散る十字架

 躯螺都と巴が結ばれているのと同じ頃、千手丸とお時は連れ立って河原を歩いていた。

千手丸が昔の仲間の誘いを断ったと告げると、お時は

「そうでしたか……」

と足を止めてしゃがみ込み、水面を見つめながら呟いた。

「俺には無理な話ですから」

と、彼は口を開き、それからこう言った。

「それに俺のしたい事とは違うのです。俺はみんなと一緒にこの村でお時さんと静かに暮らしたい。

……それが俺の望みなのです」

 お時はそれを聞いて、袖で口元を覆い、少し笑った。

「やはりおかしいですか?」

 お時は楽しげに笑ってから、穏やかな表情に戻り、言った。

「いいえ。笑ったりしてごめんなさいね?

 私の望んでいた事が叶ったので嬉しくて」

「あなたが?」

「ええ。そう言えば……私の両親のお話をしましたっけ?」

「いいえ」

「じゃあ……せっかくですからお話しようかしら」

「よろしければ」

 千手丸は髪を縛っている布を解いて、お時の傍に敷くと

「どうぞ、これで良ければ座って下さい。着物が汚れずに済みます」

「でも」

「いいんです」

「……ありがとう」


「この村は旅篭があるでしょう? それに土地もいいから作物も良く取れます。堺へも数日で行ける。

 その為に織田信長の軍勢が合戦の度に通り道にして、散々蹂躙されたのです」

「所々に焼け落ちた寺や家があるのはそのせいですか?」

「ええ。ある時、また信長の一行がこの村を通る時、運の悪い事に信長を除いたお侍様方が

『数日この村に泊まられる』

と言われて、彼らのお相手をしろという事で村の女達が集められました」

 千手丸は何と言ったらいいか分からず、目だけでお時の足元を眺めた。

「酷いものでした。散々なぶり者にされ、それが終わると

『合戦前の景気付けだ』

と言って、今度は鉄砲の的にされる者や、新しく手に入れた刀の試し斬りに引っ立てられて行く者が村のあちこちに転がる様になったのです」

「あなたはその時どうされていたのですか?」

「……父と母が私とお夕をかばって殺されたのです。それからすぐに一行は村を出て行きました」

「そうでしたか……済みません、嫌な事を思い出させてしまって」

「いいんです。あなたには打ち明けておきたかったんです」

 それからお時は少し頬を赤らめ、告白する様に囁いた。

「誰もいませんね……」

「ええ。静かでいいや。こういう方が落ち着きます」

と千手丸が足もとに敷かれている石っころを眺めてから、大きく伸びようとすると、お時がしなだれかかって来たのでとっさに支えた。

「……大丈夫ですか?」

「はい……少し甘えても……いいですか?」

 千手丸の瞳が切なげに潤んだ。

「俺で良ければ」

「……あなたがいいんです。千手丸さん……」

「俺が……ですか?」

「ええ。初めて見た時に

『ああ、この人だ』

と思ったの。何がと言われると困りますけど……」

「お時さん……」

 千手丸はこの時初めて、しっかりと彼女を抱きしめた。


 彼の腕に抱かれながら、お時は告げた。

「……私も傷ものです。侍達に殺されはしなかったけれども、正直、本当はそこで死のうと思った。

 でもそうするとお夕がひとりぼっちになってしまう。それではあの子があまりにも可哀想。ひょっとしたら、道を踏み外してしまうかもしれない。

……それを思うと……死ねなかった……」

 千手丸は彼女を強く抱きしめながら、苦しげに声を上げた。

「いいんだ。辛かったら言わなくていいんだ。

……無理するのはやめてくれ……!」

 すすり泣く彼女の声を聞いて、千手丸は彼女の頭を何度も優しく撫でた。


「……俺も姉上を殺された。仇はあなたと同じだ。でも俺が仇を取る前に奴はくたばった。

……初めから俺達は似た者同士だったんだな……」

 千手丸の声にお時が目を開き、顔を上げた。

「千手丸さん……」

「……俺もここにいたい。みんなと、あなたと。

 何もあてにならないならば、ならないなりに多分、いや、きっと楽しくやって行けるよ。それに……あなたを初めて見た時、

『やっと血生臭い暮らしから足を洗えるかも』

って、そんな気がしたんだ……」


 暖かい風が、その時二人を撫でる。

 お時は涙を流したまま、彼に微笑んだ。




 空を鳥が飛んで行く。自分達以外には誰もいない場所。

 二人は静かに唇を重ねた……。




「いいのですか?」

 お時に導かれた村の外れの、生い茂った草木に覆われて、坂道の頂きの一部にしか見えぬ廃屋。その中で、千手丸は中をきょろきょろと見回しながらお時に訊ねた。

「ええ。ここはお夕を隠れさせた場所。床下から抜け道があっていざと言う時には街道へ出られます」

「あなたのお父上とお母上がここを?」

「はい。

……ここなら、誰の邪魔も入らない……」

「お時さん……」

 彼女は千手丸の体に両腕を回して抱き付き、彼の豊かな胸に頬を押し当てた。

「もし、私を思うなら、あなたの好きな様に抱いて下さい。

 あなたの気持ちが欲しいんです……本気で愛して……」

「……分かった」

 髪をまとめている布を懐にしまったままの千手丸は彼女の両肩をそっと抱いて体を離すと、自分の着物の帯を解き始めた。


 一糸まとわぬ純白の裸体を露にした二人は、髪を振り乱し、喘ぎ、頬を染めつつ、漆黒の中で激しく絡み合って、求め合っていた。千手丸の腰のものがなければ、女同士が絡み合っている様にしか見えない。

 彼は、ありのままの姿で彼女を抱く事にしたのだった。


 千手丸の頬を愛しげにお時が吸えば、彼女の豊かな胸を千手丸が揉みしだく。

「お時……!」

 胸と胸、腰と腰を合わせる様にして、上になり、下になり、互いを激しく求め合った。

 壁に手をついたお時の肌を撫でさする様にかき抱きながら、その背に舌を滑らせ、切なげに後ろから千手丸が幾度も腰を打ち付ける。

「ああ……!」

 腰まである黒髪を振り乱し、お時が切なげに声を上げる。彼女の両の乳房を荒々しく揉みながら、首筋を千手丸は舐め回した。汗で頬に貼り付いた髪もそのままに、潤んだ虚ろな眼差しで、お時は千手丸を求めた。

「もっと……」

 彼女に体を少しよじらせて、自分の方へ顔を向けさせると、その唇を彼は思い切り吸った。舌を絡め、左手で彼女の乳房を揉みながら、少し腰を引き、一気に突き入れる。

「んうっ!

……ん、んん……」

 お時は切なげに眉を寄せ、一筋の涙を流した。


 正座した千手丸の上にお時がまたがっている。腰を動かしながら、彼女の尻を両手で揉みほぐし、それから右手で彼女を激しく抱きしめた。豊かな四つの乳房が二人の間で押し潰され、逃げ場を求めている。

「あっ、あっ、あっ……あああっ……」

 お時も千手丸の頬から耳の下にほっそりとした手を滑らせ、彼の首筋に顔を埋めた。

「は……んんっ……」

 耳たぶを吸われ、千手丸は女の声を上げた。沙衛門がかつての連れ、るいの表情を浮かべたこの千手丸を見たら、反応したかもしれない。

「……綺麗な目……」

 お時がそう呟き、彼の前髪をかき上げた。

「……姉上が生きていた頃、同じ事を言ってくれた」

 彼女を見つめたまま、千手丸が熱に浮かされた様な眼差しでそう告げた。

「……お姉様の事が大好きだったのですね」

「小さい頃は自分の知っている中で一番の美人だと思った。

……昔の話です」

 息を荒げながら、彼の動きに身を任せつつ、お時は告げた。

「……私を、お姉様の代わりだと、思っても……構いませんよ?」

 彼女の首筋を舐めては吸いながら、千手丸は囁いた。

「俺が驚いたのはそこです。あなたを初めて見た時、姉上が生きていたのかと思いました」

「そうだったのですか……」

「……でも今は違う。俺が好きなのは、姉上ではなくてあなただ。

……ずっとこうしていたい……」

 そう言うと、千手丸は彼女の乳房に子供の様に吸い付いた。


 そろそろいきそうだ、と彼女の上に重なった千手丸は思った。

 沙衛門や名留羅に身を任せる時、そして雨代を抱く時。それと無意識に比べている自分を省みて心の中で苦笑した。

 お時は既に上り詰めている。

「あっ、あっ、ああっ……もう……」

「俺も……そろそろ……」

 彼女をかき抱き、緩急をつけて腰を打ち付ける。ひねりを加えて一撃を打ち込む。お時の桜色に染まった頬に口付けをしてから、彼女の唇を吸う。体を密着させ、千手丸はお時の、お時は千手丸のぬくもりを感じた。

「んんっ! あああ……っ!!」

 不意に自分のそれが閉めつけられるのを感じ、その瞬間千手丸も爆ぜた。

「あっ……!」

 それにも構わず限界まで腰を打ち付ける。それを受け入れながらお時のそこは全てを搾り取ろうと柔らかく締め上げた。

「うぐ……う、ううううううっ……!」

「ああああっ……!」

 切なさから千手丸は歓喜にのけぞる彼女の唇を荒々しく奪った。必死になって彼女の事を力一杯抱きしめた。


  全てが終わった後、二つの白い裸身は重なったまま、しばらく動かなかった……。




 凶事はそれから一刻の後に起こったのである。




 家に戻った頃にはとっぷりと日も暮れ、夜のとばりが舞い降りていた。名留羅と雨代は一応の見廻り、沙衛門は仮眠、千手丸は炊事場でお夕と共に晩飯の用意をしていた。

 そしてお時は入口のすぐ外へ薪の補充をするべく出て行った。

……それが、千手丸がお時をこの家で見た最後になった。




 夜の河原。倒れていたお時は目を開いた。そこが先ほど自分と千手丸がお互いの気持ちを打ち明けた場所だとは、彼女は気づいていなかった。

 意識を取り戻した時には前髪の長い男と、ざんばら髪を縛った黒衣の青年の立ち尽くす間に挟まれる様に倒れていたのだ。

……苦悶と躯螺都である。


 あの時、玄関先で一瞬にして苦悶の前髪に絡め取られて空中へと跳ね上げられ、腹部に一撃を食らったと思ったら意識が途切れ、気が付くとここにいた。

 自分を見下ろす様にして苦悶が口を開いた。

「なるほど、月明かりだけでも美しく見えるおなごじゃ」

 彼が三白眼を、月明かりに照らされながら大きく開いて自分を見ているのを感じ、お時は背筋が凍り付いた。

「俺達が恨みがあるのは千手丸だ。お前ではない。

……だが奴を確実に始末する為なら手段は選ばぬ。ここで死んでもらう」

 闇夜にシルエットのみを現しながら、躯螺都が告げた。

 その下げた手に幾十にもゆるく絡み付いているのは、沙衛門が見れば

『自分達は『霧雨きりさめ』、伊賀者達は『海女髪あまがみ』と呼んでおる』

と教えてくれただろう。

 しかし今、自分の傍には彼はいない。名留羅も、雨代もいない。


……そして千手丸も。


 それでも彼女は叫んだ。

「千手丸さんがあなた達に何をしたと言うのです!?」

「俺達の計画の第一歩に横から足を出して引っくり返してくれよったわ」

と、苦悶が心にもない事を恨みがましく言った。彼にとっては『七ツ針』の行く末など知った事ではないからだ。それでも甘い汁を吸える限りはあやかるつもりである。

「あの人は静かに暮らしたいだけなのです!」

 次の言葉を躯螺都が遮った。

「俺もだ、女。俺だって何処か静かな所で暮らせる事を願った。好きな女とな」

「それなら何故……」

「それには奴の力が必要であったからよ!

 奴が俺達の計画に加わり……俺達の様な異形の者でも暮らせる世界を作る掛け橋にさえなってくれれば!!

 手を差し伸べてさえくれれば!

……俺達は奴のする事に口出しはしなかっただろうよ……」

「そんな……千手丸さんにそんな事が」

「出来るのよ」

と苦悶が口を挟んだ。

「女、奴の秘密を知っているか?」

「秘密?」

 お時は怯えつつも内心首を傾げた。彼の秘密と言えば、あの両性具有の身体の事しか知らない。

 まさか幾ら何でもあの身体だけで彼らの得体の知れない計画を成功させ、ざんばら髪の男の言う

『異形の者でも暮らせる世界』

を作れはしまい。

……この男達は一体何を言っているのだ?

「自分の糸に絡めて乳繰りあっておったのだろう? それくらいは知っておろうが」

「知りません! そんな事は私とあの人には関係のない事です。

 知らなくても……いい事です……」

「するとやはり身体に聞かねばならぬなあ。三つ数える内に逃げてみろ、女。逃げ延びたらお前の勝ちだ」

「苦悶」

「良い良い」

 躯螺都の咎める様な声を受け流す様に手を振り、三白眼で楽しげに見つめながら、お時にもう一度声をかけた。

「どうした、女。千手丸の命はお前が握っているも同然なのだぞ?」




 お時は走っていた。

 後ろから苦悶が楽しげに追跡している。躯螺都も一緒だ。息ひとつ乱していない忍者の走行。

 躯螺都は苦悶の態度にいらつきながらも、内心では彼の隙を伺っていた。

……出来る事ならばここで苦悶を倒しておきたい。そう思い、彼の一瞬の隙を狙って攻撃を仕掛けるつもりなのだ。


 躯螺都は、自分達の中で苦悶が一番手強いのではないかと今まで思っていた。柘榴と凪は己の秘術を尽くせばまだ何とかなるかもしれないと思っていた。

……だが、この男だけは奥の手が知れなさ過ぎる。

 場合によっては、彼に手ほどきした五人の比類なき剣豪を一度に相手にするも同じなのだ。自分の頼りになるのは、己の不死身の身体と、特製の鉄ビシ、そしてこの腕に絡み付いた海女髪だけ。


 ふと、一瞬、目の前の女が不憫に思えた。だが、

(自分の一番大事な女は巴だけだ)

と思い直し、ひたすら追う事にした。


 巴の他には誰もいらない。

 その為なら、必要な事なら、太閤秀吉の妾達を全員火あぶりにだってしてやる!


 川の下流の途中にある滝。その崖っ淵にお時は追い詰められた。

 苦悶は全く息を乱しておらず、楽しげに歩を彼女へ向けて進める。

「観念したのか?この様な所へ逃げて来るとは」

 そう呟きながら彼は左手で刀を逆手にゆっくりと引き抜こうと、刃を鞘の中で滑らせた。お時の瞳が悲しげに潤んだ。

 そして言った。

「……あなた方は千手丸さんと同じ故郷の方々だそうですね」

「それがどうした」

 苦悶は微笑を浮かべたまま、歩みを止めた。

「何故同じ土地の者を脅してまで力を得ようとするのですか?」

「?」

「他に方法は全くないのですか?」

「……そういう事か。他に手はない」

「……そうですか」

 お時は覚悟を決めた眼差しで胸元の十字架のネックレスを取り出して、両手で握り締めた。




 脳裏を千手丸達の面影がよぎった。

 愛する妹、お夕の活気に溢れる表情がよぎった。

 そして、次第に千手丸達が来るまでに起こった凶事の数々が消え失せるのを感じた。


……自分の中には彼らとの思い出だけが輝いている。

(千手丸さん……)

 心の中で彼の名を呼んで、それから苦悶を見据えた。




「私は……こうなっても仕方がない事をあなた方にしたのですね」

「まあな」

 苦悶は完全に刀を抜き払うと、白刃を引っ提げて舌なめずりをした。滝の水音に消されるくらい微かな声で、お時は呟いた。

「私はマリア様の御許にあって、千手丸さん達を、お夕を御守りします。

……さようなら、みんな。さようなら、千手丸さん……」

 次の瞬間、お時は滝壷へと十字架を抱いたまま、身を投げた。


「させるか!」

 躯螺都の海女髪と苦悶の前髪が風を切り裂いてお時の身体を捕えようとしたが、どういう訳か、彼女の身体をすり抜けて帰って来た。

「ど、どうした事じゃ?」

 苦悶は自分の目の前で起きた事に驚愕して目を剥いた。この時が千載一遇の苦悶を倒すチャンスだったのだが、躯螺都がそれに気付いた時には彼は刀を鞘に納めていた。

 躯螺都はため息をひとつ付き、目の眩むような高さの滝壷を覗き込み、言った。

「この高さじゃあ、恐らくばらばらだ」

「ま、まあ、一応は始末がついたという事だの」

と、苦悶が言う。

と、そこへ屍鬼藤が小走りにやって来た。

「千手丸が来る」

 躯螺都の身体から殺意が燃え上がった。


「おい!」

 千手丸だ。汗だくのまま、緊張に強張った表情で躯螺都達を凝視している。

「俺が世話になっている家の娘を知っているだろう。ここへ来なかったか」

 目の前で自分のおもちゃとしてしか見る事の出来ない対象が平常心を失っているのを見て、苦悶のサディスティックな精神の一角が露呈した。

 彼は悪びれもせず、言ってのけた。


「その伴天連か。俺が斬った。

 立派に育った身体を堪能させてもらった」




 千手丸の中で時間が止まった。


……さっきまで手を繋いでいたお時が……もう、いない。

 また自分が原因で大事な人が死んでしまった。


……自分を何時も守ってくれた、姉の様に。


 この時、後々まで尾を引く拭い去れない絶望が、千手丸のこめかみへ横合いから思い切り、鋼鉄の鉄槌による一撃を加えたのである。




「……俺か」

 長い前髪の奥で、千手丸の桜色の唇が言葉を漏らした。

 苦悶は千手丸へ痛恨の一撃を加えられた事を知り、喜びで目が眩みそうになった。

 背筋がぞくぞくする。

 やはりこの喜びは他のものには代え難い。

 そう思った。

「……俺が……そもそもの原因か……」

「そうよ。お前は生きている限り永遠に誰かを失い続ける。

 その身体のせいで。

 その身に授かった秘伝の術のせいで。

……世界中がお前の敵だ、十手千手丸。

 お前に手を差し伸べる者は常に好奇の視線を浴びせ、お前に害意を抱く者は常に嗜虐の悦楽に身をあぶられているのだ。

 いい加減に気付け、千手丸」

 苦悶はそう言うと、ははははは、と声高らかに笑った。


 千手丸の深いため息が聞こえた。

「……そうだな。もっと……もっと早く気付いていれば……お、お時さんを……し、死なせずに……」

 千手丸の頬を……涙が伝って行く。そしてその両手には闇夜に煌く二鉤十手が何時の間にか逆手に握られていた。

「やるか、千手丸」

 それに答えず、千手丸は口元で何かを唱えた。




「……我、ほむらの中に氷塊となりて、彼方を見据えん。

 我、草木の中に風となりて漂い、鳥の声と共に彼方へ消えん。

 喜びの渦中にあってはこれを敬い、悲しみの渦中においてはこれを受け入れ、共に歩まん……共に滅びん。

 全ては……輝く星々の……広がりの下に……」




 千手丸の髪が風もないのに大きくざわめく。

 苦悶の言う通りだと感じた。希望は潰えた。千手丸はそう思った。そう思わずにはいられなかった。

 自分がお時とお夕を、彼女達の、少なくとも平穏であった暮らしに土足で踏み込み、滅茶苦茶にしてしまった。

 最早、そうであるとしか思えなかった。




 だが、そうでしかないのだとしても、苦悶を捨て置き、かつての様に怯えて逃げ出す気は微塵も湧いて来なかった。

 勝つか負けるかではない。そんな事はどうでもいい。

 少なくとも、お時を貪って殺したというのなら、地獄に引きずり落としてやらねばならぬ。

 そうでなければ、天にも地にも、地の底にすらも、行き場がない。




 己を取り巻く善意と悪意の間でどうすればいいのか、どう生きて行けばいいのかが、もう分からない。




 彼の怨念渦巻く慟哭が、彼らの耳に届いた。

「……貴様ら……まとめてぶっ殺してやる……!

……忍法……変身転生……!!」


 かっ!

 金色に輝いた千手丸の瞳の煌きが屍鬼藤の視界を射抜くと、一瞬にして彼の魂は千手丸の身体の奥底へしまい込まれた。そして屍鬼藤の身体に乗り移った千手丸は、サイドにいた苦悶へと、苦無を片手に獣の様に飛びかかった。

「ちいっ!」

 一瞬にして再び逆手に白刃を引き抜き、下から殴り付ける様に屍鬼藤の身体を両断した苦悶は、次の瞬間、自分の刀を握った左手が手首の所からずるりと滑り落ちるのを見た。

「な……っ!?」


「よう」

 名留羅だ。

 何時の間に、と思う間もなく、自分の目の前数センチに牙突の構えから繰り出された野太刀の先端が迫っているのを見た苦悶は予備動作なしで地を蹴り、大きくとんぼを切って、高く舞った。

 それを見ながら瞬時に片手剣を鞘ごと抜いて立て、その柄の部分に片足で飛び乗り、地面に背を向けて一陣の旋風の如く回転しつつ、冷酷な野太刀の一閃を苦悶のそこへ叩き付ける名留羅。

 しかし頭を振って下半身に無理やり遠心力を加えて丸まった苦悶は、背中の皮を一枚斬られただけで恐ろしい事にそれをかわし切って更に回転しながらすとん、と、彼より低い位置に滞空していた名留羅と同時に着地した。

 そして苦悶の残った右手には刀が握られていた。落ちる左手から掠め取ったのだ。

 転がっていた片手剣が鞘ごと飛んで名留羅の手に収まり、腰帯にぶち込んでから剣だけを引き抜く。鞘に沙衛門の風閂を括り付けておいて、それを手繰り寄せたのだ。

「……あの時……あんたを斬っておかなかったのが悔やまれてならねえよ……」

「俺もだ」

 二つの影が睨み合った。


 二人の神速の死闘から2メートルほど距離を置いて苦悶に付け入る隙を窺っていた所、背後に気配を感じた躯螺都は振り返りもせずについ、と手をひねって海女髪を飛ばした。それが絡み付いた手応えを感じた刹那に手元へ引き寄せるとそれは両断された屍鬼藤の首であり、盾にされたそれに気付いて振り返った躯螺都の目の前に千手丸が殺到していた。

 逆手に握った十手を右、左、彼に背を向ける様に足を軸にその場で右回転し、左、左、左と繰り出して来るのを黒髪をなびかせ、何とかかわし切った途端に、逆に地面を背に空中で左へ回転して振り上げて来る千手丸の左の踵、そして右のつま先を、汗の玉を散らして避け切った。

「異国の武芸者か、貴様……!」

 しゃがみ込んで着地した千手丸の横顔に、至近距離で鉄ビシを発射したが後ろに倒れ込まれ、紙一重で軌道をかわされた。転がり、起き上がりつつも低い姿勢で爛々と輝く金色の瞳を千手丸が自分に向けて来たのを見て、彼は撤退する事にした。

 こちらは手負いを抱え、向こうはぴんぴんしているのが二人。どう考えても分が悪すぎる。


「千手丸」

「どうした……来い!」

「決着は後日だ」

「臆病風に吹かれたか?」

「ああ。頼みの綱が役に立たなくなってしまったからな」

「それは俺の事か、小僧!」

 躯螺都の声に苦悶が唸り声を上げた。冷え切った視線を飛ばすと躯螺都は言ってのけた。

「そういう事さ、おっさん」

「貴様……」

「どの道どっちかが消えなきゃならないんだ。

 またな、十手千手丸。闘う場所は追って告げる」

 それだけ言うと、躯螺都の身体は滝の下へ落ちて行った。

「ちっ……!」

 苦悶も諦めたのか、大きく跳躍し、崖の下へ落ちて行った。


 地面に十手が転がり落ちる音がしたので、名留羅は鞘に二本の刀をそれぞれ納めつつ、そちらへ駆け出した。

 千手丸は膝をついていた。

「……千手丸、ここは一旦引き上げだ」

 名留羅が手を差し出して立ち上がらせようとすると、彼は首を振った。

「……何を、言われた?」

「お時さんを……奴らが殺したって……」

「苦悶の奴が……そう言ったのか?」

 千手丸は頷いた。

……すすり泣いている。

「……奴が言ったんだ。

『お前は生きている限り永遠に誰かを失い続ける。

 早く気付け』

って」

「……千手丸……」


 名留羅は片膝をついてしゃがみ込み、千手丸の肩に手を置いた。

「何か……兄ちゃんにしてやれる事はないか?」

 千手丸は両手で名留羅の二の腕の辺りの袖を掴み、うつむいたまま涙をこぼし続けた。

「……ど、どうして俺は……こんな身体に生まれたんだろう……」

 不憫そうに名留羅は彼を見つめたままだ。千手丸が涙に濡れた顔を上げ、彼に微笑した。

「いっつもこうなんだよな……だ、誰かと一緒にいたいだけなのに……俺が原因で何もかも、一切合財滅茶苦茶になっちゃうんだ……」

「そんな事ないさ」

「……俺、色々考えてみんなとやって来たけどさ。

……お時さんも、し、死んじゃったし……どうしたらいいか……分からないよ。

……分からないんだよ……兄ちゃん……」

「千手丸……」

 思わず名留羅は千手丸を思い切り抱きしめた。

「ひっ……ああぁ……!」

 名留羅の背中に両腕を回し、彼の胸に頬を押し付けて、千手丸は声を上げて泣きじゃくった。


「……ごめんな、千手丸。今まで色々なヘマをやらかしたけどさ、こんなのは初めてだ。

 お詫びのし様がねえよ……」

「に、兄ちゃんが悪いんじゃないよ……俺が……俺がいなければ……」

「違う。違うよ、千手丸。そんな事……あるもんか。

 あの野郎が言った事なんか気にするな。今は休んで、次にどうするか考えるんだ。

……沙衛門さんが言ってたけどさ、俺だって、お前やみんながいなかったらつまらなくてやって行けねえよ。

 だから……俺達と一緒にいてくれよ、千手丸……」


 この時、この場所で名留羅の言葉がなかったら、千手丸は立ち直れなかったかもしれない。

 彼の言葉が胸に染み渡り、千手丸は再び切なげに声を上げた。

「えふっ……ひっ……に、兄ちゃん……」

「よしよし……一杯泣いたらさ、家に帰ろう?

 雨代も沙衛門さんも、お夕さんだってきっと心配してるからさ……」


……名留羅の腕の中で、千手丸はぬくもりに包まれながら頷いた……。

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