第9章

 そして一週間目の夜、アパートのエレベーターで、四階に降り立つと目の前で砂都貴がピースマークを差し出して立っていた。

「財産相続権、華音にゆずってきちゃった。必要ないから,どうぞって…」

「そんな、お歳暮の石鹸のおすそ分けじゃあるまいし」

 僕は、体中の緊張が抜けていくのを感じた。嬉しかった、とても。

「それと、華音がね、『古島水凪っていい男じゃん』って。私、『そーでしょー!』って思いっきりのろけてきちゃった!……どうしたの?水凪さん!」

 笑いが、止まらないんだよ、嬉しくて。

 合鍵で砂都貴がドアを開けてくれた。(僕はとてもそんな状態じゃなかったわけだ)部屋に入って彼女はさっそく窓ぎわに座り込む。

「隠すつもりは、無かったの。過去なんて、私関係ないと思ってたから。ただ、テレビのニュースで父の死を知って、一人でたくさん泣いて、あんなに大声で泣いたのは久しぶりだったなぁ。で、涙が枯れた時、最初に思ったのは、親戚から再三勧められていた、検査のことだったの。

 高校で、絵を始めてからは、夢遊病も情緒不安定も治まって行った気がした。でも、あのままあの家にはいたくはなかった。自分の生き方は、自分で見つけたかった。私の狂いは私の命があの家に封じられてるせい、そうとしか思えなかった。だから、あの家を出たの。

 検査のことはね、華音に物凄く反対されたけど、私、財産のことなんて、どうでも良かったの。ただ、私も自分自身確かめておきたかったの。どこからが正常かなんて、私にもわからないけど、ただ、確信していたから、私は治ったんだってこと。それを人からも判断して欲しかったの」

 砂都貴はそこまで息もつかず話し続けた。そして僕をじっと見つめてにこっと笑った。その笑顔でやっと僕は、砂都貴の帰還を実感した。

「水凪さん、ありがとう。貴方といると、私、体中の機能が正常に働くのがわかるの。自分を信じられるようになったのは、貴方に出会ってからだわ」

「こちらこそ、あらためて砂都貴がどんなに大切か、わかったよ」

 ほんと、やつれちゃったね。…世話のかかる人ね、なんて、冗談を言いながら、砂都貴は僕の肩に寄り掛かった。

「母さんの遺書、形見にもらったの。父さん、ずっと持ち歩いてたんだって。華音がくれたのよ」

 バッグのポケットから大切そうに小さな紙切れを出す。

「水凪さんにも見てほしい」

 不思議な文章だった。親族あてに、これ以上迷惑はかけられない、という文のあと、夫あてにこう書かれていた。

『でも、一番済まないと思っているのは、貴方に対してです。私は恋を知らずに、貴方についてきてしまった。貴方が私に下さる愛情に、私はまったく応えることができなかった。ここに閉じ込められたまま、自分をだまし貴方をだまして生き続けてはいられない。ごめんなさい』

 四歳の子供を持つ母親の文、というより、少女の心のままで人形のように時をとめられた人のような。砂都貴の父が言った『眠り姫』の意味がわかるような気がする。…セピアに染まった便せんと、ところどころにじんだインクに、砂都貴の父親の、ひとりよがりでありすぎた情熱を悔いる思いが伝わって来る。恋しすぎるあまりに起きた悲劇で、僕は彼を責めるつもりはない。

 僕は、そっと胸ポケットから指輪のケースを

取り出した。いつ砂都貴が帰ってきてもいいように、持ち歩いていたのだ。

「婚約指輪、だと思って下さい。誕生石でなくてごめん」

 砂都貴は目を丸くした。

「結婚、するつもりだった?」

「しないつもり、だった?」

 今の状態だって、十分幸せかもしれない。でも、時間が流れている以上、新しい試練があるかもしれないし、もっと強い結びつきが必要になるかもしれない。でも、どんな悲しみの中でも、砂都貴と共に在りたいと思うから。そんな将来を約束し合うために、やっぱりこの指輪はきっと必要なんだ。砂都貴を拘束するつもりは毛頭ないけれど。一緒に行きたい、と願う今の想いを、大切に守ってほしいから。あの日と同じ満月と同じ色した、この真珠に。

 砂都貴の左手をとって、白くて長い薬指にゆっくりとリングを通す。

「ありがとう」

 砂都貴は、この世のどんな花よりきれいな笑顔をした。

 そして、僕達はまた、昨日よりもっと幸せになったのだ、と思う。

-End-

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