アレックス・ベッケンバウアー
これは、アレックス・ベッケンバウアーの物語。
ベッケンバウアーは月面基地の自室で地上から数秒遅れで送られてくる大統領選挙の動向を固唾をのんで見守っていた。
アンダーソン大佐の救出が成功してしまった時点でベッケンバウアーのキャリアは絶たれていたが、次期大統領が誰になるかによってその追及の度合いは変わることを彼は理解していた。別の部屋では月面基地司令官が同じようにニュースを見ているだろう。
「うぁ~・・・」
ベッケンバウアーはうなった。考えうる限り最悪な候補者の当選が確実になってしまったのだ。もっともこの結果は想定済みだった、評価の高かった前大統領の政策を踏襲する正統派候補者であり、さらに直前に事故に遭ったメリフラワー号からアンダーソン船長を救出するという難事を航空宇宙局長官として指揮したのだから評価は上がって当然だった。
その後の出来事は想定内であった。ウィンプス大統領就任からまもなくして、司令官とともに地球へ帰還するように命令され帰還すると特設査問委員会の尋問を受けることになった。想定内であったから対策も打てた。司令官と口裏を合わせる時間があったのである。保身に目覚めていた司令官を説得するのはとても簡単だった。そして迎えた特別査問委員会。
ベッケンバウアーは打ち合わせ通りに受け答えをした。査問委員会の委員は有罪の結論ありきの誘導尋問を行ってきたが、前大統領を敵に回したせいで経験豊富な査察官が使えないこともあってその手口はベッケンバウアーから言わせれば「ぬるい」ものだった。査問委員会の手口を知り尽くしたベッケンバウアーにとって誘導尋問など問題にはならなかった。
そして査問委員会は予定された日程を大幅に超過したうえで最終日となった。
「査問委員会としての結論を読み上げる」
委員長が眉間にしわを寄せながら手元の書類に目を落とした。
この時点でベッケンバウアーは自らの勝利を確信して口角を吊り上げた。
「査問対象者、アレックス・ベッケンバウアーには本委員会で審議すべき過失は見当たらず、今後の処遇は人事部長に一任する」
その日、ベッケンバウアーは笑みを隠そうともせずに本部ビルを後にした。
最終的に下された処分は人事部長付き予備要員という事実上の処分であったがベッケンバウアーは懲戒免職以外なら何でもよいと思っていた。
それから始まった毎朝人事部のフロアに行き、隅の机に座り忙しく働く人事部職員を観察して夕方に仕事が終わるめどの立たない人事部員をしり目に帰宅する日々は、当然ながら人事部員から白い目で見られたがベッケンバウアーは一切気にしなかった。
そんなベッケンバウアーが初めて狼狽したのは人事部長付きになってから2年がたったころだった。
いつものように人事部にあるデスクに行くと一枚のメモが置かれていた。
「またいたずらかな?」
器の小さい人事部員からの嫌がらせを楽しんでいたベッケンバウアーはメモ帳を捨てようとしたが、ふと目に入った署名が捨てるのを躊躇わせた。
「いたずらに署名を入れる奴は初めてだ」
そしてその内容は署名入り誹謗中傷を上回る衝撃を彼に与えた。
「本日午前10時に人事部長執務室に出頭するように要請する。人事部長ジャック・バレンタイン」
2年間単調な毎日を過ごして初めての経験だった。
そして10時に人事部長執務室を訪れたベッケンバウアーを待っていたのは人事部長ともう一人、チェックシャツを着崩した若者だった。
「紹介しよう、こちらは火星開拓プロジェクトの主任、リックだ」
若者は聞き取るのが困難なほどの早口で火星開拓プロジェクトの概要や技術的ないろいろなどを熱く語ってきた。法律が専門のベッケンバウアーには半分も理解できなかったが。
若者が水を飲むわずかの合間を見逃さずに人事部長が1枚の書類を差し出してきた。
「部長、これは?」
「君が新しい配属先に移るにあたっての契約書だ」
「火星開拓団法務担当?」
「適任だろ?査察官として長期間の宇宙滞在歴があって長期の赴任ができる人材は貴重だからな」
「長期というのはどれほどでしょうか?」
「ここにも書いてあるが、基本は10年だ、人事部長の判断で5年の延期が5回までできる契約になっている」
「最長35年ですか・・・」
ベッケンバウアーは鼓動が早まるのを感じていた。
「嫌かね?」
人事部長が不安げに尋ねてきたが、ベッケンバウアーの答えは決まっていた。
彼は2年ぶりにペンを取り出すと、書類の署名欄にはっきりと「アレックス・ベッケンバウアー」と書き込んだ。
のちの歴史家は次のように書いている。
「歴史において、IFを論じることほど非生産的なことはないが、私はこの時ベッケンバウアーが怖気図いていればと考えずにはいられない」
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