微笑む雨代

 名留羅の刺突に対し、苦悶は再び逆袈裟に前髪を振り上げた。

 自分の心臓目掛けて突撃して来る、名留羅の一点集中攻撃に対し、扇形を描く様に広範囲に対応できる迎撃態勢に切り替えると苦悶は目を見開いてかっ、と破顔一笑した。

 自分の左下から薙いで来る鎌いたちの気配を感じた名留羅は、少しも疾走のスピードを殺さずに野太刀を突き出しながら逆手で持ち替えると、刃を鞘のない右の腰に納めつつ地面と水平に倒し、居合の構えのまま、更に低い姿勢で苦悶の右腕の方へ、長い前髪の方へ突っ込んで行く。

(そのまま来い)

 苦悶は己の勝利を確信し、大きく目の前の空間を薙いだ。


 次の瞬間、心臓に冷たいものが差し込まれた様に感じ、彼の耳に名留羅の囁きが聞こえた。

「根来の奴等の方が手間取ったぜ」

 刹那、苦悶の顔の真ん中に縦に線が入り、一気に上から断ち割れた。


 のけぞり、倒れて行く苦悶。その左胸にはぎらぎらと刀身を輝かせた名留羅の片手剣が突き立っていた。

 地面に身体が叩き付けられた瞬間、身体の前がぱっくりと割れ、血と臓物がまろび出た。


 何が起こったのか。苦悶の脳髄はその思考に耽ろうとした瞬間に断ち割れ、思考を止めた。


 彼の前髪は確かに名留羅を絶妙のタイミングで薙ぐはずであった。そしてスピードを殺さぬまま突撃した名留羅は逆袈裟に寸断され、血の海に伏しているはずだったのである。

……あのままの流れならば。


 以前名留羅は飲み屋で木片に一瞬だけ飛び乗り、とんぼを切ったと記したが、今回も同じ様な事をやってのけたのだ。

 苦悶へ突進し、断ち切られんとするその数歩前、彼は自分から前方に倒れ込みつつ、左手で腰帯から片手剣を引き抜き、地面に刺さず、立てた。

 そしてその柄にとん、と飛び乗った時、わずかに苦悶の狙ったタイミングとずれたのである。

 地面と水平になりながら回転しつつ左手で片手剣を逆手に握り、その時には風を切り、薙ぎ上げられていた苦悶の心臓に突き立てた。その左手はその時既に野太刀の柄を同時に握り締めていたと見える。

……左手は力を入れずに添え、右手は逆手のままで。

 勢いを殺さずに、櫂で舟を漕ぐ様な構えで、名留羅は大上段で苦悶を脳天唐竹割りにしたのであった。


……彼の前に片膝をついて血濡れの野太刀を斬り下げる様に左手で持ち、閉じていた瞳を開けると名留羅は立ち上がり、苦悶の胸に刺さっている己の剣を引き抜き、それぞれの手に持ち虚空を一閃して血を払った。


 その時名留羅の左腕に三本の筋が走り、ぶっ、と一度だけ鮮血が噴き出した。

  転がり落ちる野太刀。左手の布は解け、手首の辺りでぶら下がり、風に吹かれた。

「……ちっと……踏み込みが早かったかね……」

……さすがの名留羅でも、苦悶の前髪の全ての束のなびきまでは計算し切れなかった様である。


 野太刀を、歯を食い縛って拾い上げ、片手剣と共にそれぞれの鞘に収める。

……名留羅は左手に右手を添え、優しく撫でると、そっと呟いた。

「ここまで持ってくれて……ありがとうよ……」




 名留羅が苦悶に接触したのと同じ頃。

 お夕の家の前に立ち、海賊縛りでまとめた黒髪をなびかせる雨代の前には凪が立っていた。

「お前だけか」

と、凪は彼女を見据えたまま問うた。

 雨代は飛んで来た木の葉をすう、と伸ばした右手で摘み取ると、口元に持って行き、瞳を閉じて香りを楽しみながら言った。

「そう。ここにいるのは私だけ。また、しんがりも私。

 何時も私は置いてきぼりじゃ。千手丸を狙って来たのだとしたら骨折り損であったな、伊賀のくノ一」

「全くじゃ」

 二人のくノ一は、ほほほう、と手の甲で口元を覆って笑った。


 それは忍法地獄と化したこの村外れに響き渡るにはいささか場違いなほど美しい響きであった。

……そしてその笑みの下には、間に割って入ろうものなら凍結させられんばかりの冷え切った殺意が交錯していた。

「ならばせめて甲賀のくノ一の首をもぎ取って行くくらいせぬ様では、私はとんだ笑い者じゃの」

 雨代が葉をつまんでいた指をそっと開くと、彼女の口元からそれは風に乗り、飛び去った。瞳を開いた雨代の墨で引いた様な眉が、凪を嘲る様に右だけ上がった。

「首はやれぬなあ。それに、良いではないか、笑われておれば。

 可愛い弟の様な千手丸を苦境に追いやった内の一人、嘲られるは実に心地良い。

……そしてその女が私の目の前にいるのであれば尚更な」


……弟。雨代は千手丸への想いを断ち切ったのだ。

 しかし、今後は弟として猫可愛がりするつもりである。雨代はそういう点が実にちゃっかりしていた。

……そこが、名留羅が彼女に惹かれた由縁でもあったのだが。


 雨代は空を見上げ、呟いた。

「私は

『嫌な奴と共に見る晴れた空』

というのが大嫌いじゃ。

『嫌な奴と共に吸う澄んだ空気』

というのはもっと嫌いじゃ。

……血の雨を降らせようか、伊賀のくノ一」

「気が合うな。どちらが血の気が多いか試してみようか」

 世間話でもする様に微笑を浮かべながら、腰の後ろから凪が手に手に携えたものは、『フクロナガサ』と呼ばれる秋田のマタギが使用する山刀、そして刃の部分が日の光を受けて輝く、やけにブレードが大きな面積を占める糸切り鋏であった。

 ナガサはともかく、この糸切り鋏の刃の大きさは異様の一言に尽きる。子供、いや、そこらのか細い女の腕くらいは楽に切断できそうだ。

 それに目を注ぐ雨代の視線に気付き、凪は

「これか?」

と己の手元のその鋏を見た。

「これは実に役に立つものでな。色香に騙されて近寄って来た男の股下に突き刺して腱を切ってやると実に良い声で泣くのよ。

 ちなみに私はその後、そういう阿呆の顔をこれで滅茶苦茶にしてやるのがとても好きじゃ」

 雨代は眉ひとつ動かさず、ふん、と鼻を鳴らした。

「大した趣味じゃな。私はそれが欲しくなった。

寄越しゃ、伊賀の畜生牝」

「いやじゃ」

「では手首ごと引き千切って奪い取るか。お前がどういう声を上げるか、楽しみじゃ」

「やってみろ」

 再び微笑を向け合った二人は、次の瞬間、相手に向かって互いに地を蹴り、飛びかかった。




 更に同じ頃。躯螺都と巴は船着き場へ向かって霧の中、川べりを走っていた。

 そこらの人間には気配すら辿れぬ忍びの走法。それの行く先に、こちらも苦悶の前に現れた様な影が立った。

(名留羅か……?)

 懐に手を突っ込み、鉄ビシを手にした躯螺都は霧の奥へと目を凝らした。漆黒の闇も昼間の様に見通す忍者の目にも、相手の姿は良く見通せない。やっとの事でそれが誰なのかを確認し、彼が口にするより先に、巴がその名を口にした。

「鬼岳……沙衛門……」


「おうよ」

と、影が返事をした。

 ゆらり、と二人の前に沙衛門は歩いて来た。

「そこをどけ」

 躯螺都の獰猛なうめき声も沙衛門には何処吹く風、という様であった様だ。

「そうは行かぬなあ。俺はな、躯螺都、貴様にお時殿の行方を聞かねばならぬのよ」

「あの女は死んだっ!」

 巴の目が見開かれ、躯螺都に向けられた。どうやら今の今まで知らされていなかったと見える。

 沙衛門はそれを横目で見つつ、躯螺都に訊ねた。

「嘘ではあるまいな?」

「嘘なものか。俺と苦悶が手を下した。……巴と逃げる為に」

「?」

 沙衛門が怪訝な顔をした。まさかこの二人と鴉丸が、現在逃亡の企てを進行中であるなどとは思考の外であったからである。

……しかし、何となくぴんと来たのか、沙衛門は呟いた。

「……しがらみから逃れる為、か」

「文句があるか!

 分かったらそこをどけ!! お前も殺すぞ!?」

 それを聞いた沙衛門は、躯螺都と巴を正面からまっすぐと見据えた。


 巴を後ろにかばい、躯螺都の血を吐く様な叫びが霧に飲まれて消えた。

 二人の若さが沙衛門には眩しく、微笑ましく思えた。

……まずい事に、かつての自分とるいを、彼は二人に見てしまったのである。


 沙衛門は心の中で名留羅、雨代、そして千手丸に呼びかけた。




(済まんな、みんな。

……俺は何となく……この二人の立場が分かってしまった様だ……)




 そして彼は躯螺都にあえて不敵に微笑み、そして告げた。

「ほう、面白い。俺とやるか、小僧」

 しかし、巴が躯螺都のかばう腕の向こうから叫んだ。

「お願い、千手丸へのお詫びならきっとします!!

 今は、今は見逃して……!!」

 沙衛門は少し考え、それから告げた。

「さすがに俺もお主ら二人をいっぺんに二人相手にするのは恐ろしい。娘、とっとと失せろ」

「何だと!?」

 躯螺都が驚いて叫びつつ、沙衛門を見た。

「文句があるならば貴様が俺を倒して後を追えば良いわ。

……伊賀の小猿に俺がやれればの話だがな……!」

「沙衛門様……」

 巴の哀願する様な声を聞いた沙衛門は、彼女を好色の目でにやりとしながら眺めた。

「小僧、貴様が負けたら俺はその娘を責め苛(さいな)んでやるからな。お時殿の仇の娘……どの様な声を上げるか楽しみだ……」

 巴が愕然とした表情を沙衛門に向けたのを見て、躯螺都は声を上げた。

「貴様……結局は甲賀のうじ虫か!」

「何とでも言え。

 どうした、早く決めろ。それとも二人揃って俺の夜のおもちゃにされたいか?」


……躯螺都は巴の耳に囁いた。

「先に行け、巴」

「でも……」

「俺はこいつを始末してから行く。

 普通に船に乗り、途中で鴉丸から聞いた通りに船を降りて、もうひとつの船に乗るんだ。

……俺は必ず追い付く。こいつを始末してからな」

……巴はそれを聞いて、諦めた様に呟いた。

「……分かった。躯螺都……死なないで」

「死ぬものか。先に行って待っていてくれ、巴」

 彼が巴の肩を押しやると、巴は闇の中へ消えた。


(さて……死ぬか)

 沙衛門は心の中で苦笑しつつ、二人を見やった。

 もし躯螺都が自分を倒せば、それは彼に自信を与えるだろう。

 甲賀者を倒したという自信を与えるだろう。

 巴を守って行くのだという自信を与えるだろう。


 船着き場で、千手丸が、この二人が、どう相手に対峙するか。そして、今は、なるべく不自然でない様に闘わなければならないのが問題であるが。

(途中で囁いてやるか)

とも思ったが、それだと躯螺都の決意が鈍るかもしれない。


(やれやれ。どうやら普通にやるしかない様だな……)

……後は二人次第だ。躯螺都と巴、そして沙衛門と躯螺都、それぞれ二人の。

 かつての自分達の様に、何処までも逃げ延びてくれる事を、沙衛門は心の中で願った。




 鬼岳沙衛門は千手丸、躯螺都、巴という若い三人の為に、あえて彼ら全ての目を欺き、死のうというのである!




……少し時間を戻そう。

 幾度目かの攻防の末、徒手空拳の雨代の右脇の下をすり抜ける様にし、右で逆手に構えたナガサを一閃する凪。それは弧を描いて雨代の脇腹を大きくえぐった。

(殺った!)

 片膝をついて自分の前に掲げた拳の先にあるナガサの刃の部分を見た凪は、己の目を疑った。

(血が付いていない……!?)

 同時に後ろから突風を感じた凪はそのまま左に転がり、振り返りながら起き上がる。そこには何処から取り出したか、薙刀を手元へ素早く引き寄せ、第二撃を横薙ぎで繰り出す雨代が笑っていた。

 即座に頭を下げ、それをかわそうとしたが、軌道を変え、斜めに自分の胴体を斬り払おうと迫る刃を、凪は後ろへ転がってかわすしかなかった。薙刀のスピードを殺さずに、左の手元に持ち替えて自分の左肩に柄を回すと、縦回転に切り替え、上段から振り下ろす雨代。

「くうっ!」

 横っ飛びでかわしつつ、左手のナガサを手元でくるりと回転させながら親指と人差し指で刃をつまみ、雨代の左目目掛けて疾風の投擲を繰り出した凪は信じられないものを見た。

 雨代の差し出した掌に突き刺さろうとする瞬間、ナガサは彼女の前に、水面に落ちた様に波紋を描いたのだ。そして空間が一瞬だけ歪むと、それは雨代の左腕の中に吸い込まれてしまった。

「なっ……!?」

「どうした?手品が珍しいか?」

 雨代の言葉にうめく凪。

「何……だと……っ!?」

……自分はひょっとしてとんでもない見込み違いをしているのではないか、と凪は思った。空中に波紋を描いてものを消す奴なんて見た事がない。

(それに……)

 雨代の右脇腹をえぐったはずなのに、一滴の血も流れていないのはどういう事であろうか?

(確かに手応えはあった……)

 うかつに近寄れず、2メートルほどの距離を置いて対峙する凪に雨代が声をかけた。

「どうした?動かぬか?

……お前のナガサ、確かに私の脇腹をえぐったぞ?深く、深くな……」

 雨代が、じり、と一歩踏み出した。

「だから、お前の得物をもらった」

「ううっ!」

 思わず後ろに跳び退ろうとした凪の襟首を雨代が素早く右手で掴んだ為に、反射的に逆手に掴んだ鋏で凪は雨代の顔を横薙ぎに一閃した。

……ぼぎぶちゃり。

 妙な音がし、その腕を振り切らない内に、たまぎる様な凪の絶叫が辺りに響いた。




 振り抜いた凪の、右手首から先は消失していた。

 代わりに無残に千切れた腕の残骸がそこにはあった。骨は崩れ、筋肉は千切れてぶら下がり、脂肪がはみ出し、血と入り混じってぼたぼたと垂れ滴っている。

「あああっ!

 私の……手が……」

 それを見下ろす雨代の顔には切り傷ひとつ、かすり傷ひとつ存在しなかった。襟首を掴んだまま、瞳を閉じ、しっかりと凪を抱き寄せる。

 文字通り身を千切られる様な激痛の為に、凪は抵抗する力を失っていた。

 涙を流しながら、雨代の腕に身を任せ、どうした事か、静かに取り込まれて行く。

「……『忍法 映し身渦』(うつしみうず)」

と、雨代は呟いた。

「私の身体にはどんな忍法も通用せぬ。

 いかなる攻撃を繰り出されようと……全てを吸い込み、飲み下すだけじゃ」


……己の身を、一種のブラックホールと化すくノ一。

 凪は、何故鬼岳沙衛門がこの女をここに置いて行ったか、その時点でやっと理解した。

「たわけた……話じゃ……」

「そんな事はないぞ? 得物も身体の奥に出し入れ自由じゃ。

……この様にな」

 刹那、雨代に抱きすくめられた凪の身体を、雨代の身体の前方から刀、薙刀、斧、槍……その他にも幾つもの刃が隙間もないほど突き出して貫いた。

 己の身体から吹き出る鮮血に、雨代も巻き添えにしてまみれつつ、凪はびくっ、と一度痙攣すると、がくりとのけぞり、そのまま雨代の身体に、貫く刃ごと綺麗に飲み込まれてしまった……。




 雨代が顔を横に一振りすると、黒髪がなびき、己を濡らしていた返り血が綺麗に消えた。

「こんな時代に薙刀一本で生き延びて行けますかってーのよ。馬鹿ね……」

 そして胸元に手を差し込むと、先ほどの糸切り鋏を取り出して日にかざしてみた。

「名留羅さんを懲らしめる時に脅しに使えるかもね……」

と、楽しげに微笑した。


 そして、次の獲物が来るかもしれない、と再び待とうとすると遠くから呼び笛の音が聞こえて来た。

 ひゅーい、という野山にそのまま溶け消えてしまいそうな澄んだ音色であった。

(この音は……名留羅さんの)

 雨代の表情が切なげに歪んだ。手元に吸い込まれて鋏が消える。

……彼が苦悶を打ち倒したのだ、という安堵に包まれ、雨代は胸に手を当てつつ駆け出した。

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