第8話 ずっと前から好きだった

 その日のバイトが終わった後、美羽は祐介と街を歩いていた。祐介はバイクを押している。仲間を先に返し、バイトが終わるのを待っていてくれたのだ。


「最初、気づかなかったよ。美羽ちゃん、すっげー可愛くなってたから」

「そ、そうですか……。ありがとうございます」

「タメでいいよ」

「はい?」

「タメ口でいいよってこと」


 こんなに気さくな人だったんだ、と美羽は思った。

 中学時代にはあまりしゃべった記憶がないけれど。


「全然、俺のこと呼び捨てにしてくれていいし」

「でも……」

「それか君付けにして」

「じゃあ……祐介クン」


 それでおっけー、と祐介はおどけて見せた。


 ***


 いつの間に降ったのか、雨に濡れたアスファルトが街灯を反射させている。6月初めの生暖かい風が、夏服のブラウスからのぞく美羽の腕をでていく。


「いいよね、この匂い」

「匂い?」

「6月の雨上がりの匂い。夏が来るって感じでさ」

「あ、それ分かります」


 美羽も好きな匂いだ。

 一緒にいる人が、自分と同じ感じ方をしていることが嬉しかった。


 さっきバカっぽいと思ったの、撤回。


「美羽ちゃん、まだ剣道やってんの?」

 と祐介は急に答えにくい質問をした。


 正直に言うしかない。


「一応、まだやってるんですけど、やめようかなと思っていて……」


「なんで?」


 美羽はそれに答える代わりに同じ質問を返した。


「深町先輩……あ、祐介クンは、なんで剣道やめちゃったの?」


「あー、俺はね。剣道でヒーローになれないって気づいたから」

「才能あったじゃないですか」


「低レベルなところでやってるうちはね。でも、都大会で上位の選手とやるようになって、気づいたんだよね。俺、いくら練習しても、こいつらには勝てねーだろうなって。限界を知ったっつーの? だから、最後の大会の前にやめた」


 今のあたしと少し似ている。


「好きなの、剣道?」

 と祐介は聞いた。


「えーと、好き……なのかな」


 剣道をしていて、つらいことも嫌なこともたくさんあった。そもそも自分には、堂々と「剣道が好き」なんて言う資格はない気がする。


「やめちゃいなよ」

 と祐介はあっさり言った。


「美羽ちゃんには、もっと合ってること何かあるって」


 人なつこい笑顔だ。

 それにつられるように美羽は、


「やめちゃいますか」

 と笑った。


 言ってしまってから、胸がキュッと痛んだ。


 ***


 2人はいつしか橋の上に差し掛かっている。


 ここからは美羽の自宅が近い。そこまでついてこられるのは怖いから、

「あたしはここで」

 と言って、早足で去ろうとした。


 しかし、その手を祐介がギュッと掴み、振り向かせる。


「美羽ちゃんち、門限厳しいの?」

「そうでもないですけど……。お母さんの手伝いをしなきゃいけないし」

「いいじゃん、そんなのどうでも」


 それから、祐介は不意に真剣な目をして言った。


「俺、中学のときから、ずっと美羽のことが好きだった」


 呼び捨てになっている。

 それに、さっきは名前を忘れてなかったっけ?


 でも、嬉しかった。


「嘘だぁ?」

「マジ、ほんとだって」


 川から立ちのぼる霧がらんかんの灯りをぼんやりときらめかせている。


「好きなやつ、いるの?」

 と祐介は意外に弱々しい声で聞いた。


 一瞬、涼介先輩の顔が目に浮かぶ。でも、涼介先輩には咲がいる。


 ううん、と首を振った。


 人から興味を持たれること、認められること、好意を示されること。

 その嬉しさを、美羽は今、恋心と錯覚している。


「じゃあ、俺と……」

 と言って、祐介が美羽をグッと引き寄せ、腰に手を回す。


 さすがに剣道をやっていただけあって力が強い。

 男物のフレグランスがふわっと香る。


「あっ」

 と思ったとき、美羽は反射的に祐介を突き飛ばしていた。


「……ごめんなさい」


 はぁはぁ、と呼吸が荒くなっている。


「今日は帰ります!」


 そう言って軽く会釈をし、一目散に駆けていく。その背中を見つめながら、祐介がニヤリと笑ったことに美羽は気づいていなかった。

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