オペレーション・ボストン

月面基地総司令官は呼吸を落ち着かせようと深呼吸に取り組んでいた。

いつから自分はこんな小心者になってしまったのだろうか?と考えるが、思い当たるのは査察官の来訪のみであった。

今までの司令官は、実務家で政治への野心は無く、政治と距離を置くが故に月面基地や非主要の外国の駐在官など中央から離れた職に多く就いていると思われていたし、本人もそのつもりであった。しかし、査察官と話しているうちに彼の心の中に湧き上がって来るものがあった。

早い話が、出世したくなってしまったのだ。

「長官、お久しぶりです」

声が引攣らにように努力しつつ呼びかける。長官が直々に月面と連絡を取るのは新年の訓示くらいであろうか。

長距離通信独特の間が司令官の鼓動を速めた。

『職務ご苦労、司令。早速だがそちらの状況を報告してほしい』

「月面基地では、越権行為を行った職員14名を更迭ののちに拘束いたしましたが、職務に異常はきたしておりません。技術部門長を中心に行われていた越権行為は現在中断されております」

『なるほど、分かった。では私から最終決定を伝えよう』ウィンプス長官は息を吸うと続けた。『先ほど、民間の技術者からメリフラワー号の望遠映像に船外作業由来である可能性の高い影が写っているとの連絡があり我々の技術者陣でも確認した。よってエンタープライズ号を救難艇ブースターとして転用する救助作戦をボストン作戦と命名しこれを発令する。必要な措置は貴官に一任する、以上だ』

通信は切れたが、月面基地司令官は立ち尽くしていた、彼は喉の渇きに苦しみ、もし重力が弱くなければ倒れ込んでいただろう。

しかし、すでに己の信条を政治家に売り渡し出世を欲してしまった彼に選択の余地は無かった。

「ここで命令違反をすれば出世の道は閉ざされる…」

査察官は見殺しにしろと言うが、彼にはなんの権限もない、強いて言うなら大統領の命令で動いているだけだ。査察官に逆らっても良くない報告をされるだけだが、司令官の正式な命令に逆らったら即時左遷、悪ければ職務規定違反で免職もありえる。



彼は命じた。


「キャシー・ヤン技師他13名の拘束を解除、全員を復職させたのち彼らにボストン作戦の遂行を一任する」



驚いたのは、アレックス・ベッケンバウワー査察官であった。

「なぜだ…」

彼の脳内では数週間か前の出発直前に密室で大統領と交わした言葉が反芻されていた。

決して記憶違いではない。「ウィンプス長官と大統領は呼応してメリフラワー号は見捨てられる」そう大統領は言った。

いくらベッケンバウワーが念じたところで、手元にあるウィンプス長官が発令したボストン作戦の概要が印字された紙の内容が変わるわけではなかった。

ベッケンバウワーはぐったりと壁に背中を預けて、手に握られた紙をくしゃくしゃにした。



ベッケンバウワーとは対照的な驚き方をした人物もいた。

キャシー・ヤン技師、改めて技術部門長だ。

「さっき有無を言わさず拘束しておいて、掌を返したように釈放とは勝手なものね」

「…」

警備隊員は背筋を伸ばしたまま何も言わないが、彼らは司令官の命令に従っただけだ。

「まあいいわ、お互い仕事だしね」

そう言うと、キャシーは歩くのももどかしく壁を蹴るようにコントロールルームへ移動していった。コントロールルームには司令官も査察官もいなかったが、問題は無かった。

『救出可能限界まであと9分、ソフトウェア全工程終了済みです』

無線から入った報告に思わず頬を緩めたキャシーはさらに呼びかけた。

「他の工程は?」

『接続作業、間に合いました』

『軌道算出終了、いつでも打ち出せます』

『救援用機材積み込み完了しています』

「全システムグリーン、いつでも発射できます」

いつのまにか傍にいたアケミがコンソールを見つめながら言った。いつもは感情が読めないが、この時は明確な高揚感が伝わってきた。

「船外作業要員以外はドックから退避せよ」

『船外作業要員以外の退避を確認』

「ドック内減圧開始」

『ドック内減圧、800、700、600、500、400、300、250、200、150、100、50、』

気圧計の値が淡々と読み上げられるごとにコントロールルームの空気が異質なものへと変わっていく。

「ドック開放」

『ドック開放します』

『軌道上に障害物を認められず』

「了解、エンタープライズ、ロック解除」

『ロック、解除されました』

「了解、これよりボストン作戦を始動する。リフトオフ!」

『リフトオフ』


全ての職員がモニターを注視し一言も発しないことで生じる沈黙が、基地を支配した。


『エンタープライズならびに救難艇の正常な航行を確認、軌道に乗りました』


喝采が基地を包んだ。


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