第4話 さよなら、剣道

 5月の半ばの練習後、美羽は片倉沙織による居残り指導を受けていた。


「最近、練習に身が入っていない」


 というのだ。


 入るわけないじゃん、と美羽は思う。


 美羽は咲だけでなく、他の1年生部員にも勝てなくなっていた。

 桜坂高校剣道部でいちばん弱い剣士、それがあたしだ。


 かつて剣道部のヒロインだった沙織先輩は、今や完全にその地位を咲に奪われている。それでも、全国的に名前を知られている剣士だし、練習熱心で仲間思いな性格も手伝って、後輩たちからも慕われている。主役級ではないとしても、彼らを温かく見守る重要なサブヒロインといったところに収まっている。


 その沙織先輩に、モブですらないあたしの苦しみが分かってたまるか。


 圧倒的なヒロインがいつも身近にいるために、ただ存在しているだけで心のHPをガンガン削られていく。そのつらさが分かってたまるか。


 ***


 居残り指導は「しょうげい」だった。


 桜坂高校剣道部の独特な練習法で、試合形式で行う「試合稽古」に似ているが、時間・本数の制限がない。どちらかが「参った」と言うまでゆうこうとつを奪い合う。


 といっても、実力差がありすぎるから、あたしが一方的に打ち込まれる展開だ。それでも、一本でも取ることができれば、自信になる……と沙織先輩は考えてくれたのかも知れないけど、今のあたしにそんな心の余裕はない。


「休むな、大園!」

 

 と沙織先輩は練習中だけ厳しい口調になる。


「敵の竹刀から目を離すな!」

「手首が硬い!」

「抜くだけじゃダメだ。同時に斬ることを考えなさい!」


 次々に弱点を指摘しつつ、鋭い打突を繰り出してくる。


 沙織先輩に打たれ、突かれ、押し飛ばされる。そのたびに、そんな気はないと分かっていても、こう言われている気分になる。


 お前は弱い、お前は弱い。


 ***


 居残り指導が終わったときには、心も体もヘトヘトに疲れていた。


 早く家に帰りたい。


 ところが、更衣室で着替えて体育館を出たとき、雨が降り出していた。ゴロゴロと雷が鳴って、今にも本降りになりそうだ。


 でも、大丈夫。こんなときのために折りたたみ傘を教室に置いてある。


 それを取りに戻ろうとした。控えめに蛍光灯がつけられた薄暗い廊下を歩いていく。そして、教室の前まで辿り着いたとき、美羽はハッとして固まった。


 暗い教室の中に誰かいる。

 手前にいる一人は後ろ姿ですぐ分かった。


 涼介先輩だ。


 奥にもう一人いる。

 ピカッと稲妻が光り、その横顔が見えた。


 咲だ。


 胸がドキドキする。


 よく見ると、涼介先輩は咲の肩のあたりを掴んでいる。

 咲はキッとした目で涼介先輩の顔を見上げている。


 こんな時間に、暗い教室で、2人は何をしているんだろう。


 そんなこと、考えたくない。


 わざわざ1年の教室に涼介先輩が来て、咲と会っていた。

 その事実だけで十分すぎる。


 美羽は2人に気づかれないように、来た道をそっと引き返した。

 そして、教室が遠ざかると、薄暗い廊下を走って逃げた。


 なんで逃げてるんだろう?


 そりゃ逃げるよ。

 圧倒的ヒロインがモブですらないあたしにトドメを刺しに来たんだ。


 下駄箱で靴を履き、校舎の外に出ると、雨はザーザー降りになっていた。

 びしょ濡れになりながら、駅へと向かう坂道を駆けていく。


 途中で気が付いた。


 あ、傘持ってくるの忘れた。


 でも、そんなこと、どうだっていいや。


 あたしなんか死ねばいいんだ。ていうか、死ねよ、あたし。

 存在する価値がないんだから。


 さよなら、涼介先輩。


 さよなら、あたしが好きだった剣道。


 美羽は大雨の中をボロボロ泣きながら走った。

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