第2章

 ビルとビルの直線に囲まれて

四角い夜空が見える。

地上が明るすぎて星は一つも見えない。

真ん中に、小さな、小さな三日月。

 砂都貴(さつき)に逢ったのは、そういえば先月の三日月の夜。

 僕の住居のビルは、一階がコンビニになっている。

その脇の螺旋階段を上がろうとして、

店頭の石段にちょこんと腰かけている少女に、目が止まった。

 一目惚れだった。

枯れ葉色のロングフレア・スカートが路面に擦れるのも気にせずに、

街灯の灯りだけを頼りにパステルを動かしている。

レースのショールにかかる、栗色の緩いウェービー・ロング。

彼女自身が一枚の絵だった。

 僕が近付いていくと、こちらを見て微笑み、

スカートの砂埃を払って立ち上がった。

真っ黒な、くりっとした瞳。

「…ずっと、ずーっと探してたの。やっと見ーつけた」

 ノートを脇に抱え、胸の前で手を合わせて、

溜め息をつくように言った。

両手の中に宝物を抱えているかのように。

「始めは、去年の5月。私の誕生日に、

友達に連れていかれたディスコで、貴方を見掛けて。

でも、その時は名前も聞けずに、それっきり」

 ということは、彼女は事故以前の僕を見てたんだ。

「昨日、近所で偶然見掛けて、尾行しちゃったの。今度だけはどうしても、見失うわけにいかなかった」

「変な子だね、君は」言葉に合わない、多分にこにことした顔で、僕はこう言った。すると、

「"さつき"です。青山砂都貴。…名前、教えて」

 黄色のパステルを僕に手渡し、クロッキー帖を広げる。パラパラと一瞬一瞬見える街並みの絵、落書きみたいな、温かい色遣いで…どの絵にもたった一度会っただけの筈の僕がいる。

 彼女は僕より一年も前に、僕に恋してくれていたんだ。

 一番新しいページの隅に名前を書くと、砂都貴はキャンディをかみ砕くように二、三度繰り返して読んだ。

「こじま、みなぎ。冷たくて、甘い。三日月の色みたいな名前」


 その夜は、僕の部屋で紅茶を飲みながら語り明かした。

 街外れにある美大の学生の彼女は、入学一ヶ月にして大学の閉鎖という不幸に見舞われた。

世界の終わりの緊迫感の中、

絵を描くことより大事なことを持っていた学生や講師たちが

キャンパスから姿を消したのである。

 絵描きになる夢の為に実家から勘当までされてきた砂都貴は、ひどいスランプに陥った。

 全人類どころかこの世が消滅するなら、自分は誰に見せるために絵を描いているのだろう。

「自暴自棄になってた時に、貴方を見かけたの。その瞬間に、私は生き残れるって、直感した。

・・・結局、誰に見せようって描いてるんじゃないんだ、私の場合。心を揺り動かされるような何かを見ると、描かずにいられないの。

酸素を吸ったら、二酸化炭素を吐く。それと同じ。

だからね。安心して、また描き始めたの。

どんなパニックの中でも、必ずひとつは綺麗なものに出会えたから」

 彼女のクロッキー帖に溢れる、優しい風景。

街路樹のグリーン、水色のモノトーンで描かれた風の中のビル街、

子供たちの笑顔、薔薇色の中で見つめあう恋人たち・・・。 

 そして、菫色の夜の森に、トパァズ色の三日月。

「私、きっと生き残って、21世紀にも絵を描いていられるって信じてた。

もし、それを実現出来たら、もう一度貴方に会えるはずだって。

貴方に声をかけるのはそれまで保留にしといたの」

「でも、・・・ごめん。君がひとめぼれしてくれた僕は、

たぶん今の僕じゃない」

 何となく、申し訳なくなって、記憶喪失になってしまったいきさつを語った。

「ん。確かに初めて会った時とは、印象がずいぶん違うなあと思った。

・・・あの時は、何ていうか・・・派手だったもの」

「はで?」

「そう。着てるものとかはワイシャツにネクタイの、

まあ、それなりに普通なビジネスマンなコーディネイトだったんだけど、

踊りとか、オーバーアクションじゃないんだけど、自然で。

あれはね。『かっこいい』って言うより『綺麗』だったのよ。

あの界隈では有名人だったみたいよ。ファンも多かったみたいだし」

 ため息が出てしまう位の違和感。

ディスコなんて今の僕、全然興味ない。

地道と誠実が取り柄のサラリーマンだもの。

「でも、今の貴方だって好きだな。全然変わりなく、

どきどきするもの・・・こうして傍にいると」

「顔は、変わらないしね」

「意地悪なのね」

 眉間に皺を作って、少しすねたような表情を作る、と思うと、不意に僕の右頬に唇を近づけた。

「お願い。貴方を、もっと描かせて」

 何だか、普通こういうのって、

パターンが男女逆じゃない?

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