ドライアド

「なんだよ……これ……」

 俺が居た病室を出てすぐ、廊下を左に曲がって数歩進んだ先の床に、最初の『ソレ』はあった。

 リノリウムの床の上に広がるそれは、かなり時間が経過したようで、どす黒く変色していたが、どう楽観的に見積もっても――

「血……だよな」

 ――血痕。それも、血溜まりと表現して差し支えない量の、である。

「……いや。それにしても数が多すぎだろ」

 最初に見た血痕、それだけで済めば、まだ、誰かが吐血したとかその程度で目をつむれていた(それでも結構大事ではあるが、スプラッタ映画を彷彿とさせる現状よりは幾分かマシだ)。

 だが、それから先へ進むごとに、血痕は床や壁、果ては天井にまで、あらゆる場所にべっとりと付着していたのだ。中には明らかに致死量と思われる凄惨なものすらあった。

「しかも……どうしたって言うんだよこれは。まさか病院中こうなってるのか?」

 そして、血痕の異常性に拍車を掛けるかの如く、院内の光景は現実離れしていた。

 ――蔦と木の枝。そして、根。

 それだけが全てと言わんばかりに張り巡らされたその様相に、森にでも迷い込んだような錯覚を覚える。誇張でも比喩でも何でもなく、今やこの病院は、見知らぬ植物達に飲まれようとしているようだった。

「くっそ……。なんだよ。俺が眠っている間に一体何が起こったんだ……!?」

 目覚めてから今まで疑問の声しか上げれていない俺の愚鈍さを嘲笑するかのように、天井や壁から垂れ下がる枝葉が微かに揺れた。そよ風が青葉の香りを運んで来る皮肉なまでの清涼さに、不安感と恐怖が募っていく。

「……ん? あれは……」

 不安と恐怖から解放されるすべを模索し、火急の目標としてこの病院からの脱出を結論付けて顔を上げた時、前方に伸びる廊下の奥で何か動く物を見つけて足を止めた。

「人……? ……人だ!」

 二足歩行で直立し、左右に微かに揺れているそれは、紛れも無く人の形をしていた。まだ距離が離れているため細部までは視認できないが、どうやらナース服らしきものを身に纏っているらしい。つまり、看護婦さんである。俺はナース服に骨の髄まで傾倒していた時期があったから多分、間違い無い。この距離でも見間違えるはずはない。

「助かった……! ようやくかよ……。取り敢えず、現状について話を聞くか……おーい! すみませーん!」

 ずっと探し求めていた『他の人』に出会えた嬉しさから、思わず声がうわずりながらも、こちらに背を向けて佇む看護婦さんに大声を張り上げて呼び掛ける。

「お。振り向いてくれた。……突然大声で呼び止めてすみませーん!」

 ゆっくりと振り向く看護婦さんに、こちらから小走りで近付く。看護婦さんも俺に気付いたのか、緩慢な動作でこちらへ歩いてきた。

「いやー。助かりました! てっきり誰も居ないのかと思っていたもの……で……」

 看護婦さんとの彼我の距離、大体五メートル。看護婦さんの様子がどこかおかしい事に気付いて歩調を緩める。油の切れかけたロボットのように歩き方がぎこちなく、足を踏み出す度に、ぎちぎちと何かが軋む音が聞こえてくる。

「……え」

 看護婦さんとの彼我の距離、大体三メートル。看護婦さんの容姿がはっきりと視認できる。やはりナース服を着ていた。に映える純白だ。自然と俺の足も止まってしまう。

「ぁ……」

 との彼我の距離、一メートル以下。細い木の幹が寄り集まってできた身体から、耳障りな木擦れの音が響き渡っている。寄り集まった幹の起伏のみで構成された怨嗟の表情で、両腕を俺の方へ伸ばしてきて――

「あ、ああああ!!」

 期せずに訪れた恐怖に思わず尻もちをつくと、看護婦さんの格好をした異形の化け物の手は虚空を掴んだ。僥倖としか言い様がない結果だが、しかし、距離は全く変わっていない。当たり前のように狙いを修正して再び迫り来る化け物から逃れようと、尻もちをついた状態のまま後退りをするが、床に這いずった木の根のせいで思うように距離が取れない。

「くっ、そ……!」

 それでも、体制を立て直すための時間稼ぎ程度には役に立ったようで、化け物の手が目と鼻の先にまで近付いたものの、何とか立ち上がる事に成功した。そのまま踵を返し、元来た道を全力で走る。

「はぁ……はぁ……くっ、はぁ……」

 膝に手を着いて、肩で荒い息を繰り返す事ができるようなった頃には、いつの間にか俺が最初に目覚めた病室の前にまで戻ってきていた。

「はぁ……はぁ……っ。くっそ……なんだよあの化け物は……!?」

 院内の惨状までは、まだなんとか『被災したから』だとかそんな適当な理由で目を背ける事ができた。

 ――だがしかし、。どうしたってアレは、常軌の内に目を背けることなんて不可能だ。

「痛……っ!?」

 色々と考えている内に息も落ち着いて、前屈みの状態から直立の状態に戻ろうとした瞬間、突然右腕に鋭い痛みが走り、思わず声を上げてしまった。恐る恐る痛みの元を確認してみると、患者服の右袖の部分だけが乱暴に毟り取られていて、浅く抉れた上腕の裏側から、決して少なくない量の血が流れているのが見えた。

「なっ……。ちくしょう……あの化け物にやられたのか……?」

 化け物――木の化け物から逃げるために踵を返した、あの時。木の化け物の手は俺の目前にまで迫っていた。振り向き際のどさくさに紛れてとしても何ら不思議ではない。

「痛ってえ……。そ、そうだ。ここを脱出する前に応急処置が出来そうな物を探すか……」

 一刻も早くここを脱出すべきだとは感じていたが、正直、このまま傷を放置して化膿してしまう事も充分怖かった。今が問題無くてもそれは、後々確実に響く。

 幸いここはのだ。救急セットの一つや二つくらい、ナースセンター辺りに行けばすぐ見つかるだろう。

「よし。そうと決まれば、まずはナースセンターを探すか……」

 行動の優先順位を変更し、今度は部屋から出て左側ではなく、右側へ伸びる廊下へと歩き出す。

「……ってか、最初から上の案内板見ておけば良かったな」

 何とは無しに見上げた天井付近から、蔦や木々の隙間を縫って垂れ下がる案内板を見つけ出し、『ナースセンター』と書かれたそれの導きに従って廊下を進んでいく。

 この悪夢のような世界の中で、希望への道標みちしるべ足り得ると信じて。

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リ・インポーテーション クロタ @kurotaline

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