第9話 あはれにうしろめたけれ

「……とまあ、このように『源氏物語』にひんしゅつする古語の『うしろめたし』という言葉には、現代語の『後ろめたい、気がとがめる』という意味だけでなく、『心細い、先行きが不安だ』といった意味もあるわけです」


 と頭の禿げ上がった国語の教師が説明する。

 退屈な5限目の古文の授業中。


 こんなときでも、咲は背筋をピンと伸ばして座っている。

 白いブラウスに少しだけ汗がにじんでいる。


 その背中を美羽はシャーペンのキャップでツンツンとつついた。


「ん?」

 と振り返った咲にメモを渡す。


  あたし、彼氏ができるかも。

  金曜日の午後6時に桜坂公園で待ち合わせ。

  そこで、たぶん付き合う♡


 ***


 再会の握手を交わした翌日にも、祐介は美羽のバイト先にやってきた。今度は仲間と一緒ではない。いつもより少し真面目そうな服装をしている。


「昨日はゴメン」

 と意外にしんみょうな面持ちで言った。


「いえ、あたしの方こそ……」


 まだバイト中だ。あまり長くは話したくない。


「チーズバーガーセット」

「はい?」

「今日は客として来た。ドリンクはコーラで」

「あ……はい。店内でお召し上がりですか?」


 間もなく出来上がったチーズバーガーセットをむさぼるように食べると、祐介はレシートの裏に何かを書きだした。テーブルの下で長い脚を組んでいる。


 その姿を見つめながら、

「やっぱり、ちょっと格好いい」

 と美羽は思った。


 少しだけ涼介先輩に似ているかも知れない。

 中学時代はもっとせいかんな顔つきをしていた気がするけれど。


「これ、読んで」

 と渡されたレシートには、荒っぽい字でこう書かれていた。 


  お前が好きだ

  金曜6時に桜坂公園の入口で待ってる


 美羽は、うん、とうなずいて、それを折りたたみ、ポケットにしまった。


 ***


 受けるにしても断るにしても、嬉しいことであるはずだ。レシートで告白されるというのは、美羽がバイトを始めてから密かに憧れていたシチュエーションでもある。しかも、相手は中学時代に「天才」と言われていた剣道部の先輩。


 なのに、どうしてだろう?

 こんなに心細くて、不安なのは。


 ***


 剣道部に顔を出さなくなってから、美羽は学校で孤立していた。


 その日の授業が終わると、図書館に行って時間を潰す。すぐに下校すると、剣道場や体育館へと向かう部員たちと鉢合わせる可能性が高いからだ。


 読みたくもない本をパラパラとめくり、時々、カーテンに隠れながら、外の様子をうかがう。

 練習開始から1時間ほど経つと、外で行う準備運動が終わり、館内での打ち込み稽古や切り返し稽古に入るはずだ。そのタイミングを見計らって下校する。


「面ッ、胴ッ、小手ァーッ!」


 剣道場の近くを通るときは、胸が痛んだ。つい最近まで仲間だったみんなが、遠く、偉い人たちのように思える。それに比べて、と美羽は思った。


 あたしは弱い。


 弱くて、小さくて、ずるい。


 その後ろめたさから逃れるようにバイトを始めた。

 そして、自分がヒロインにもなれる場所を見つけたはずだった。


 なのに、どうしてだろう?

 こんなに寂しいのは。


 ***


 今、祐介との約束を咲に伝えた理由も美羽には分からなかった。


 自慢したかったから?

 それもあるかも知れない。でも、それだけではなく……。


「大園」

 と頭の禿げ上がった教師が呼ぶ。


「あ、はいっ」

「次、読んで」


「えーと、あの……。すみません、聞いてませんでした!」


 クラスの男子たちがどっと笑う。


 風が強い日だ。

 窓の外で、白いビニール袋がクルクルと舞っている。


 美羽は無意識的に自分をどこかにつなぎ止めておこうとしていた。


「ったく、しょうがないやつだな、大園は」


 再び教壇に注目が集まった隙をついて、咲がメモを返してきた。

 たんせいな字で、こう書き加えられている。


  上手くいくといいね。

  でも、気をつけて。

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