第3章

「それで、あれ以来、あの絵描きの娘(こ)と暮らしてんの?」

 LARKに火を点けて和泉(いずみ)がとんでもないことを言った。

思わず、グラスを持つ指が滑る。

「人聞きの悪い言い方しないでくれよ。遊びに来てるだけだよ、毎晩」

「じゃ、通い妻だな」

 今度はオン・ザ・ロックのでかい氷に鼻をぶつけてしまう。

「絵、描いてるだけだよ。話しながら」

「一晩中か?」

「まさか。毎晩眠らずにいられるわけないじゃん。ちゃんと睡眠はとってますよ。ま、ソファで並んで座ったままで寝ちゃったりとか。床の上でタオルケットかけたまま寝ちゃったときはさすがにあちこち痛かったなあ。そんなわけで眠りが浅くて、やや寝不足ってとこ」

 和泉の表情がだんだん硬直していく。

「お前たち、ひと月ほとんど一緒に暮らしてて、もしかして本当にまだ何にも」

「無いよ」

 こいつが何を言いたがっているか位は、記憶喪失患者の僕でも解る。

「そんな気にならないんだから、しょうがないじゃん」

「大丈夫か?お前さんたち」

「大丈夫だよ!!!」

 そういうことには、ちゃんと責任持っていたいだけだよ。だけど。

「・・・記憶喪失の男なんて、将来の見通し無いよなあ・・・」

 僕が呟くのを聞き、和泉は、ああ成る程、という顔をした。

「あの娘・・・砂都貴はさ。絵さえ描いてれば幸せそうで。何か、そういう彼女見てると、それでいいやって感じで。それで毎日幸せだし・・・」

 言ってることと逆に声がだんだん小さくなってしまう。

「そういうことなら、まあ焦らん方がいいかも、な」


 和泉は、例の事故のとき、僕の脳のCTスキャンを撮った技師。

年齢が近いことから、入院中からよくちょっとした会話を交わしていた。

 彼の家は代々医者で、典型的イイとこのぼんぼんである。

こういう彼が同情して家族ぐるみ後見人になってくれたおかげで、

退院後、医療機器メーカーの営業職に就くことが出来たし、部屋探しにも困らずにすんだ。

今のそこそこ安定した生活は、こいつの大いなる助力の上に成り立っているわけだ。僕は一生彼に頭が上がらないだろう。


「で、今日呼び出した理由なんだけど」

 そう言って和泉は不意に、窓際の席の方に目配せした。40代後半位の品のいい女性が立ち上がって軽く会釈した。

 僕はうんざりしつつ、一応お決まりのボケを言ってみた。

「浮気の相談?それとも」

「身元確認だ、ばーか」

 彼にしてみれば親切でやっていることなのだ。眉間に不機嫌そうな皺が寄るのも仕方ないが・・・。正直めんどくさい。 

「八神雅子さん。探偵事務所から俺んとこに例によって例のごとく連絡が入ったんだが。年齢から言ってお前のお袋さんだったりかも、だろ?」

 僕もまた不愉快そうな表情を浮かべてしまったのだろう。

僕が思い出せない以上、どんな過去の事実であろうと、僕は僕の過去として責任なんか持ちたくない。

それが解っていて、和泉が僕の無責任さに呆れていることだって解っているさ。

「だがな、今回は少し話が変なんだよ。彼女にしてみれば、苦労しまくって相手を探したんで、かなりナーバスになっているのかもしれない。ほとんど人違い間違いなしとは思うけど、それを確かめるだけで少しは安定するんじゃないかと」

「僕が?」

「彼女の精神が」

 僕は大きくため息をついてからカウンターを離れた。彼女の席に近づき、やや暗めの照明の中、顔がはっきり見える辺りに入るころには営業用の爽やかなスマイルに切り替え、会釈して顔を上げた。

 ・・・え?

 僕はこの人を、知っている。そんな気がする。

いや、正確に言えば何も思い出せない。でも、何故か懐かしい。

 もしかしたらこの女性は多分過去の僕に何か縁のある人なんだ。

「母さん?」

 恐る恐る声に出して言ってみると、彼女は静かに、しかし怪訝な顔で言った。

「何を言っているの? あなたは、20年前、私と結婚して三ヶ月で行方不明になった、私の夫でしょう?」


・・・・・・・誰か計算機持ってきて。

 そう思いながら僕は軽いめまいをやっと抑えた。

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