ウィンプス航空宇宙局長官
ウィンプスは後悔していた。
ウィンプスは航空宇宙局の長官である。
そして今、宇宙開発の未来、そして自らのキャリアを左右しかねない、いや間違いなく左右する事故に直面している身でもあった。
彼は人払いをした長官執務室を見渡した。人類の未来を体現するには少々似つかわしくないアンティークな調度品が目立つ。革張りのソファーに控えめな飾りが施された木製の家具たち。壁には歴代の長官の写真が飾られていた。一枚ずつ眺めて最後に数ヶ月後に自分の写真が飾られるであろうスペースを凝視する。最後に机の上に置かれた一枚の写真。これは家族の写真だった。それを見る。
これは、彼の儀式だった。長官として何かした大きな判断を下す時はこうやって自らの置かれた立場の重みを噛みしめる。
「やはり衝動的になってしまっていたか・・・」
メリフラワー救出の新案に対して反対したことには公開はなかった。アンダーソン少佐を英雄に仕立てる自信もあった。しかし同時に反対のやり方にもほかの方法があったのではないかと悩んでいたのだ。
「少なからず敵を作ってしまったな。少なくとも、救出作戦を支持した技術者、彼は確実に私に歯向かってくるだろう」
これだけであったら、ウィンプスも数分で気持ちの整理を付けられたであろう。彼も今や世界最大の組織の長を任されているからには相応の理由がある。精神的なタフさもその一つであった。
彼を狼狽させたのは一本の電話であった。
「こちら長官執務室」
『ハーパーだ。ウィンプス君かね?』
「これは議員。どのようなご用件でしょうか?」
『先ほど宇宙局の職員から事態の説明を受けてね、それで私なりに考えてみたんだ』
「何に関してでしょうか?」
ウィンプスは顔をしかめた。
『救出作戦の件だよ。どうやらエンタープライズ号を使った救出作戦が進んでいるらしいではないか』
「その件は却下いたしました。費用対効果が悪すぎます」
『しかし、ことは人命にかかわる。アンダーソン船長の救出に成功すれば世論は一層我々の支持に傾き今まで以上の予算措置が
講じられるかもしれない』
「お言葉ですが、もしアンダーソン船長がすでに殉職していた場合、支持も低下しエンタープライズも失うという最悪の結果になります」
ウィンプスは驚いていた。何がこのイェスマン議員をここまでかたくなにさせたのか?
「もういい、政治とはリスクの選択と優先順位の設定だ。これは宇宙開発委員会の委員長として君に勧告する。この意味が分からぬ君ではあるまい」
電話は切れた。
宇宙開発委員会とは議会において宇宙開発の予算審査、活動監視、勧告を通じて宇宙開発に民意を反映させることを目的とした組織である。航空宇宙局それ自体は大統領直属の組織ではあるものの、航空宇宙局に対する宇宙開発委員会の影響力は計り知れない。今までは宇宙開発に対する民意の好意的な反応も相まって大統領の意志を受ける宇宙局長官と宇宙開発委員会が対立することはほとんどなかった。ゆえにハーパー宇宙開発委員長がどのような強硬手段に出ようとしているのかが全く予測できない。その事実はウィンプスを一層憂鬱な気分にさせた。
「今更方針転換などできるはずもない・・・」
ウィンプスの航空宇宙局長官としての偽りのない本心であった。
その時、ドアをノックする乾いた音が聞こえた。
「長官、よろしいでしょうか?緊急のお知らせがあります」
「入り給え」
「失礼します。運用部長より連絡です」
入ってきたのはいかにも大学を出たばかりというような事務職の青年だった。
「読み上げたまえ」
「はい、『月面基地より緊急通達あり、内容は「技術部門長権限の緊急処置権限に基づき最善の行動をとる」』以上です」
「了解した、返信は直接運用部長に電話をする。下がりたまえ」
「失礼いたしました」
青年が出ていくのを確認したウィンプスは椅子に倒れこむように身を預けた。
「どう振る舞うべきか…」
技術部門長権限の緊急処置権限というものは確かに存在する。他ならぬウィンプスが若い頃に策定に関与した規則だ。この権限は解釈の余地が大きいものの解釈によっては技術部門長による独裁が可能になってしまうのではないか、という議論は当時から非公式に繰り広げられていた。ただ当時はまだ基地の維持に地上からの支援が不可欠であったことから問題はないとされた。それでも技術部門長という職の権限を恐れた歴代基地司令官は技術部門長に野心的な人間をつけようとはしてこなかった。
「この件が終わったら規則を変えねばならないな…」
そう呟くとウィンプスは受話器を取った。
「ウィンプス航空宇宙局長官だ、大統領閣下と話したい」
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