目醒め

『お待ちしておりました。我が主人あるじ

 明かり一つ無い暗闇の中、その姿だけを明確に映し出した、濃紺のローブを身に纏った何者かが、俺に向かってこうべを垂れている。フードを深く被っているため顔は判らないが、高く澄んだ声音から、若い女性である事が推察できた。

 ——しかし、主人あるじ? 俺の事を言っているのか?

『うむ。良くぞ使命を全うした。礼を言おう。お陰でこうして、滞り無く転移を行う事ができたのだからな』

 俺がローブ女の言葉に戸惑っていると、今度はごく近くから、低くひび割れた男の声が聞こえた。いや、これは近くというよりも——俺の体内から響いている?

『は。勿体無きお言葉』

 男の声に、より一層とうやうやしく頭を下げて、俺の足元に跪くローブ女。

 ローブ女のこの態度。そして、俺の体内から発せられている男の声から察するに、これはいよいよローブ女の言う「主人」とは、俺の事を指した呼称であるらしい。

 しかし、どういう事だ? 俺はこんな女知らないし、何より俺の声は、こんなに経年劣化したおっさんの声では無い。一体何が起こっているんだ?

『……さて。ではまず先に、アレを済ませておくか』

『はい。そちらの方も、既に準備はできております』

『おお。抜かりはないな。……では、始めるとしよう』


『——世界の統合を』




 *****




「いやだから何が起きてんだよ!?」

 あまりの置いてけぼり感に声を張り上げ、身を起こすと、目の前に広がる景色が唐突に別のものへと切り替わった。

「あ……れ?」

 そこは、明かり一つ無い暗闇などではなく、陽の光が差し込む病室だった。

 一目で病室と判った理由はひとえに、テレビや漫画で散々見慣れた医療ベッドと思しき寝台がいくつか、視界に飛び込んできたからだ。

 ——しかし、それら俺の記憶の中での病室の光景と、今目の前に広がる病室の光景とでは、幾つか看過し難い差異があった。

 整然と並んでいるべきの医療ベッドが、あちこちへ散乱しているのだ。中にはひっくり返っている物まである。

 更には、見た事も無いような形の蔦が部屋の壁面をびっしりと覆っており、その出所を目で追っていくと、太く大きな木の枝が窓から室内へ侵入している光景に行き着いた。床には窓ガラスの破片や、ひしゃげた窓枠と思しき物体が散らばっているが、まさかこの木の枝が窓を突き破ったとでもいうのだろうか?

 ぱっと見て得られた情報だけでも、俺の知る清浄な病室とはかけ離れた空間である事が分かるものの、医療ベッドの存在や、微かに残っている消毒液の匂いから、ここが病室である事は確からしいという事実が、余計に俺を混乱させた。

「なん、だ……? 何が起こっている?」

 思わず口をついた呟きに、聞き慣れた自分の声音が含まれている事を改めて認識して、先ほどまで見ていた暗闇の光景は夢であった事が分かった。が、そんな事は今の俺にとってどうでもいい事になってしまっていた。

「ってか、なんで俺は病院に……?」

 医療ベッドの上で上体を起こしている自らの体を見下ろすと、案の定淡い色合いの患者服を身に纏っていた。左腕には、空になった点滴が繋がっている。

「俺は……確か……」

 寝起きで霞掛かった記憶を洗う。パレットしもじ前のスクランブル交差点で、六助と信号待ちをして、泣き崩れた六助を立ち上がらせようとして——。

「……っ」

 悲鳴と鮮血に塗れた光景を思い出して、腹部に一瞬、鋭い幻痛が訪れた。そうだ。俺は——。

「刺された、のか」

 自らの腹から突き出た、赤くそぼった刃は、これから一生忘れる事は無いだろう。それほどまでにショッキングな光景だった。

「……って事は、俺は今、入院中? いや、それにしても……なんだよ病室のこの有様は」

 再び病室内を見渡す。最早病室というよりは、廃墟と表現した方が適切なような気もする光景だ。とてもじゃないが、正常な入院生活を送っているとは思えない。

「おーい! 誰か、誰かいないのか!?」

 急激に込み上げてきた寂しさを満たそうと叫ぶものの、当然のように反応は返ってこなかった。

「そ、そうだ! ナースコール……」

 実際に利用した事は無いものの、そのと効果を知っていた俺は、枕元の辺りを探って、それらしき円柱状の小さな装置を見つけた。

「……」

 かちかちと装置のボタンを数回押して、しばらく待ってみたが、誰かが来る様子も、何かが起きた気配すら無い。

「おいおい……どうなってんだよ」

 そういえば、目覚めてから今まで、人の話し声や物音はおろか、その気配すらこの建物内から感じていない。もしかすると、俺以外この病院には誰も居ないのだろうか。

「……いや。そんな馬鹿なこと、あるはずがない」

 頭をぎった考えを即座に否定して、俺は左腕に貼り付いていた点滴を強引に引き剥がした。皮膚が裂けるような痛みが一瞬走り、僅かに血が流れ出したが、腹に風穴が開いたあの時に比べればなんて事は無い。

「……っとと。流石に少しふらつくな」

 体の上に掛かっていた薄い掛け布団を払い除けてベッドを降り、立ち上った所で、軽い立ち眩みがして、ベッドの手摺にもたれ掛かった。

「ふーっ……よし」

 数秒の間浅い呼吸を繰り返した後に、再び一歩を踏み出す。……よし。いける。

「何が起こってるかは知らないが、きっとどこかに人がいるはずだ。その人から詳しく話を聞こう」

 最初よりも確かな足取りで、俺は目覚めた病室を後にした。じわりと、脂汗のように浸み出る悪い予感を拭い去るように、一歩一歩確かな足どりで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る