第7章
砂都貴が姿を消して、五日目の夜、残業疲れで頭が痛い。エレベーターから出て、部屋の前に突っ立っている人影にぎょっとした。
「砂都貴!…の、幻かな?また」
人影がしゃきんっとお辞儀をする。きびきびした動作の、あ、この間の展望台の。…砂都貴そっくりの、これは男の子だな。スリムジーンズに、よく洗いこんだGジャン。
「この間、会ったね。砂都貴の、身内の人?」
「古島水凪(こじまみなぎ)さんですね。こんばんは」
わ、きれいな恋。よく通る、トライアングルみたいな声だな。あ、でもこりゃ女の子だ。
部屋の中に招き入れると、つん、とした仕草で部屋を突っ切って、窓際にぺたっと座り込んだ。あ、砂都貴の指定席だ。
「あたし、青山華音(あおやまかのん)。砂都貴はあたしの姉です」
ブラック・コーヒーを片手にぶ然とつぶやく。あんまり、愛想よくないなぁ。砂都貴と顔の作りは同じなのに。
「あんまりよく聞かれるから、先に言っとくけど、双子じゃないわ、姉妹よ。異母姉妹。砂都貴が妾の子なの」
うんざりしている、といった表情で言った。きっと何度も同じ質問をされて、嫌な説明をし飽きたのだろう。
「生まれた年も、月日も同じ、厭な偶然」
「君、砂都貴が嫌いなの?」
彼女と話してると、こちらにまでイライラがうつってきそうで、何となく不快。
「あの子、見てると気持ちが悪いのよ。目の前で母親が自殺してから、言葉も、表情も無くしたわ」
「自殺、だったの?砂都貴のお母さん」
「睡眠薬よ、遺書も残ってた」
冷たくつぶやく、華音。
「あの人、とてもきれいな人でね。父は旅行先で一目見ただけで彼女に惚れ込んで、無理矢理連れ帰ってしまったの。私の母と婚約してたのに。親族が決めた結婚に逆らう気持ちもあったみたいだけど、ね。…ただ、砂都貴の母親は、いつも泣いていたわ。故郷に帰りたいって」
「砂都貴のお母さんは、お父さんを愛してなかったのかい?」
「…わからない。彼女、何も言わない人だったもの。それより、うち、けっこう資産家なのよ。だから相続権とか、すごくうるさいの。それで親族が、彼女や娘の砂都貴にかなり、つらくあたってたの。あの人、気が弱かったから、周りに相当気を遣っていたみたい。私も砂、都貴も、小さくて、何もわからずに結構仲良く遊んでたけど、その辺の事情は何と無く察してた」
僕は、ずきずきする頭痛の中で、華音の話をできるだけきちんと把握しようと苦しんだ
あの綿菓子みたいな砂都貴の笑顔には、こんな事実が隠されていたんだ。
「あの夜、砂都貴は何も知らずにいつも通り母親のベッドにもぐりこんで。目が覚めたら母親の腕から動けなくなって、物凄い声で泣いたわ。…それっきり、ろくに笑わない子になったの。言葉も話さないし、時々、夜中に家中を歩き回る。涙ボロボロながしながら。おまけに高校出て、いきなり大声で父と言い争って、絵描きになるんだ、とか言って家を飛び出すし、ほんとに母娘揃って、青山家の恥だわ」
それは、嘘だよ。だって、僕といるときの砂都貴は、本当によく話すし、優しいし、よく笑う、泣き虫だけど感激しやすいだけだ。バイト先でだって、あんなに楽しそうにはたらいてるじゃないか。
「わかった?古島さん、あんな人、待たない方がいいの。彼女、頭がおかしいんだから」
「ことばにもう少し気をつかわないと、友達なくすよ、華音ちゃん。ひとの頭がおかしいかどうかなんて、判断する基準はないんだから。それに、おかしいって言ったら、僕みたいな記憶喪失ってのも相当な物だよ」
僕は、出来る限り優しく、そういった。華音の目をじっと見つめて。表情も、努めて笑顔を保って。自分は砂都貴のこと、どんな風に聞かされても動じていないよ、と知らせるために。でないと、この子の心の嵐に負けて、巻き込まれてしまうから。
…華音のきつい表情が、少し崩れた。慌てて視線をそらし、つぶやく。
「姉は帰らないかもしれない。精神科へ、行ったの。検査結果で悪化してるって判断されたら、貴方のもとへどころか、家にも戻れないかも…砂都貴はバカだわ。どうして自分から病院に行ったりするのよ!」
「どういうこと?あの子は実家に行ったんじゃなかったのか?」
「父が死んだの、先週」
うつむく華音の口元が、弱気に震える。
「わかるでしょ?砂都貴はね、妾の子でも長女なのよ。相続に関しては、あたしよりうんと有利なの!再検査で責任能力が無いことを、あたしの親戚連中が確かめさせようとしてるから『あんな人ほっときなさい』ってせっかく引き留めてたのに」
「華音ちゃん、君、砂都貴に帰ってきてほしいんだね」
窓の外、いつの間にか冷たい十一月の雨。華音の声が段々小さくなって、雨音に溶けていく。
「不器用な子だね、君は」
泣けない華音の為に、雨は降り続ける。…母の死のショックで妹の自分にまで心を閉ざした姉への憎しみと、姉を救えない、自分の非力さへの悲しみ。華音は砂都貴と同じ位、繊細な優しい子なのだ、と気づく。
「大丈夫。砂都貴は帰ってくる。僕の予感は結構当たるんだ」
僕は、愛しい人の妹の前髪をそぅっと撫でてやった。緊張の糸が切れたように、力なく微笑む顔は、やはり砂都貴そのものだった。
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