「父さま、今日はネ、かしわを入手致しましたの。今朝、江戸橋の袂に屋台の鳥屋ができてネ、ずいぶんお安くして頂いたのヨ、ほら、ご覧になって」

「江戸橋? おゆきはお買い物にそんな遠い場所まで行くのか。お腹の子に差障りがあっては大変じゃないか。だめだぞ。鳥屋なら両国にあるじゃねえか」

「それ、奥羽屋のこと言ってるの? あんな高いお店、お父さまのお給金では鶏皮ぐらいしか買えやしないわ。それに、近所の方から、産前はよく歩いたほうが良いって言われているんです、そのほうが母子ともに健康に産むことができるのですって」

 娘の屈託のない言葉に、なるほど、そうですか、と納得の返事をして見せる。母子ともに健康、と聞かされると、兵衛には返す言葉がない。ゆきの母、つまり兵衛の妻であった志乃は、ゆきを出産したときに死んだのである。十八年前のことだ。以来、兵衛は男手ひとつで愛娘のゆきを育てた。故郷信州の雪のように肌の白い子供だった。妻に先立たれた兵衛にとって、隠密役として暗殺の仕事をすることはなんの抵抗もなくなっていた。むしろ、一人娘になんの苦労もさせずに養育するのに、余分に金が欲しかったから、俸禄が増えるということだけでも隠密役を引き受ける価値があった。三十俵二人扶持では、振袖も新調できない。兵衛が殺しの仕事をするようになってすでに十二年が経つ。奪った命は百や二百ではない。

 ゆきの手招きに誘われて兵衛が台所を覗き込むと、なにやら鶏肉に藁を被せて焼いている。脂の乗った鶏肉の良い匂いがする。

「かしわの蒸し焼きよ。いい匂いネ」

「蒸し焼きか」

 昨晩、舟の上で六人、女郎屋で四人、人を蒸し焼きにしたばかりである。兵衛は鼻と口を手で押さえ、眉間にしわを寄せて鳥の焼けるさまを見入った。美味そうだな、という言葉はついに出てこなかった。



 隠密成敗役というのが兵衛の裏の肩書である。これは、非常時に編成される火附盗賊改方では対応のできない、諸藩や寺社による謀反や私利目的の悪事に対して、隠密に元凶を絶やすことを目的に公儀直属で編成された役目である。その存在自体、奉行所内でも秘匿されていて、誰も知らない。構成員自身も、詳細は知らされていない。わかっているのは、深く知れば命がなくなる、ということだけである。兵衛自身は、妻の志乃が死んだのちに奉行所から内密の下命があった。

 仕事は必ず二人一組で行う。これは、仕事を助け合って遂行するというよりも、お互いの行動を監視させる意味合いが強い。失態や怠慢、不義を見つければすぐに上役に上申される。そうなれば粛清の標的にされる。上申の内容について、本人が裁きを受けたり切腹を迫られることはない。疑われた者は何も知らされぬまま、一定期間生活を見張られ、暗殺される。逃亡を回避するためだ。

 次の仕事を下知されたのは、十日ほど後のことだった。内容は、ある大店の一族・使用人を全て抹殺、家に火をつけてすべて燃やすというものだった。

 子の刻の鐘きっかりに兵衛たちは集まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遺恨 射矢らた @iruya_rata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ