遺恨

射矢らた




 人はいさ心も知らずふるさとは

     花ぞ昔の香ににほひける  

    小倉百人一首第三十五番 紀貫之







「……さみいなァ。こう寒くちゃあ、巧く動けるかわかったもんじゃねえや」

「何を言ってる。おめえ、足手纏いになるなよ」

 しゃがみ込んで丸めた両手にはあはあと息を吐きかける弥太郎やたろうを見下ろし、兵衛ひょうえは小さく言い放った。弥太郎は、わかってら、と言って今度は頻りに揉み手をする。弥太郎の緊張が伝わってきて、兵衛は思わず背筋を伸ばした。弥太郎の言う通り、手がかじかんでいては仕事にならない。兵衛も立ったまま拳を何度か閉じたり開いたりして温めてみた。

 十月とはいえ、今晩はめっきり寒かった。夜の川べりは日中の暖かさを失ってすっかり冷え切って、あたりには霧さえ出ていた。昼間から曇っていた空には星が数えるほどしか出ておらず、雲間に高く下弦の月だけが煌々と輝き、川面にその姿を落としている。市中から離れたこの場所では、明かりになるものは月だけだ。町の喧騒とも無縁、聞こえるものは川のせせらぐ音のみである。しばらくして、瀬の中ほどでぱしゃ、と魚がはね、きらりと銀色の腹が見えた。

「船頭にはなんて言ったんだい。うまいこと言ったかい」

「どうしても談判したい儀がある、他人に聞かれちゃまずいから、町からこっそりと離れてくれとな。前金に二両渡した。仕事が終わったら三両渡すと言ってある」

「なるほど。てめえが五両貰えりゃ客の身に何が起きても構わねえってか。その船頭も大したやつじゃねえや」

「なに、俺ァ談判をすると言っただけだぜ」

「けっ、」

 何か言いかけた弥太郎が、きっと顔を上げ、遠くあづま橋のある方向を見遣った。

「来やがったんじゃねえか、おい」

 唸るように、低い声で弥太郎が言った。兵衛はすばやく蒲の穂より低くしゃがみ込み、弥太郎のいう方角に目を凝らした。一艘の屋形舟が町の明かりからゆっくりと切り離されたのが見えた。

「あれだ。よし、出すぞ」

 兵衛はそう言って、岸に着けていた猪木舟ちょきぶねを川へ押し出し、飛び乗った。弥太郎も後に続く。船には「蕎麦しる粉」と書いた箱看板と、油樽、大量の藁を積んである。

「うろうろ舟ェ。そばに、おしるこ。あまい桃もござあい」

 商人の掛け声は兵衛の得意技である。屋形船に近づき、船頭に声を掛ける。

「船頭さん。中のお人に、おひとつ声掛けてやっておくんなせえ」

 船頭は半ば面倒臭そうにしながら辺りを見回し、約束の舟がまだ来ないとでも思ったのか、被った手拭いの上から頭を掻きながら中へ入っていった。すぐに、御家人風の武士が二人、箱島田の遊女を抱きかかえながら顔を出した。

「だんな。今宵はご機嫌で。温かい蕎麦でもいかがです。女の方には、都のかんざし」

 京のかんざしと聞いて遊女ふたりは嬌声を上げた。御家人たちはやれやれ、といったふうに顔を見合わせるが、まんざらでもないようだ。

「まったく、こんな場所まで抜け目のないやつだ。かんざしを並べてみろ」

「へい、もう舟遊びも最後の時期ですから、あっしらも大慌てで。ではそちらの舟が明るいようですから、そちらへ参ります」

 兵衛と弥太郎は舟のへさきを結えたのち、木箱を抱えて屋形船に移った。仕事はあざやかに片付いた。酒に酔った御家人二名、肌も露わな遊女二名はそれぞれ胸をひと突き、船頭は、慌てて逃げようとしたところを後ろから引き倒し、喉を掻き切った。

「こんな狭い場所じゃ脇差だろう。やつら、刀ァ抜こうとしてたが、無駄だ」

 二人で乗ってきた猪木舟から屋形舟へ油樽と藁を運び込んだ。証拠の残らぬよう、船の上っ面を焼くのである。

「それにしても、最近仕事が増えてねえか。ちょっと目に余るとなりゃすぐ始末じゃねえか。いったいお上は何をお考えなのかねえ」

「ああ。……おめえもらしいぞ」

 言うなり兵衛は弥太郎の左の袂をはね上げ、脇の下に脇差を横一文字に突き入れた。刃は肋骨の間を通って肺へ深く入った。弥太郎は、あっ、と言って飛びのいて払おうとしたが、脇差を突き立てたまま船べりにぶっ倒れた。

「ひぃいいい、てめえ、何しやがる」

「弥太郎、おめえ半月前にこの仕事のこと品川の岡場所で漏らしただろう、江戸から離れてりゃいいってもんじゃねえ。今晩はおめえの処分も仰せつかってたんだよ」

「ま、待てっ、待てよ、もう言わねえ。わかったっ、江戸を出る」

 命を乞う弥太郎の涙を浮かべた瞳が月の光を受けて虚しく青く光った。兵衛はその眼を塞ぐように弥太郎の顔を左手で押さえたのち、右手に全身の力を込め、弥太郎のからだに半分ほど入っていた脇差の刀身を心臓の位置を確かめながら全てうずめた。

「ぐううううううふうふうううううう」

「成敗役の掟はわかってるだろう。死ぬ間際まで騒ぐな」

 弥太郎が兵衛の右手を握りしめて爪を立てた。兵衛が鍔の根元まで刃をにじり入れると、弥太郎は蟹のように血の泡を吹いて苦悶していたが、やがて絶命した。

「おめえの軽口のせいで相手の女郎も死ななきゃならねえ。あの世で謝れ」

 兵衛は弥太郎と船頭の死骸を屋形の中のほかの骸のころがる場所まで引きずって動かし、それぞれに藁を被せ、上から油を撒いた。それから首を伸ばしていったん自分の舟を確かめ、懐から紙を取り出し、火を点けて放った。

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