月面基地
今、私が月面基地技術部門長を拝命していた5年間で、最も重大な任務に従事している。
『惑星間航行有人宇宙船エンタープライズの救難艇ブースターへの改造』
事の発端は20分前に受信した一通のメールだった。差出人は本部に勤務する研究員。聞いたのとのない名前であったが、その件名が非常事態にありながら、私に中身を見るように促した。
『メリフラワー号救援を可能にする新方法』
その時、私は通信の途絶したメリフラワー号の救援の技術的側面について責任を持つ立場にあったが、正直手詰まりであった。
メリフラワー号に追いつける救難艇を人類はまだ持っていない。それが全てだ。
メールを読む前まではそう考えていた。そのメールにはメリフラワー号に追いつける救難艇について書かれていた。材料は月面基地に揃っていて、この方法を取れば(鋭意計算中であるが)おそらく追いつけるであろう。
『エンタープライズ号のブースター流用』
これがメールの趣旨であった。エンタープライズ号は建造中の宇宙船であったが、未完成なのはコックピットを含む居住エリアであって、機関部は完成していた。これと救難艇を接続して核融合パルスエンジンを救難艇側で制御すればメリフラワーと同等の又はそれ以上の推力を得ることができる。
私はメールを技術部門の各セクションのチーフに転送して、受話器を取った。
「キャシー・ヤンです。今から部門長執務室でチーフミーティングを行います。各セクションチーフに即時集合するように伝えてください。大至急、最優先です」
念を押した甲斐あり、5分後に全員揃った。地上の6分の一しかない重力に、緻密に管理された空調、本来ならここより快適な場所はないはずだが、集まった面々は疲労の色を浮かべていた。しかし、疲労の中にも諦めの空気を感じなかったことで私は「いける」と確信した。
「皆さん、転送したメールは呼んだかしら?」
全員が首肯し、手元のタブレットにメールを表示したのを確認して私は続けた。
「皆さんも知っての通り、現在の方針を貫いたところでメリフラワーを救援することはできません。私は、この案にかけたいと思います」
メールに書かれた具体的な手順を説明した後、皆さんの意見を伺いたい。と急ぎ気味にまくし立てて締めた。
「ソフトウェアセクションとしては、技術的には可能です。エンジンのメカニズムは違っても基本はマイナーチェンジですから。2時間あればチューニングできます」
「接続部品も2時間以内にはどうにかなるでしょう」
「アンダーソン前総監には散々言われたからな。救援成功させて見返してやらないと」
良い雰囲気のまま、救援準備に取り掛かるように指示をしようとした時に、今まで口を噤んでいた内装担当が口を開くのに気づいた。彼に発言を許したら救援の機運が萎むような、そんな予感がしたが私には発言を遮るようなことが出来る正確ではなかった。
「ウィル。どうかした?」
「エンタープライズ、2400億ドル」
その一言で内装担当ウィリアムの言わんとしていることが分からないような人物は、この場には居なかった。
「あの船には2400億ドルの国民の税金が使われています。この金額は、現場裁量で動かせる規模でしょうか?」
「ウィル。この会議では言いたいことは端的に言う決まりのはずよ。持って回った言い回しはやめなさい」
「これは、失礼しました。では遠慮なく。ことは政治的判断を要します、なので大統領、又は最低でも航空宇宙局長官か議会の宇宙開発委員会委員長の裁可を待ってからことを進めるべきだと考えます」
予感は的中してしまった。救援への機運は強烈に萎んで、各セクションのチーフの思考は独断専行した場合に予想される処遇に流れていた。
「分かりました。本部への照会は私が行います。皆さんは、即時エンタープライズ改修作業を策定、実施してください」
執務室がにわかにざわついた。当然であろう。大げさに言えば国家への反逆を指示したようなものだ。
「皆さんには後ほど、指令書を紙媒体で発行します。指令書には、遡って10分前に政治的判断に基づいて、エンタープライズ流用が決定されたと明記します。どうせ、後世の歴史家が見たところで通信速度の計算を失念したことによる混乱としか解釈できないでしょう」
ウィリアムを含めた全員が押し黙った。そりゃそうだ、事実上全ての責任を一人で背負うと宣言したのだから。
「建前では許可を先に取るべきです。それは我々が大きな組織を維持するにあたっての鉄則です。しかし、決断を待っていてはメリフラワーの救援は不可能になる」
そして私は一瞬の迷いののちに続けた。
「私は本部が救援を指示することを信じます。ですから皆さんは私を信じてください」
会議を解散させた後、私は悩んだ。もし、本部が救援中止を決定したら私は職を失うだろう。それは、私をこの職に推薦したアメリアを裏切ることになるのではないか。
いや、それは職を失う恐れの言い訳だ。正しいと信じたことに突き進むことをあの人は望む。普段は火照った頭に快適に冷気を送り込む空調が、この時ばかりは酷く肌寒く感じた。
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