第六動
「ですから最高国家機密『アルカーナ・マークシマ』です。
市ヶ谷要塞の情報第十一課『エルフィン』で、テレヴァイザーを使っていた新任の橋元医務正はめずらしく声をあらげた。画面のやせた顔は、エリート官僚然としている。悪くはない。後ろではスガル部隊の面々が見守っている。
対応している衛戍病院の担当者も文官である。
「十一課長代行が部下の動向を問い合わせたのに、拒絶するの」
少し顔を紅潮させた太めの医官は、立ち上がった。大きな胸が揺れる。
「わたしにはなんとも言えません。すでにこっちの管轄下にないのです。
病院をかえたのは監査部ですから、そっちに問い合わせてください」
「内務監査部が? 軍令本部直属の……」
橋元軍医正は絶句した。相手は一方的に通信をきってしまう。傍らで立っていた来島隊長は言う。
「先生、ありがとうございました。もう仕方ないですね。
でも富野課長代行から問い合わせても相手にされなかったのですが、まさか軍令本部がかかわっているとは、意外でした」
軍医を挟んで反対側に立っていた
「あの隊長……ジーンを包囲していたのも、特殊武装警務隊でした。
わたしたちの出動を一時的に妨害してまで。いえその……わたしたちより前に、彼らは出動準備を終えてしました」
「……厄介だな。それにしても真由良はどこに閉じ込められているんだ。
大神二曹は感知できないか」
夢見は大きく深呼吸すると、数秒目を閉じた。
「あの……都内であることは確かですけど、彼女の思念が弱くなっていて、北のほうとしかわかりません。あの、とても怯えているけど。かわいそうに」
「あの強がりはやっぱり演技だったか。彼女にはいろいろと謎が多いよ。
あの謀略好きの田巻が、自分で開発したと自慢しているからね」
あだ名は「微笑みの寝業師」である。
田巻は父の代から上田に世話になり。今では「公然の密偵」「草」だった。
田巻はその陰険さと政治力で、統合軍令本部内でも幾分恐れられている。しかし独特の嗅覚で有力者に取り入り、また意外にも部下や下士官兵士にも丁寧に接し、敵は少ない。
そしてスガル部隊にとっては、部隊の設立を提案した「恩人」でもあった。夢見をスカウトしたのもあの謀略参謀である。密かに小夜に憧れていることは、彼女自身も気づいていたが、異性に興味のない斑鳩小夜は適当に「流して」いた。
「気分はよさそうやな」
首都北部にある国立医大の研究施設は一般の患者は受け付けない。「研究対象」と言う名目で、特別な患者だけを扱う。多くは政府の重要人物などである。
時には有力者が「逃げ場」に使う。そんな特別病室に監禁されている真由良の扱いは、当然いい。食事も毎回豪華だが、食欲がない。青ざめ、目の下にはくまが出来かけている。
情報統監部付の情報参謀補である田巻は、真由良の母親、真奈美と言う女性がもと陸上自衛官であることは知っていた。今では政友党の国会議員である。
最終階級は三等陸佐で、当時目黒にあった防衛研究所に所属していた。
そして縁戚の男性を婿にむかえたあと、「家を継ぐ」為に退官している。連続震災の数年前である。
しかし不思議なことに、どんな任務に就いていたか、旧防衛省関係資料には一切記載されていなかった。田巻の身分ではアクセス出来ない資料には、載っていそうだったが。
田巻はベッドにすわる真由良を気の毒そうに見つめる。
「もうお薬がなくなりそうです」
「使いすぎや。あれはつこていい時と量があるやろ。
くれぐれも注意したはずやな。頓服みたいにかんたんにつこてたら、エラいことになる。ちょっとは自重しろ。
今は心静かにやすんどれ。ええな。急ぎ過ぎは破滅につながる」
「早く復帰したいんです。あの薬がないと、力をコントロールできない」
真由良はベッドの上で起き上がった。薄く白い入院着はグラマラスな肉体に張り付いている。
「あ、あ……焦りな。徐々に訓練していったらええ。今はここの先生に従いや」
拒絶し、隔離特別室から出て行った田巻は、頭に軽い痛みを感じた。つづいて右の鼻から血がしたたっているのに気づいた。
思わず立ち止まってしまう。
「………僕に、なにかしたんか?」
性格は小心臆病、狷介孤高かつ恨みがましい策謀家だが、長所としては自分を客観視し、弱点を自ら熟知していることだった。
「一回だけよ。安全とは言われているけど、お酒といっしょで精神的な依存性もあるから」
市ヶ谷要塞の明るく清潔な医療部。特殊検査椅子に座っていた夢見は、首筋に軽いしびれを感じた。白衣の橋元軍医が、首に圧縮注射をしたのである。
少しずんぐりとした肥満気味だが、親しみのある童顔である。統合防衛医科大学校をかなりの成績で卒業した、医学博士だった。
階級は医務正、三佐だったが、自分の階級を気にしたことはなかったし、滅多に制服も着ない。特注のしゃれた白衣を着ている。
「ともかくこれで精神を落ち着かせて。瞑想でもすれば脳波も戻る。あなたも新人さん以上に傷ついているはず。対人恐怖だって直りきってないのよ」
「これって、精神安定剤みたいなものですか」
「あなたたちにとっては、そうね。
もともと抗鬱剤として開発され、いまでは市販を禁じられているの。使いようによっては恐怖心をなくすこともできるし、感覚が研ぎ澄まされることもある」
「便利な薬だけど、頼りすぎそうでこわいですね」
「その通りね。気分はどう? 元々『ラクリマデイー』って商品名だったけど、通常人がつかうと幻覚おこし、一種の妄想に走ることがわかって販売禁止になったの。
これはもっと洗練されてるけど。あなたたちPSN能力者には、いい安定剤になるみたいね。前に一度使ったけど、覚えていないでしょう」
夢見は立ち上がった。
「なんかすっきりした気がします」
「ある意味こわい薬よ。この粗悪品がラクリマデイーとして闇市場に出回っているし」
「薬物汚染は震災後、ひどくなってるんですってね」
「今では全世界人口の二割近くが、心理的な病気かかえてる。しかもその大半が薬物依存。厄介な時代よね。経済はやっとなんとかたちなおってるとは言え」
この日の夕方、通常訓練から戻った夢見は地下第一層の情報第十一課に出頭して驚いた。
「ご迷惑をおかけしました」
つばの大きい略帽をかぶり、カーキ色の一般勤務服姿の遊部真由良は敬礼した。正式のスガル部隊要員ではなく、兵科色の制服を着ている。
「国立医療研究所で、検査を受けていたそうだ」
と来島は言う。小夜もやや心配そうだ。夢見はつい詰問調になる。
「あの……なにをされたの」
「別になにも。特別室で検査受けて、ともかく養生しろって。
三日ほど出してもらえなかったので、体がなまってしまってます」
真由良は夢見と顔を合わせづらそうだった。勝気そうな大きな目を、あわそうとはしない。夢見は最近やっと、人の眼を見て話せるようになっていた。
「ありがとう。わたしがしなくてはならなかったのに。さぞ辛かったでしょう」
「いえ。任務ですから」
と気丈に言ってみせる。こうして平穏な日々が戻ったはずだった。次の日から、真由良のたっての希望で通常訓練が再会された。射撃、格闘技その他の成績はあいかわらず優秀である。
ただ、なにかに取り付かれたように訓練に励む。PSN訓練では、元々この能力が夢見よりは弱い斑鳩小夜を、辟易させるほど熱心だった。
この日の昼食時、珍しく来島が「外で食べよう」と言い出した。
市ヶ谷永久の食堂はそれなりにうまい。一般の連隊とは違い、下士官以上だと好きな食事を選べる。
しかし毎日食べていると、やはりあきる。紀州のサナトリウムに仕送りしている夢見の日常生活は極めて質素で、「外食」など滅多にしなかった。夢見は喜んで隊長に従うことにした。
自動タクシーにのって、歌舞伎座の裏手へとまわった。南仏家庭料理の店、「レジオン・エトランジェール」が来島の隠れ家だった。
夢見ははじめてである。来島は珍しく昼からビールを頼んだ。酒豪で、ビールなどでは決して酔わない。
夢見は正式に任官以来、法的には成人である。しかしお茶を頼んだ。
連続震災以降の社会改革で、成人年齢に「幅」が持たされた。高等教育を受けずに働きだしたりした人のために、場合によっては「法定成人相当年齢」が引き下げられる。しかし当然、犯罪を犯せば、少年法の適応は受けられない。
「……最近お疲れですね。あのひょっとして、なにか悩み事でも」
食事はおいしかったが、ウィークデーの昼間、客はあまりいない。
「その、新入りのことですか」
「まぁそうだ。訓練熱心なのはいいけど、いろいろとな」
「あの、唯我独尊で協調性がない。ヴァーチャル戦闘での分隊行動は、ひどい点でしたね」
「君のことをまだライバル視しているな。やたら君の成績をきいてくるわ」
「でも……心の底では救いを求めているかもしれません。
あの……彼女は焦っているけど、自分の能力を恐れはじめているみたいです」
「あの時、ジーンに対峙させたのがまちがいだったかな」
「すみません。わたしが弱いばかりに」
「君はここ半年で本当に強くなった。はじめはおどおどして、他人の目も見つめられなかったのに。本当に成長したよ。自信を持っていい」
「そもそも統合自衛隊にはいったのも、その、対人恐怖症を治す為でしたから」
「そうだったな。まだ直りきったとは言い切れないが」
「対人恐怖症? あの
首都北部にある訓練地の食堂で、
今日の教官は斑鳩小夜一曹だった。十一課を含む情報統監部そのものには、訓練プログラムはない。必要な訓練と教育は中野の後方勤務学校や、代々木の資料学校で行う。戦闘訓練や破壊訓練の必要な第十課や十一課は、独自に教練や訓練を案出する。
二人とも下は迷彩ズボン、上は黒いシャツ姿である。この格好だと小夜の豊かな胸や、真由良の見事すぎる肉体が強調されてしまう。
二人は気にもしていない。しかし練兵場に居合わせた男性兵士たちは、もう訓練どころではなかった。
やがて二人は大休止をとった。障害物エリアわきの大木の下に腰をおろし、「レーション」と呼ばれる戦闘食を食べている。自衛隊時代から日本の糧食は美味で有名だった。斑鳩小夜は、水筒のレモン水を飲んでから答えた。
「あの子のお母さんね、むかしけっこう有名だった、超能力タレントだったの」
「超能力? へえ、そんなものがいたんですか」
「でもしばらくして、インチキだって叩かれたりして、マスコミから消えたの。
今は夫婦で南紀のサナトリウム。のんびりしているわ。その一人っ子が夢見。
俸給の半分は、毎月ご両親に送ってるのよ。御両親も少しは蓄えがあるらしいけど、年金支給年齢までまだだいぶあるからね。彼女も大変よ」
「じゃあ超能力タレントって、本物だっんですか」
「その一人娘があれだから。当然、結婚してお母さんはPSNを失ったけど。あの頃はPSNなんて言葉すらなかった。実は当時の防衛省では、密かに研究してたけどね。
で、母親の能力をしっかり継いだ夢見は、小さな頃から他人の心を感じ取ったり、ともかくいろいろと大変な目にあったみたい」
「……対人恐怖症、なおりきっていないみたいですね。
あの時わたしがかけつけなかったら、武装特殊警務隊は全滅してました」
「あなたのことを詮索するつもりはない。でも苦しいのはあなただけじゃない。 それにこれからもっと、苦しいこともあるわ。それを覚悟で、彼女はスガルに入ったのよ。
まああの田巻一尉殿が、スカウトして半ば拉致したんだけど」
「自分も是非、灰色の制服が着られるようになりますっ!」
「もうすぐよ。焦らないでいいわ」
にこりとした小夜は、のこったレーションを食べはじめた。発熱剤で暖められたエスニック風チキンを、真由良は骨ごと噛み砕いた。
巨大スクリーンは、はやりの立体式ではなく古風な二次元映像である。しかし画像は鮮明で臨場感があった。
画像は中央アジアにある、巨大なコンピューターセンターの火災である。
「先週の、セントラル・コンピューター・コンプレックスでのテロです。
これでアジア横断高速鉄道が二週間ほど普通になっとります」
青みがかった灰色の制服略帽姿の田巻一尉が、説明する。円形の巨大テーブルにならんだ各部局の将官、高級参謀たちはうんざりとした顔だった。
間接照明が居並ぶ顔を照らしている。
「そしてこれが、おとといのアメリカ中央科学研究所です」
半分破壊された研究所がうつる。
「まったく……」
服部軍令本部総長がため息をついた。
「本当に、いったいなにが目的なのかしら。
攻撃対象がバラバラだ。まるで現代文明の総てを憎んでいるみたいに」
「そこがテロリストの、テロリストたるところですな」
と田巻は少し嬉しそうに言う。
「真実の夜明け、人呼んで環境テロ屋。いやテロリストですらない、マニアックな破壊者です。
その目的はおそらく現代文明、特に最先端技術の否定ですな。人類を堕落させ貧富の差を生んだ文明をにくむ。おもてむきは、ね」
「おもてむき?」
「ええ、多分。環境テロリストの首魁は通称オドアケル。オーストリア系アメリカ人で、従軍経験があるらしいことぐらいしか判らん、謎の人物です。
しかしその資金は潤沢、武器は高性能。かなりの犠牲出しても補充されるし、情報能力もたいしたものです」
「……資金の一部が、国際金融マフィアから出ているとの噂はどうなの」
「残念ながら確認のしようもありまへん。けど、ほぼ事実と思われます。
そしてその資金の一部は、確実にわが国の政治家にも流れてます」
などと気軽に言い切ったので、情報関係者達はざわめいた。
「ただ、クライネキーファー社の関与はさほどないかもしれません。別に肩を持つ気もさらさらおへんが、極東支配人はまあ高潔な知識人と言うやつですし」
高級参謀の一人が、たずねた。
「しかしあのジーンは、K社が改造したのではなかったのかね」
「正確には傘下の武器開発会社です。資金は別のところと言う情報もあります。
クライネキーファー社は巨大すぎて、いろいろ派閥に分かれてます。スイスの本家に不満持つ過激な連中も、なんや近頃造反してるみたいですな。
スイス本家はかつて世界賢人会議ワイズつう、自称賢い大富豪の結社を運営してました。その運営方針と、人類をどう導いてくかの方策を廻って、色々な派閥に分かれたそうです。
それと、まああの手の研究は、どこの国でも密かにやってますので。問題はK社の過激派が裏で、『真実の夜明け』を操っているかどうかちゅうことですな。
たしかに北陸の核融合施設をおそった時、奴らはK社のパスを使いました。が、この件についてK社本家は関与を強く否定しています。
しかしジーン事件の時にあきらかになったように、あの会社も混乱しています。我々にジーンに関する極秘情報を、ほとんど開示してくれはりましたし。
特に極東総支配人のゴットフリート・ツー・デァ・クライネキーファーは本家筋でももっとも穏健家と言われてはって、いろいろと打ち明けてくれました。
どうも傘下の総合エネルギー会社、フォルティア・マーグナ社が元凶のようですな」
また高級幹部達はざわめいた。統監部長の女性将帥はゆっくりと聞く。
「わが国のメタンハイドレート燃料開発にも投資している、フォルティア社?」
「ほかに同じ名前がないんやったら、そうでしょう」
「堀口大学の件もかしら」
「それは……」
と警察庁の制服をきた警視長がおずおずと言い出した。
「片野秀忠副学長からの報告書によると、借金まみれだった加藤研究員が、何者かと接触していたのは確かです。いろいろと問題のある研究員だったようで。
しかし小型ステルス艇を、国際テロリストが用意していたとは思えません」
「破片回収したけど、ありゃジーンがのって南岩戸島にたどりついたの、同じタイプです。
製造はクライネキーファー重工ですが、全世界で百機は出回っとる。過激派には無理でも、フォルティア社なら当然用意できますやろ。
けどなんで自爆したんかがわからん。せっかくフロギストン起爆システム関係者を、コア・データごと手にいれたのに」
「田巻くん。もし君の言うとおり、環境テロリストをフォルティア・マーグナ社が操っているとするなら、その目的はなにかしら」
「やつらが『腐った科学技術の典型』として核融合を攻撃するほど、メタンハイドレートや日本の得意技、脱炭素天然ガス関連株があがってますな」
「……株価操作のために、世界の先端科学研究を妨害しているというの」
情報統監部長の
「まあ……それだけでしはないでしょう。
ヤツラがもしメタン市場の暴騰をねらって『真実の夜明け』を応援しているとしたら、南紀の研究所から核融合関係のデータ盗もうとした理由がよう判らん。 ただ……」
田巻は不気味に微笑んだ。
「ただ、環境テロリストが核融合発電などを攻撃するおかげで、メタンハイドレート燃料の売上も伸びとるのは確かです。まあ日本政府もウハウハや」
石動麗奈は小さくため息をついた。
「つまりヤツラの無秩序無謀なテロで得をしているのが、わが国だというの」
「なにも奴らが、わが国のためにテロやってるわけではありませんでしょう。
……ひょっとすると、わが国がしぶしぶ協力するふりしてる、中東における大規模商用核融合発電所建設の利権がらみかもしれない。
そこんとこは、まだまだ調査不足です」
世界財閥クライネキーファー商会も、決して一枚岩ではない。穏健、世界協調派の本家「ツー・デァ・クライネキーファー家」の意向に反発する一派は、なにか策動しているらしい。
石動将帥は田巻の特別調査を許可し、予算も増やすことを約束した。
「ツー・デァ・クライネキーファー家は地球環境保護のために、商用核融合発電の実現化を急いでいる。そのためにわが国政府に圧力をかけたり、関連産業の買収をしかけたりしているはずよ。
そしてなんとか船出した、国際連邦インク最大のスポンサーでもある。
その造反子会社は核融合発電計画を潰そうとしているのか。なかなか複雑ね」
核融合発電では日本の研究がトップレベルだった。
しかしその根本技術はすでに完成しているフロギストン爆弾の起爆システムの応用であり、最高機密に属する。
また日本はメタンハイドレート採掘とそれを利用した発電で、外貨を稼いでいる。その産業に壊滅的打撃を与えかねない核融合発電所の建設には、やはり消極的だった。
悪夢の連続震災で、日本は準戒厳下におかれ、しばらく半鎖国状態にあった。その間、アジアと中東に発した世界的経済混沌は、大小様々な民族、宗教その他の紛争を呼んだ。
今でも世界の三分の一近くが、何らかの争乱に巻き込まれている。
混乱と戦火の数年間で、世界人口は一割近く減ったと言われている。そして今も各地で、その理由すら忘れられた悲惨な非対称戦争が、いくつも続いていた。
夕方になった。新古典帝冠様式で統一された市ヶ谷台の要塞建物郡が、朱に染まる。三等佐官相当の医務正橋元由紀は、西部棟の医療部で仕事を終えようとしていた。
セントラルブレイン直結の端末の電源を落とそうとして、妙なことに気づいた。警告ランプがともっている。あわてて解析すると、何者かが自分のデータをいじった形跡がある。しかも外部から。
「なに、これ」
橋元は極秘パスをつかって、さらなる深い解析を続けた。
アクセスされたデータは、夢見たちの精神統制に関するもののようだった。また遊部真由良の極秘ファイルが、かんたんに破られていた。
なにを調べたのかはわからない。アクセスしてきた相手を知って、少なからず驚いた。
「軍令本部参事官事務局!」
夕陽が窓からさしこめている。将校用の個室のベッドで、ふとんをかぶってすすり泣いていた真由良は、ついに我慢できなくなって飛び起きた。
全裸に近い。あわててベッドの下から、指紋であけるアタッシュケースをひきずりだした。中には金属のケースがある。
真由良はエンピツ状の金属筒を取り出し、首筋に注射した。大きくため息をついた真由良は、少し安心したような顔をして立ち上がった。
窓の外には、くれなずむ巨大都市が広がっていた。
昼につづいて夜は小夜に誘われた。市ヶ谷駅近くのパブ「ミスター・デーニツ」と言うドイツ式のブロイハウスだが、お酒に強くない夢見はサイダーだった。ここは田巻の行きつけの店でもある。
昼間の教練で疲れていたはずの小夜は、ビールをがぶ飲みしている。この店は第二次大戦のUボートをコンセプトにしており、狭く薄暗い。
「たいへんだったわ。あの完璧新人さん」
この店はあの田巻のお気に入りだが、幸い今夜はいない。
「あの…努力家ではあるけど、ああ負けず嫌いじゃ、精神がもたないですよ」
「隊長に聞いたんだけど、やっぱ複雑な事情があるみたい」
「まあ、若くしてジャスト志願する子はあの、それぞれわけありでしょうから」
真由良の父親はすでに事故死しているらしい。母親は自衛隊時代に、二等佐官で退官した真奈美と言う女性だった。その後上田に乞われて政界入りしている。
「アソベ真奈美さんってあの、確か国防懇話会にも入っている議員さん?」
「ええ、政友党の美人議員。その長女。ほかに弟が一人。
養子の父親は資産もあったし、保険や事故の補償でかなりもらってる。別に働かなくていいけっこうな御身分らしい。
それにあのカラダでしょ? 芸能人かなにかになればいいのに」
「その……わたしたちと同じで、小さい頃から人の心がわかったり、いろいろといやな目や怖い目にあったんじゃないでしょうか」
「それで江田島の統合幼年術科学校特別待遇生徒か。そこで例によって一尉に見いだされ…。タマキンの奴って特殊超常能力研究開発については、嫌だけど確かにわが国をひっぱってる。
もう二年近く前から、あんたやわたしみたいな能力者を探し出して、スカウトしてんだって。そもそもPSNの国防利用を言いだしたのも、彼よ」
「そんな人だから、あんなわがままが許されるんですよね。
あの…でも、かなりの年でまだ一尉なんて気の毒かな。課長代理のほうがかなり年下だし。今度三等佐官になるって話も、聞きましたし」
「京都の私大出てしばらく広報関係の会社にいたからね。ブランクあんのよ」
「そんなこともその、言ってましたっけ。大震災前後、三軍統合のドサクサで入ったとか。上田大臣のツテで」
「当時は人材が不足してたからね。上田先生の強力なあとおしがあったけど、教練とか実技方面はほとんど最低以下。
と言うか、実質的に審査も訓練も受けてないってさ」
「あの、そんな一尉だからこそ、あの新入りを見つけ出したんでしょうね。
その……なかなかスゴい子です。闘志満々でやりづらいけど」
小夜のPSNは夢見の半分ほどである。 真由良はそんな小夜をやや上回るようだ。しかし今まで彼女のうわさなどなかった。突然、かなり強い能力を持つ新入りとして出現した。
「あの子、本当は寂しがり屋で繊細なんです。いつでも自分を認めて欲しいって思ってる。
その、それにあんだけ素敵な体なのに、あの……ひどい劣等感ももってる」
「かつてのあんたみたいね。美人でスタイルよくて、そして他人が怖い」
「なんとかして、立ち直らせてあげたいけど、特にわたしに対しては、心を閉ざしてます。あの………そのくせ、心の底ではわたしを求めている」
「ジーンといい真由良といい、まったく厄介なのに見込まれてばかりね……あなたの運命かな。
さと、そろそろ出ようか。ここ、遅いと田巻なんかも来るから」
その夜、情報統監部長付情報参謀補である田巻己士郎も、個人的に借りているアパートメントハウスに戻る前に、市ヶ谷駅前のドイツバー「ミスター・デーニツ」へよった。最近の電話で、上田から「いよいよ正式に情報参謀になるかもな」と打ち明けられていた。
「佐官昇進の前祝いや」
制服ではなく、ボタンのついたネルーカラースーツで、馴染みの女の子に自慢した。
このバーは店内が、第二次世界大戦のドイツ潜水艦「Uボート」内に似せて作られており、薄く狭い。微かにオイルの臭いすらする。
店員はややセクシーな水兵服で、ドイツからの留学女学生などが多い。日常会話程度のドイツ語の出来る彼は時々、この店でドイツ会話の練習をしている。
「しかし僕も不幸かもしれんな。あんな美人と仕事出来て……」
田巻は自分の職業と身分は明かさない。ある「芸能プロダクションの人間」と思わせていて、時々店員に愚痴っている。
曰く、自分は腹ペコなのに、目の前に見たこともない御馳走を並べられている。しかしその御馳走に「手をつけると」処刑される、などと。
「日々辛いわ。これも理性を鍛える修行か。ほんまにエエ女ばっかりやのに……」
さほど酒には強くはない。二三倍きこしめしていい気分となり、店を出たとたんに硬直した。路地裏の闇に、佇む影がある。
「な、なんや!」
私服の真由良は前に出た。店の明かりが、青白い顔を照らす。
「なんや、君か……猫のバケモンかと思た」
「薬が、もうありません」
「なんでわかったんや。心読んだんか。作戦以外ではご法度やぞ!」
使い方によっては殺人すら出来るPSNの使用は、厳しい統制の元にあった。
「……薬がないと、わたしの力が」
「使いすぎや。頓服にすな言うたやろ。明日午前中になんとかする。ただしこれが最後や。貴重に使いや。ほんまは橋元先生の指導受けたほうがええんやけど」
真由良の目が妖しく光る。田巻は少し息苦しくなった。
「一尉殿がわたしを変えたのです。わたしをこんなにした。わたしの能力が必要だから。
……お薬、お待ちしています。約束ですよ」
踵を返して足早に去っていった。一人薄くらがりに取り残された田巻は、息が荒い。額と脇の下にかなり汗をかいていた。
「あいつ、危険なやっちゃな。……このままでは」
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