第6章
会社のビルの自動ドアごしに、
電波塔の下でこちらに手を振る夏が見える。
走り寄ると、右手を差し出して、握手を求めてきた。
「先月、すれ違った時はね、
あんまり雰囲気が変わってて声かけられなかったの。
でも、色々調べさせてもらったら
やっぱり貴方は私が探してるひとだった」
立ち話も何だから、と僕の馴染みの喫茶店に彼女を案内した。
小さい店だが、木の壁にコーヒーの匂いが染みこんでいる。
夏は、店の内装をいとおしむようにゆっくり見回した。
彼女は、僕が、この近くにある、とある会社の同僚だった、とだけ告げた。
「本当は、昔のこと、細かく説明して、
記憶が戻らなくても、今すぐ連れ戻すべきだと思ってたけどね、止めた」
予想外の言葉だった。
「どうしてですか?」
「本当はね、貴方、私達と働いてた時も、素性のよくわからない人だったのよ…今と同じ、記憶喪失だったらしいの」
もう大概のことには驚かないつもりだったけど…絶句。
「でも、私達にとって、そんなこと何の問題も無かったの。
だって、貴方はとっても有能で、信頼できるひとで、一緒にいるだけでとても楽しかったから。
…その時々を大事に、楽しく生きてる人だったから。
だから、貴方がいなくなった時、みんな大騒ぎしちゃったの…。
何としても探しだそうって八方手をつくして、私は、その成功例。
でも、ね。見ちゃったんだ。
砂都貴ちゃんと、貴方を、この店で」
夏は、窓際の一番奥…砂都貴との指定席を見やった。
「空気が、違うのよ。二人とも黙ってコーヒー飲んでるだけなのに。
視線なんかほとんど合ってなくて、
窓の外ばっかり見て。
…なのにもぅ、何て言うか、あれは聖域ね。
それ見てたら、いいやもうって気になっちゃって、身辺調査の結果も、問題なさそうだし、で、一抜けた」
「寛大なんだね、きみは」
「大雑把なだけよ」
僕は、彼女の整った笑顔をまじまじと見た。
本当に僕は、かつて
この人と対等に接していたんだろうか?
「・・・昨日の、香夜子ちゃんの猫ね、例のあなたの事故の日、同じ時刻に車にはねられたんだって。
で、彼女はミュウの生まれ変わりを探していたの。
1年もかけてよ。私、感動しちゃった。
ね、私は香夜子ちゃんが信じてたこと、まんざら虚実じゃない、と思うの。
雅子さんのこともだけど、彼女たちの気持ち、
私、よーくわかるの。
貴方を見ていると、大切な誰かといた時の幸せを思い出せる、
そういう力が、貴方にあるのよ、きっと」
「光栄ですね」
それが本当のことなら、本当にそう思う。
夏の言葉は、僕の中にある不安をどんどん埋めていってくれる。
「だからこそ、ね。"古島水凪"さん。あなたの今の生活を大事にしてください。
砂都貴ちゃんと一緒にいられる今を。
おせっかいついでだけど、砂都貴ちゃん泣かせてるのだけ、許せない。かつての友人として」
夏は、僕を一瞬睨むような目をしてみせ、また笑顔に戻って立ち上がった。そして、ため息を一つついた。
「貴方が事故にあった日・・・私たち、この店で待ち合わせをしていたの。貴方から、大事な用があるって。
これで何だかホッとしたわ。・・・さようなら」
「ありがとう。さようなら」
今度は僕から右手を差し出した。
きっと、かつての僕は、この人が大好きだったのだろう。そう、思う。
・・・・・愛川夏女史が去った後、僕はその店の公衆電話から自室に電話を入れた。
もしも・・・今夜キスしたいって言ったら、
砂都貴は怒るだろうか?
僕は、とても、欲しいのだけど。
コール音、8回。少し疲れた、砂都貴の優しい声。
<end.>
トパァズ~不安定な月~ 琥珀 燦(こはく あき) @kohaku3753
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