査察官

時を遡る。

その男が、メリフラワー号が急に加速を開始したという報せを聞いたのは地球月面往還シャトルが月に向けて減速を開始したときだった。

男の名はアレックス・ベッケンバウワー、その名の通り大陸からの移民の子孫だ。ベッケンバウワーは査察官という役割を与えられて月面に赴こうとしていた。赴任するにあたって任命者たる大統領から与えられた特命は、狭く薄暗いシャトルの雰囲気と相まって陰鬱な気持ちを呼び起こすには十分なものであったが、幸い彼には出世のためにあらゆるものを割り切ることのできる強さを兼ね備えていた。

「ここまでは予定通りということですか?閣下」

ここにはいない人物に向けたメッセージが聞こえた人物はいなかったが、その冷淡なまでに落ち着いた雰囲気は、未曽有の巨大事故の予感に慌てふためく他の搭乗者の中でひどく浮いていた。


そして、時間はたった。

「司令官、状況を説明していただけますか」

ベッケンバウアーは月面基地のコントロールルームにて月面基地司令官に話しかけていた。

「査察官殿、緊急事態ですので自室で待機していただくよう頼んだはずですが?」

「これは失礼、しかし目下のところ差し迫った脅威はないようですので」

確かに、現在司令官がいる第一コントロールルームでは技術部門長の暴走をモニターすることしかしていなかった。そして司令官もその暴走を止める必要はないと感じていた。

「なるほど、しかしこんな時に査察を行うのもどうかと思いますが」

月面基地司令官は露骨に敵対的な声を出してきた。

「失礼ですが、司令官殿は少々勘違いをされているようですな」

「・・・」

司令官は査察官の言っていることが理解できずに続きを聞いてみることにした。

「私たちは敵ではありません、共通の事態に直面した仲間であり。場合によってはもっと積極的な友好関係を結べる可能性がある」

「それは、ベッケンバウアーさん個人の発言ですか?それとも大統領の意向を受けた発言ですか?」

「ベッケンバウアーという個人など取るに足らない存在です」

司令官は色めきだった。この発言は、査察官の発言はすべて大統領の意志が背後にあると明言したようなものであるからだ。

「なるほど。ですが私は軍の出身です。抽象的な会話は避けるのが性でして。執務室に移動なされますか?」

司令官は動揺を隠さないように気を付けながら言葉を紡いだ。

「では、お言葉に甘えて」


人払いをした司令官執務室で行われた司令官と査察官の会談は30分に及んだ。

この手の会談は決して珍しいものではなく通常2回行われる。査察官が赴任した直後と帰任する直前だ。内容としては、査察官が行う調査内容の説明とそれに伴う業務内容の調整といった実務的な内容もあれば、査察官を任命する大統領からのメッセージを伝えることもある。帰任直前に設置される会談では逆に司令官から大統領へのメッセージが託されることもある。別にメッセージなど定時通信にでもなんにでも乗せればいいではないかと思うかもしれないが、なかには記録に残ってはいけない類のメッセージというものがある。査察官はそんな、メモとしても残すことが危険なメッセージを口頭で、直接伝える役割をも担っている。


会談を終えた司令官は執務室から出る直前に聞いた。

「約束は守っていただけるんですね?」

「もちろん、私の言葉は大統領の言葉と思っていただいて結構です」

「わかりました、司令官権限の基地内人事権を行使しキャシー・ヤン技術部門長と解任します」

司令官はコントロールルームに戻ると、基地警備隊に通信室、救難艇整備ドック、エンタープライズ建造ドックの制圧を命じまた。もちろん宇宙基地において反乱など想定されていたわけではないが、軍出身の司令官も警備隊の隊員も完全に反乱部隊の鎮圧用の戦闘マニュアルに従って行動していた。とうぜん、所持している銃は月面基地内で発砲しても気密隔壁に損傷が出ないような暴徒鎮圧用ゴム弾であるが、作業を中断させるには十分な威力があった。

周到な警備隊は通信を遮断したため、通信室にいるキャシーは迫りくる脅威に気づくことはもちろん仲間に警告を発することすらできなかった。


そんななか、通常の1/6の重力での訓練を繰り返してきた基地警備隊はハンドサインのみの使い通路を疾走していた。普段の警備活動では濃紺の制服を着用する彼らは、いまは催涙グレネードや予備のゴム弾マガジンを固定したアーマーを着て、顔はヘルメットとガスますくで完全に覆っていた。

30人いる警備隊はコントロールルーム警戒の3人を残し、残りを9人づつの3チームに分けて各部の同時鎮圧を開始した。鎮圧といっても標的は武装はおろか反撃する気もない、もっと言えば襲撃されるなど夢にも思っていない善良な技術者たちだ。催涙グレネードを投げ込めば一瞬で片が付く。とはいっても、気密空間で催涙ガスをまき散らすのは彼らにとって最後の手段で、優勢な彼らは侵入にすら気取られずに背後に回って手錠をかけて回った。


実に迫力に欠ける戦いであるが、ここは戦場ではないただ命令違反を行い国有財産に損害を与える恐れのある職員を一時的に拘束しただけだ。

こうして、キャシー・ヤンのプランはついえた。

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