面影(おもかげ)

 その数時間後、彼らのとりあえずのアジトとした廃寺で。巴が戻って来てから、躯螺都はずっと難しい顔をしている。

 彼女が

「躯螺都」

と声をかけても、生返事ばかり。ほとんどうわの空なのだ。

 目の前で呼びかけるとやっとちゃんとした反応をする。鴉丸はそれを苦笑しながら見ていた。


 躯螺都は苦悩していた。巴が喜ぶと思ってここまで手を引いて共に旅をして来た。千手丸にも会わせた。

 巴の喜び様を見て、自分はきっと生まれてから感じた事のない高揚感を得られるだろう。

……そう思っていた。


 しかし、いざその状況になってみてから己の中で渦巻くこの具合の悪さは一体何だ? 何故巴があの千手丸という奴の事を楽しげに話すのを聞いていると気持ちが苛立つのだろう。

 兄の様に慕い、自分にとっての精神面での師匠であると信じた頼みの綱である鴉丸は

「お前にもいずれ分かるさ」

と困った様に微笑するばかりであるし、他の連中はそういう感情には縁がなさそうで、聞く気になれない。


 それとは別に、自分達の中で一番危ないのはやはり苦悶ではないか、と躯螺都は思っていた。

 織田信長の伊賀攻めの際に巴を助け出し、グループに加わった時の苦悶の彼女を見る目つきを、躯螺都は忘れる事が出来ない。

 あの、普段は細いくせに邪な悦びを得た時の、見開かれた三白眼が自分にもたらす不快感と恐怖。それが巴に向けられている事から来る焦燥感。

 苦悶と互角以上の実力を持つ鴉丸にも巴の事で声をかけてあるが、やはり不安だった。


……自分が少しでも目を離した隙に巴が細切れにされていたら。

 そう思うと彼の心は暗雲に覆われた。


 それが杞憂でない理由がきちんとある。苦悶は幾度か自分に刃を振るっているからだ。

 彼の剣の技は、様々な師匠から得たもので、瞬時に対処するのは至難の技であった。詳細はよく知らないが、鴉丸から得た所では次の人々から技を叩き込まれ、そしてその性格の異常さ故に破門されたとの事だ。

・伊賀に隣接する柳生の里の主であり、その昔、諸国を旅する剣豪であった上泉伊勢守から免許皆伝を受けた、柳生新陰流の祖、柳生石舟斎やぎゅう・せきしゅうさい


・織田に滅ぼされた、キリシタン大名として、そして剣豪大名として名高い北畠具教きたばたけ・とものり


・後の宮本武蔵の父にして、二本の十手も用いて闘う事もあったと伝え聞く、宮本村の剣鬼、新免無二斎しんめん・むにさい


・居合の祖にして、薙刀の柄を短くした様な武器「長巻ながまきを考案したという林崎甚助はやしざき・じんすけ


・後に宮本武蔵との闘いをする事になる吉岡清十郎、その弟の伝七郎の父にして、染物屋の生まれでありながらも今では京に名を轟かせる剣人けんじんである吉岡一門の吉岡拳法よしおか・けんぽう


 これだけ聞いても

(立派な、それも一流の師匠に付いていたのだ)

と躯螺都は思わざるを得なかった。

 だから数回に渡るなます切りの憂き目に遭ったのだ、とも思った。腕を斬り飛ばされる事もあれば、背後からの不意打ちを受け、腰から下と泣き別れになった事もある。

 いずれの際も気配や太刀筋は見切れなかった。


 しかし躯螺都はこうしてぴんぴんしている。それは彼の体が持つ、アメーバ並みの再生・結合能力にあった。

 すなわち彼は、体を完全に粉々にされたり、焼き尽くされぬ限り何度でも蘇るのだ。


 それはみなしごの彼が、いわれのない迫害に対抗する為に、一人、必死で体得した忍法であった。これを体得してからは、いかなる敵に出会っても、最後は打ち倒して来た。

 自分の殺した相手が蘇って何度でも襲って来るなどと、この時代のどの人間が思うだろう。自分を殺したと思っている相手の顔が引きつるのを、躯螺都は幾度となく見て来た。それは自信となり、彼に力強さを与えた。

……これさえあれば、俺は大事なものを守れるのだ。自分に害意を持つ者を完膚なきまでに叩き潰す事が出来るのだ。

……金も力も、そして身寄りもない少年であった彼には、その力にすがるより他に道がなかったのである。


……幼い頃、同じ村の人々の目を避け、一人、山小屋で暮らしていた頃の事を彼は時々思い出す。

「ねえ、俺と遊んでよ」

と、仲間に混ざろうとした事もあった。……何とばかばかしい事をしたのだろうと今では思う。

 苛められ、食べ物を取られ、家の中を引っくり返された挙句、母の形見の着物をずたずたに破かれて一晩中泣いた夜の事を彼は忘れない。

 それをした者達の顔を、そして、自分が強くなり、更に不死身の肉体を得た時の、彼らの恐怖に引きつり、自らの血にまみれた顔を彼は忘れない。


 自分の事が怖いのではなくて、自分の能力に恐れをなしている事はよく分かっている。

 鉄砲を持った人間を恐ろしく思うのと同じだ、と躯螺都は思った。


 自分は何処までも孤独なのだ、と感じた時に寒気が走るのは耐え難かった。


 自分の得た忍法のおかげで、これ以上は大事な何かを奪われずに済みそうだ。

……しかしこの先、得るものは何なのだろう。

 時々無性にその不安に苛まれ、少年時代の彼は、夜一人になると、自分の小屋で膝を抱えて泣いていた……。



 巴と出会って、彼女の事を想う様になってからは、自分のそれを最大限に利用するつもりでいる。かと言って、彼女に何処までも依存するほど彼は子供ではなくなっていたし、そこまで人を信用する気も失せていた。

 それでも尚、巴の事を思う時の狂おしさと、彼女自身の幸せを追い求める手助けをする自分が向かう、その先に待ち受けているであろう巴との別れがもたらす空虚な気分。

 その間で、血気盛んな若者、躯螺都は揺れていた。



 彼らの仲間の一人、白髪を前髪長めのボブカット風に切り揃えた女、なぎはここに来てから、一層機嫌が良くない。元々口調ははすっぱなのだが、何かをずっと考えている様なのだ。

「凪、どうした?」

と苦悶や屍鬼藤が声をかけてもろくに返事すらせず、他のメンツが声をかけてやっと返事をする有様であった。

 元々苦悶は人体損壊嗜好の気があって好きになれないし、屍鬼藤は雰囲気が死人の様なのでこれも遠慮したいと思っている。

 今彼女が思っているのはその様な事ではなく、

『どうやら今自分達が追っている男の仲間に、弟の仇が混ざっているらしい』

という事を、旅をしている内に嗅ぎ付け、それが誤りではない様だという確証を、昨夜の鴉丸や躯螺都の話から得たからである。


 彼女の弟というのは髪の長い美童で、姉のおもちゃに長い事されていたせいか、大変な女嫌いであった。自然と男色に走る様になり、そこを彼女はまた突付いて遊んでいたのだが、ある日行方をくらました。

 山に潜ったか谷に消えたか不明だが、忍者の里の者とは言えど、まだまだ修行中の子供であるし、何処か発見しにくい所で死んでしまったのではないかと里の者達は口々に噂した。

 そして結局の所、遺体は上がらなかった。


 凪にしてみればおもちゃがなくなって大変腹立たしい。その苛立ちを何年も忍法修行に費やして来た。

 そして、伊賀の里の崩壊に乗じ、他のみんな、そしてリーダー格のくノ一、柘榴ざくろと共に村を出たのである。

『徳川へ走った服部半蔵の隠し玉である十手千手丸を探し、その上で自分達が天下を獲る』

という話に一枚噛んだのだ。


 そう、自分と他人、もしくは他人同士の魂を入れ替える

忍法にんぽう 変身かわりみ転生てんしょう

を体得している十手千手丸は、彼らの中では、ある者にとっては自分達の様な者でも差別や偏見の対象にならずに生きて行ける世界を作る為の最後の希望であり、またある者にとってはこの乱世で他の何物にも代え難い旨みであり、金づるだったのだ。


 凪は弟の事を旅をしながら尋ねて回った。あの油虫の様なしぶとさを持つ弟が、同族結婚と近親結婚の果てに生まれた特異体質を備えた弟が、あっさりと死ぬ訳はない、と思ったのである。

……自分と同じ能力を持っている弟が、だ。

 彼女は生まれつき、体液にある種の腐食性を備えていた。それは己以外の誰かに触れるとそれを焼くのだ。そしてその腐食性は自分でコントロール出来る。

 今で言うと新種のウィルスを抱えている様なものであるが、彼女はそれを見事に飼い慣らしていた。自分ではそれを結構気に入っていたのだが、弟もそれを得てこの世に生まれて来た。彼女は独占欲が強かったので、尚更それを容認するはずがない。

 そればかりか更に弟は触れたものを凍結させる忍法を体得した。自分にはない特性を弟が持っている。それが彼女の怒りを増幅させたのだ。

 弟をいびり倒す理由は単純にそれだけであった。

……その弟の名は我楽がら左月さげつといった。


 旅の途中で得た情報から、彼女は仇の顔立ちをある程度特定する事が出来ていた。聞けばどうやら弟は同郷の男に連れられて、あちこちで策略に加担していたらしい。

その結果、追っ手を差し向けられた。……その後の足取りが掴めぬ所を見ると、恐らくもう生きてはいまい。


 彼女は歯噛みした。これから誰に害意を向ければいいのだ。同性ではこの快楽は得られないというのに。

 この時代、ピンキリはあれども、総じて圧倒的に優位な立場にある男をいびり倒すから面白いのである。弱い立場の女を苛めても気分が悪い。彼女はそう思っていた。

 だから自分達のグループの中で一番弱い立場にある巴の事を、気に入る入らないに関係なく苛めたりはしなかったのだ。相手にしていないとさえ言えた。


 弟を討ったのは一組の男女、それも真相は定かでないが、恐らく甲賀者であると凪は知った。その後の女の方の足取りも掴めない。左月と相討ちでもしたのだろうか。

 男の方はどうやら生きていると彼女は知り、体の芯が疼くのを感じた。

 そしてこの村で彼女は遂にその仇に追い着いたのである。


 直に弟の仇に会ったりはまだしていないが、遠くからこっそり眺めた時、彼女はそれを確認した。

 男の名は鬼岳沙衛門。あの筋骨隆々とした男を責めさいなんだらどの様な快楽を自分は得られるだろう。いや、その前にどんな事であの男は苦痛に顔を歪めるだろう。

……千手丸か? それとも仲間全員の命だろうか。

 一人女が混じっているのが彼女は気に入らなかった。しかしまあ、源平の昔から、時には手を取り合ったりもしているが、共に忍びの技の極意を極めんとしのぎを削る甲賀のくノ一だ。殺してもよかろう。

 自分勝手な理屈だとは、凪は少しも思ってはいなかった。



 千手丸のお時に対するアプローチは日増しに激しくなって行った。彼女が何処に行くにも必ず同行し、喜びと切なさと憂いの入り混じった表情を浮かべて共に帰って来るのだ。

 年上のお時にもそれは憎からず見えている様子で、よく彼に微笑を向けているのを沙衛門達は見かける。

「ありゃあ、千手丸の奴、かなり本気だぜ」

と、名留羅がある時、沙衛門と雨代に告げた。

「そうねえ……」

と、雨代が切なげにため息をついた。お夕も

「姉さんがあんなに男の方と楽しげにしているのを見るのは初めてだわ」

と、千手丸の体の事を少々不思議に思いながら呟く。

 そう、千手丸はお時とお夕に自分の体を晒し、事情を説明していたのだ。


 初めて彼の体を見た時、お夕は驚き、彼女の信教である、キリスト教の悪魔の姿を思い浮かべた。しかし、姉が

「千手丸さんは好きでこうなったのではないわ。天におられるイエス様が、そう、何かお考えがあってこの様な体の造りにされたのではないかしら?

 きっとそうよ」

と、落ち込む千手丸を慰める様にその手を優しく握って微笑するのを見て、彼女も考え直した。

「そうね、姉さんの言う通りかもしれないわ……」

 この妹にとって姉は母の代わりであり、他の教徒には怒られるかもしれないと思って黙っていたが、自分にとっての聖母マリアでもあったのだ。

 お時の言葉に沙衛門達は

『まさか自分達の仲間をその様に思ってくれるなんて』

と驚いたり、感涙したりした。

 お時と千手丸。二人の進展はそれ以降のものであった。


 ある時、千手丸は沙衛門達に告げた。

「……俺はお時さんの、そしてお夕さんの盾になるよ。豊臣や徳川、他のどんな連中が来てもそれを通さない盾になるよ。

 その結果……考えるのも嫌だけど、みんなと一緒にいられなくなるかもしれない。最悪の場合、敵同士になるかもしれない。

 それでも……一緒に行ける所まで行ってもいいかい?」

 名留羅の顔が切なげに歪んだ。

「……バカだなあ、千手丸。いいに決まってるだろう?」

「……そうよ、千手丸。何時か私は言ったでしょう?

「あなたはもう一人ではないんだから。沙衛門様や、お姉ちゃん達がいつもついているからね?」

って。

 んもう……何時まで経ってもホントに水くさいんだから、この子は……」

 雨代はそう呟くと千手丸を抱きしめ、涙をこぼした。名留羅も近寄り、千手丸の頭をそっと撫でた。

「兄ちゃん、姉ちゃん……」

 抱きしめられて空を仰ぐ千手丸の瞳にも涙が滲んだ。


 沙衛門はその光景を腕組みして微笑しながら見つめている。彼は幸せそうな光景を、少し離れて見ている方が性に合っていたし、その方が心から良かったと思えるのだ。

 自分が加わると、その光景が壊れてしまう様な、そんな気がして。


……彼は心の中でそっと呼びかけた。

(……るい。俺は……お前といた時以外でこれほど幸せな気分になった事はない……)

 脳裏に、彼が幸せそうなのを見て、嬉しそうに微笑しながら胸の前で手を組む、今は傍にいない彼女の事を思い浮かべた。

(お前の事を忘れられずに荒れていた時の事が遠い昔の様だ。

……済まなかったな、るい。俺は何とか持ち直した様だ。

 名留羅や雨代、そして千手丸とやって行けそうだ。……いや、行かせてもらう。

 ひょっとしたら……幸せな気分から、時々はお前の事を忘れてしまうかもしれん)

 そう思った途端に、想い出の中のるいは

『んまあ……』

とでもいう風に、少し膨れっ面をした。

 しかし、彼女はその後に必ず

『嘘ですよ、沙衛門様。一寸怒ってみただけ……』

と言って、少し切なげに、小首をかしげて微笑するのだ。


(……しかしだ。きっと思い出すから許してくれ。

 それにお前と過ごした日々を忘れたりなぞするものか。絶対にするものか。

 何時までもちゃーんと、心の奥には、るい、お前が笑っているのだからな。

……どれほどの足しになるか分からんが、みんなに力を貸す。何処までやれるか……見ていてくれ……るい……)


 何時の間にか流れている涙もそのままに、沙衛門はみんなに歩み寄った。

「あ、おじさん泣いてんじゃん」

と、名留羅が珍しく心配そうな声を上げると、雨代と千手丸も自分を見た。

「まあ、どうしたのですか? 沙衛門様」

「なんで泣くんだよう、沙衛門さん……」

千手丸と雨代が切なげな瞳を向けて来るのに微笑を返し、

「いや、一寸

『いい光景だな』

と思ったらつい……」

と告げて、ははは、と苦笑した。

「何だ、そうかあ。全く沙衛門さんは涙もろいんだから……」

 名留羅が安心した様に彼の背をぽんぽんと叩いた。

「さあ、もうおうちへ帰りましょう? お夕さんにご飯の支度を任せっぱなしだわ」

と、雨代が千手丸と、間が悪そうなしょんぼり顔の沙衛門の腕を引いて歩き出し、その後に名留羅が頭の後ろで手を組んで、沈む夕焼けをぼんやりと眺めつつ、あくびを一つして付いて行く。


 ふと、すがり付いて来るるいの香りが鼻腔をくすぐり、彼女の楽しげな笑い声を聞いた様な気が、沙衛門はした……。

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