第12話 桜坂公園、午後6時
「伊吹? あいつ今、桜坂の副主将なの?」
と公園内を歩きながら、祐介が言った。
「はい。知ってるんですか?」
「知ってるっつーか、中学んとき二度対戦したことがある。二度とも楽勝だった」
そう言って、中指で頬をかく。
きっと事実だろう。強豪・久科一中剣道部でも素質はずば抜けていると言われていた剣士だ。そんな経歴があっても不思議ではない。それに、涼介先輩が剣道を始めたのは中学に入ってからで、強くなったのは2年の秋からだと聞いている。
でも……。
「センスなかったな、あいつ」
と祐介があざ笑うように言ったとき、美羽は嫌な気分になった。
自分はもう桜坂高校剣道部をやめた身だ。涼介先輩とも何の関係もない。……そう分かっていても、目の前で先輩をけなされるのは、すごく悔しい。
そんな美羽の気持ちを察することなく、
「桜坂って言えば」
と祐介は続けた。
「今年、浅村咲が入ったじゃん?」
美羽は「あっ」と思った。最初から咲が目当てだったのでは、と思ったのだ。
「でも、紹介とかできないですよ」
と先手を打った。
しかし、祐介はまた鼻で笑うように言う。
「あー、そんなつもりはない。有名人だから名前を出しただけ。……それに、あの子、貧乳じゃん。俺、美羽みたいな胸大きい子がタイプなんだよね」
サービスとして言っているつもりかも知れない。美少女としても名高い咲を引き合いに出して、自分を持ち上げてくれている。
だけど……。
「俺、浅村咲より美羽の方が可愛いと思うよ」
と祐介が言ったとき、美羽は自分が軽んじられるより悔しかった。
2人の歩幅が違っていく。
くっつきそうだった2つの影が離れていく。
美羽の中に「自分より大切なもの」ができていた。
***
桜坂公園は広い敷地を持っている。入口から通路を進んで、噴水広場から右に曲がると、武道場やテニスコートなどがあるエリア、左に曲がると、武蔵野の自然を再現した
午後6時に公園の入口で落ち合った後、美羽は無意識的に武道場のある方へと足を向けようとした。剣道部の練習で行ったことがあるエリアだ。ところが、その手を祐介がグッと引っ張り、雑木林のある方へと導いた。
2人はその奥へ奥へと進んでいる。
夏が近い。
草と土の匂いが、熱気とともにムッと立ち込める。
公園内の古ぼけた時計が午後6時半を指している。
日の入りにはまだ少し早いが、西日が雑木林に
2つの影がすっかり闇に消えた頃、祐介が言った。
「歩き疲れたでしょ。休まない?」
クヌギ林の中にある小さな広場。そこに2人掛けのベンチがあった。
「そこ、座ろう」
「あたしは疲れてないです」
と美羽は言ったが、祐介が手を引っ張って強引に座らせた。
フィラメントの切れかかった電灯が、遊ぶ子供のいない遊具を照らしている。
生暖かい風が吹いて、ブランコを揺らした。
この人は、と美羽は気がついた。
やっぱりバカじゃない。賢い。悪い意味で。
***
最初からここに連れて来られると分かっていたら、美羽はついて行かなかっただろう。桜坂高校剣道部員の話が、美羽の気を逸らす「まやかし」になっていた。
「あたし、帰ります!」
と言って立ち上がろうとしたとき、
ガンッ
と強い衝撃を感じ、美羽は地面に倒れ込んだ。
目の前で星がユラユラ舞っている。
キーンと耳鳴りがする。
殴られた、と自覚するまでに時間がかかった。
「え、え?」
口の中に血の味が広がっていく。
さらに祐介は、混乱する美羽の
「お前、何言ってんの?」
と言った。
人なつこい笑顔だ。
しかし、目が氷のように冷たい。
「ここまでノコノコ着いてきて。俺に恥かかせんなよ」
美羽は中学時代、顧問の先生が祐介について言っていた言葉を思い出した。
(あいつは天才だな)
と呟いた後、先生はこう言ったのだ。
(……だが、キレると何をしでかすか分からんやつだ)
「キャーーーッ!!」
と叫んだ。
祐介はその美羽の襟首を引っ張って立たせると、ドンッと突き飛ばし、再びベンチに座らせた。ブラウスのボタンがはじけ飛ぶ。
顔を上げたとき、美羽はさらにハッとした。
いつの間にか数人の男に囲まれている。
店にたむろしていたグループだ。
逃げなきゃ、と思った。
でも、足がガクガク震えて、体が動かない。
(誰か、助けて!)
と叫ぼうとした。
しかし、祐介はその美羽の口を手でふさぐと、耳元で
「誰もお前なんか助けにこねーよ」
煙草の匂いと混じった男物のフレグランスが香る。
美羽を取り囲む男たちがニヤニヤ笑っている。
悔しい、情けない……。
(お母さん)
不意に母親の顔が目に浮かぶ。
(……ごめんなさい。あたし、バカです)
***
美羽の目から涙がこぼれた、その瞬間だった。
パーンッ!
と竹のはじける音がしたかと思うと、祐介がギャッと後頭部を押さえてのけぞった。さらに、美羽を囲んでいた男たちも次々にうずくまっていく。
パンッ、パンッ、パパーンッ!
白いブラウスの背中にポニーテールが揺れる。
(咲……!)
浅村咲が竹刀を構えて立っていた。
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