれた広場は、遊具のあるスペースを除くと、ちょうど剣道のコートほどの広さがある。涼介と祐介は、そのおよそ中央で向かい合った。
祐介には涼介が自分の竹刀を貸し、涼介は咲の竹刀を握っている。
2人とも防具はつけていない。
不良グループの少年たちは、ぽかんとした顔でブランコやシーソーに腰掛け、2人の勝負を観戦しようとしている。完全にただのギャラリーだ。ルール無用の乱闘からルールのある剣道に状況が移り変わり、さっきまでの熱が冷めている。
こうして見ると、彼らの顔にはまだあどけなさがある。
祐介がリーダーであることから考えても、全員17歳以下の少年だろう。
美羽は破れたブラウスの上からジャージを羽織っている。咲が貸してくれたものだ。2人は肩を寄せ合うようにベンチに座り、勝負を見守ろうとしている。
礼と
涼介が、
「それじゃ、始めるか」
と言って、2人はカチッと竹刀の
それが開始の合図だ。
***
2人の頭上に月がある。
ちょうど半分欠けた
涼介は不意打ちを警戒していたが、祐介はしなかった。
ブランクのある自分では、不意打ちをしても返り討ちに遭うだけだと分かっているのだろう。スッと間合いを取り、竹刀を上段に構える。
左足を前に出す(通常とは
中学までの剣道では、原則としてこの構えは認められていない。剣豪・浅村良一から指導を受けている咲も、高校に入学して早々、左上段の構えを取って涼介を驚かせたことがあるが、中学で剣道をやめている祐介は、いつ、このスタイルを習得したのか。おそらく見よう見まねでそれができる才能の持ち主なのだろう。
涼介が驚いているのを見て取った祐介は、いきなりダッと踏み込んで、飛び込み面を仕掛けてきた。涼介がそれを
次の瞬間、祐介が動きをピタッと止め、竹刀の軌道を変化させた。
剣先を時計回りに回り込ませ、涼介の左胴(向かって右側)を斬ろうとしている。
涼介は引いてかわす。と同時に、祐介の竹刀を打ち、続けざまに面を狙った。
パパンッ!
逆胴に対する、胴打ち落とし面。
しかし、涼介が打ったのは肩だ。祐介は首を傾けてかわしている。
剣道をしている祐介は別人のようだった。元々が素質に頼った剣道だっただけに、ブランクがあっても技術はさほど衰えていない、ということもあるのだろう。
(弱くはない)
と咲でさえ思った。
しかし、涼介はそのはるか上を行っている。
トリッキーな技を繰り出す祐介に対して、涼介は基本に忠実。オーソドックスな剣道に徹している。しかし、一つ一つの技のキレ、正確さがまるで違う。
勝負が進むにつれ、2人の力量差がギャラリーたちの目にも明らかになってきた。
「クソッ、クソッ」
と祐介の顔に子供っぽい
***
美羽は咲の隣で、その姿を見つめながら、あることを思い出していた。
祐介が、いいよね、6月の雨上がりの匂い、と言っていたことだ。
「夏が来るって感じでさ」
あの言葉はきっと本心から出たものだ。
だから、心が一時的に共鳴した。
この人はこの人なりに、と美羽は思う。
剣道が好きだったんだ。
そして、中学剣士としての最後の夏を楽しみにしていたのかも知れない。
しかし、自業自得ながら、その夏は祐介には訪れなかった。それから、祐介の心がどう変化していったのか、今の美羽には少しだけ分かる気がする。
寂しかっただろうな、と思った。
糸の切れた
祐介と再会したとき、美羽は今の自分に少し似ていると感じた。
実際、そのときは似ていたかも知れない。
でも、違う。
少なくとも、これからは。
***
あたしはもう逃げない、と美羽は決めた。
好きなものを「好きだ」と言うことから。
剣道に背を向けるようになってから、美羽は自分が剣道を好きだということすら否定しようとしていた。好きじゃないから、やめてもどうってことない。そう思おうとしていたのだ。
でも、これからは違う。何度でも「好きだ」と言ってやる。
高校剣士としての剣道は、卒業する。
これだけのことをしでかしたんだ。責任を取らなきゃいけない。
でも、あたしはやっぱり剣道が好きだから、これからは桜坂高校剣道部のみんなを応援する。咲を、涼介先輩を、沙織先輩を。みんなが全国大会で活躍するのを見届けるまで、ずっと、ずっと。やめろと言われたって、やめるもんか。
これからは、それがあたしの戦いだ。
***
祐介がダッと踏み込み、再び飛び込み面を仕掛けてきた。目で一瞬、涼介の胴を見る。しかし、竹刀はまっすぐ面に振り下している。
逆胴はそこを意識させるためのフェイクだったのだろう。普段は自分もそういう剣道を得意とする涼介は、その意図を見抜いている。
今度は手元を上げない。
美羽は今、涼介の身になって祐介の竹刀を見ている。
防具のない状態で面を打たれるのは怖い。
思わず目を
「敵の竹刀から目を離すな!」
という沙織先輩の声が耳に甦った。
最大のチャンスはリスクとともに訪れる。
自分の呼吸に攻撃を呼び込み、技を抜くのと同時に敵を斬れ。
涼介も、打つなら打て、と祐介の竹刀を見据えている。そして、面打ちを確信してから、右足を斜め前にスッと踏み出し、前傾姿勢になりつつ、竹刀を寝かせた。手首を柔らかく保ち、
飛び込んでくる祐介の竹刀をかいくぐり、ズバッと斬り抜けた。
(胴あり!)
お手本のような面抜き胴だ。
涼介は、祐介の中に巣くっていた夏の亡霊を叩き斬った。
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