第3章

 記憶喪失のサラリーマンと、家出娘の絵描きさん。友人は彼女を「通い妻」なんて言ったけど、毎晩スケッチブックとパステル持って遊びに来てるだけ。

彼女は1999年7月の交通事故で記憶喪失になる前の僕を、一度だけ見掛けて、ひとめぼれ…したらしい。そして2000年の6月、僕達は再会した。その時、僕は砂都貴にひとめぼれして、僕は砂都貴のモデルになる約束をして、(友人はこれを逆ナンパだと笑ったっけ。)そして…そういう九月を経て、僕達は世に言う同棲を始めた。

「三日月はパズルの欠けた最後の一ピースなのかも、ね」

このごろ、よく笑うようになった砂都貴が、ある日そう言った。膝の上のスケッチブックは彼女の作品『すみれの森のクレッセント・ムーン』のページ。彼女が愛する三日月をモチーフにした連作の一つ。

「あれ?三日月のピースが埋まっちゃったら、夜の絵なんか真っ暗がりになっちゃうじゃん」

「そんなことないの、三日月のピースが埋まった時、その絵は完全な輝きを持つのよ。何かそんな気がする」

 だとしたら僕の心の最後のピースは君、だね、砂都貴。多分二十数年分位の過去のページがばっさりと抜け落ちてとても不安だった僕は、いろんなことに無関心になろうとしていた。君に出会って、恋におちた時からわかったんだ。一番大切なのはその時一瞬の輝きをきちんと見つめること。その瞬間から未来は始まっているんだから。砂都貴となら、まっすぐにその時々を見つめていける。

 砂都貴が意味深に微笑み、僕の顔をのぞきこむ。

「私とおんなじこと、考えてるでしょ?」

 何ていうか、この子のペースの崩し方って、心地いいんだよなぁ。

 でも、今度だけはびっくりさせるんだ。僕が、彼女を。この真珠のリングをプレゼントしたら、どんな顔するかな?

 駅に降り立つと、駅前広場の空に、この街には珍しい、くっきりと光る白鳥座。僕はとてもいい気分で地下鉄一駅分を歩いてしまった。

 だから、さ、そりゃないよな、めずらしく留守なんて。

『実家に呼び出されちゃった。用が済み次第戻ります。お帰りなさい、が言えなくてごめんね。』

 テーブルの上の置き手紙、僕は砂都貴の実家を知らない。

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