過去編-2 sideクーリュイア

第32話 とある少女のお話

 少女は孤独だった。

 生まれたときから誰にも愛されず、むしろ邪魔者として育てられた少女は、時に棒で殴られ、時に寒空の下に放り出され、時に熱した鉄の棒をその華奢な身に当てられた。

 最初の頃は泣き叫んでいた少女は、徐々に感情をなくし、終には声を上げることすらなくなってしまった。

 誰からも勉学を教わることなく、大人たちが話している言葉を聞いて覚えた程度。それでも少女は言葉を理解した。だが、理解したところで何かが変わるわけでもない。言葉を発しようとしたところでぶたれるのが当たり前だった。


 いつしか少女は感情を表に出すことはなくなった。泣くことも、笑うことも、怒ることもない。ただ人形のように膝に顔を埋めて座っているだけ。

 だが、死ぬということには恐怖を感じていた。あの動かなくなった体と開ききった目が少女の頭から離れないのだ。

 そんな少女の唯一の楽しみは、眠ることだった。

 眠りは疲れを癒し、夢のなかでは大人に恐れることもない。自分だけの真っ白な空間に漂うその感覚だけが少女の救いだった。


 食事は一日に2食、小麦粉を水で固めたようなものが一つ出てくるだけだった。酷い時にはそれすらも与えられない日があった。

 毎日部屋の隅で身を小さくする。大人に見つからないように。死なないように。ただそう願って。







「おらぁ!」


 少女は今日もぶたれ、口元から血を流した。少女を殴った男は酒を飲んで酔っているようで、ふらふらとしている。

 男は一升瓶の中身を飲み干すと、舌打ちをしながら少女に向かって一升瓶を投げつけた。

 だが運よく瓶は少女のすぐ隣に落ち、砕けて破片が飛び散る。


「くそっ! もうなくなっちまいやがった!」


 男はいら立ちを少女へと近づくと、そのいら立ちをぶつけるように少女を握りこぶしで殴りつけた。

 少女の弱く痩せ細った体は簡単に吹き飛び、今度は運悪く、砕けた瓶の上に少女の体が吹き飛ぶ。

 少女の体を無数の瓶のかけらが傷つける。体の到る所から出血し始めた。

 男は気が済んだのか部屋から出ていくが、少女は必死に痛みに耐えながら部屋の隅へと移動し、いつものように両膝を立てて座り、顔を底に埋めた。

 しかし、出血がひどいのか少女の意識はだんだんと薄れていく。それは眠りにも似た感覚だった。

 いつものような眠たいその感覚に、少女はそれほど死への恐怖を感じなかった。

 またあの白い空間で漂えることを、そして、誰にも見つからないように願って、少女はゆっくりと瞼を落とした。

 ……一体何時間たったのだろうか。少女は不思議な感覚に思わず驚き目を開けた。力がわき出てくるような、そんな感覚だ。

 少女は自分の体を確認すると、出血は完全に止まっており、古傷は治っていなかったが、新しい傷は全て塞がっていた。

 少女は不思議な感覚に小首をかしげていると、廊下の方から歩いてくる足音が聞こえてきた。恐らくいつも自分のことを殴る大人だろう。

 少女は見つからないことを祈って部屋の隅で小さく丸まった。

 男は部屋の中へと入ってきて辺りを見渡した。すると、その顔を怒りに染める。


「くそっ! あのガキどこに行きやがった!!」


 男が少女を見つけることはなかった。いつもであれば、部屋の片隅から引きづり出され、何度も殴られるというのに。

 男がいなくなり、少女は驚きながらも恐る恐る部屋の外へと出てみる。生まれて初めて薄暗い部屋の中から出た瞬間だった。

 家の中を歩き回ってみるが、誰一人として少女の姿に気が付くことはなかった。まるでみな少女がいないかのように歩き去っていく。

 そして少女は外の世界に驚いた。自分の知っていた世界と比べてこんなにも広く、そして人の多いこの世界に。

 しかし、小さな部屋の中が全てだった少女にとってこの世界はあまりにも広すぎた。

 そして人も同様だ。今まで少女が知っていた人は自分を殴る男、さげすんだ目でご飯を置いていく女性、そして、ときどき見かける鋭い視線を送る男。その3人しか知らなかった。

 だが、少女は歩き回ってみてこの建物は広く、多くの人がいることが分かった。

 そんな少女は結局自分はどうすればいいのかわからなくなってしまった。そして戻ってきてしまったのだ。元のいた自分の鳥籠の中へと。まるで飼われているペットのように。


 少女が元いた部屋へと戻ってきて数日が経った。いつもならだれかがこの部屋へと入ってくるのだが、誰も入ってくることはなかった。食べ物を持ってくる女性も来なくなったが、少女は全く辛くはなかった。不思議な感覚がしてからというもの、お腹が空かなくなったのだ。

 安心して眠ることができた少女は幸せだった。しかし、その幸せもわずかな時間で終わりを迎える。


 突如、少女は何かを壊したくなったのだ。壊したくて壊したくてしかたがない。だがこんな感情を少女は知らなかった。明らかに自分の感情ではなかったのだ。

 少女は恐怖を覚えた。自分が自分ではないようなその感覚に。

 だが、少女はその壊したい衝動を抑えることができず、近くにあった花瓶を手に取り、地面にたたきつけた。

 周囲に花瓶の砕ける音が広がる。しかし、少女の壊したいという衝動は収まらなかった。

 胸を必死に抑え込みながら我慢していると、突如目の前に奇妙な男が現れる。その男は少女を見ると、薄気味悪い笑みを浮かべた。


「いいですね。これはペットになりそうです」


 少女は男の言っている意味が分からなかったが、とにかく壊したいという衝動を抑えるのに必死だった。


「いいではないですか欲望のままに動けば」

「……いや」

「構わないのですよ。別に壊したって。壊したいのでしょう? なら壊せばいいのです」


 何故か少女はこの衝動と、男の言葉に従ってはいけない気がした。そうしてしまえば自分が自分ではなくなるような、そんな気がしてならなかった。


「……いや」

「……あなたはこの世界が、人が憎いんでしょう? なら壊してしまえばいい。何をそんなに頑なに拒むのです」

「……わたしは、わたしでありたい」

「そんなもの消してしまえばいい。無駄なものなのですから。……そうですね」


 男はその場から掻き消えた。だが、数秒もすれば再び姿を現した。そして手に何かを持っている。

 薄暗い部屋の中、月明かりに照らされるそれは、


「……ひっ」


 少女は思わず息をのんだ。それは長年自分をいたぶり続けてきた男の首だったからだ。

 まだ殺されてから時間が経っていないのか、血がぽたりぽたりと流れ落ち、床を赤く染める。

 少女は男の開ききった目と合ったような気がして恐怖がこみ上げてくるのを感じた。


「私が先に壊してしまいましたが、これはあなたをいたぶったらしいではないですか。憎いと思いませんか?」

「……思わない」

「おかしいですね。あなたはこの男に暴力を振るわれたのでしょう? 殺したいとは思いませんか?」

「……思わない」

「長年飼われ続けた動物が牙を抜かれるのと同じというわけですか。まあ、いいでしょう。調教し直せばいいだけですからね」


 少女は男の言っている意味が全く理解できなかったが、何か恐ろしいことを考えているということだけは理解できた。

 初めて自分の意志で逃げ出したいと思い、なんとか隙を付いて外に出ようとするが、だんだんと強くなる壊したいという欲望に苦しくなる。


「……うぐぅ」

「苦しいのでしょう? ならその苦しみをなくす方法を教えてあげましょう」


 男はそう言って手に持っていた生首を放り捨てると、ゆっくりと少女へと近づく。

 何とも言えない恐怖を感じた少女はその場から逃げ出そうとするが、足が震えて動く事すらできなかった。

 男は少女の目の前で止まると少女の頭の上に手を置き、少女の耳元で囁くように言った。


「自分の内に秘めている力を引き出しなさい。そして、この馬鹿げた世界を否定するように……、そう、全てを破壊したいと願いなさい」


 そんなこと願いたくなかった。少女はただ眠りたかっただけなのだ。あの白い世界に漂いたい。ただそれだけが少女の願いだった。

 しかし、あまりの苦しさに耐え切れず、少女は男の言う通りに願った。壊したいと。

 すると、目の前ぼやけるように歪み始めた。だが、不思議と怖くはなかった。まるでそれが当たり前であるかのように、少女は感じた。

 その歪みが完成すると同時に少しだけ苦しみが薄れるのを感じた。そしてその歪みが徐々に大きくなるにつれて苦しみが和らいでいく。


「いいですね、もうこの世界は終わりです。やはり世界の終わりは美しい」

「……世界の終わり?」

「そうです。この世界は壊れて消えるのです。よくやりましたね」


 そう言って男は少女の頭をなでる。

 少女は男の言っていることが分からなかった。世界の終わりというものがなんなのか、それを理解することはできなかった。

 だが、一つだけ分かったことがあった。それは、もう自分のいたあの小さな世界には二度と戻れないということだ。


「あなた、名前はなんですか?」

「……なまえ?」

「そうです。その人を指し示すために使うための言葉ですが、その様子ではなさそうですね」

「……おまえ?」

「それは名前ではありません。まあいいでしょう。今日からクーリュイアと名乗りなさい。それがあなたの名前です」

「……クーリュイア」


少女は呟くように言った。何も持っていなかった少女は初めて名前というものをもらい、不思議な感覚を覚えた。


「では、クーリュイア。私についてきなさい。まあ、断るというのも別にかまいませんが」

「……わたしは――」







 あっという間に月日は過ぎ、1年が経とうとしていた。

 結局クーリュイアは男に付いて行った。クーリュイアはあの男のことが好きではなかったが、あの小さな世界には帰れないと分かっていた。

 そのため、行き先を失ったクーリュイアにとって付いて行く他になかった。


 男の名前はレイスと言うらしい。

 1年の間に、レイスから知識や力の使い方を教わり、世界から世界を渡るという力も身に付けた。

 ……そして、世界を壊すという方法も。

 破壊衝動は3日に一度ほどの頻度で起き、その都度クーリュイアは世界を壊した。だが、苦しみから解放されると同時に、自分が自分ではなくなっていくような、そんな気がした。


 そんなある日、とある世界でクーリュイアは綺麗な噴水の前に腰掛けながらレイスの帰りを待っていた。

 クーリュイアに話しかけようとするものは誰一人いない。目を合わせる者すらいなかった。

 クーリュイアの持つ力は気配を消す力。しかし、その力を使っていなくてもまず気が付かれることがないほど強力なものだった。

 そのため、クーリュイアは特に気配を察する力が強い人物か、もしくはその人物に紹介してもらうまで気づかれることはない。

 そんな孤独な力だったが、クーリュイアはその力のことが案外気に入っていた。誰かに暴力を振るわれる心配がなくなるそんな力のことが。


 クーリュイアがいつものように立膝をついて膝に顔を埋めていると、ふと路地の方が気になった。いつもであれば無視して眠りにつくのだが、気になって眠ることができなかった。

 そのため、クーリュイアは操られるように路地の中へと入っていく。すると、そこには多くの打撲の跡を付けた同い年くらいの少年が倒れていた。

 クーリュイアが近づくと、少年がうっすらと目を開ける。


「だ、れ?」

「……」


 珍しく、クーリュイアのことが見えているようだ。

 黙っていると、少年が必死に体を起こし始めたため、クーリュイアは少年が体を起こす手助けをした。


「あり、がとう。情けない、よね」

「……どうして」

「どうして、こんな、ことになって、いるのかって?」


 少年は苦笑いすると、ぽつりぽつりと話し始めた。


「ぼく、妹と暮らしているんだけどね。妹が病気なんだ。それで、薬を手に入れなきゃいけないんだけどお金がなくて。

 はたらいても全然足らなくて、薬を盗もうとしたんだ。でもそれが店主にばれてこの様だよ」

「……妹、重病?」

「うん。ぼくがあと10年働いてようやく買える薬なんだ。でも、妹はあと2年の命って言われてるんだ」

「……」

「ごめんね、こんなこと言っても困るよね。……もうだめ、なんだ」


 少年の瞳から大きな粒の涙がこぼれ始める。

 どうしてかは分からないが、クーリュイアはその少年を見て助けてあげたいと思った。どうしてなのかは分からない。気まぐれなのか、その少年に同情したのか。

 だが、この少年を助けることで、クーリュイアは自分というものを確かめることができる、そんな気がした。


「……分かった」

「えっ?」

「……わたしが、その薬を持ってくる」


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