借りて候

 本多も、渋谷に惚れた。豊臣秀吉とは人たらしで有名だが、どうやら、渋谷はそれ以上に人たらしであるらしい。ただ、彼の場合、何の詐略も打算もない。ただ、人がいのだ。

 酒の座は尽きることがなく、夜明け前、ようやく、全員本堂の床で雑魚寝した。


 酒を飲まぬ伊万里が、座ったまま船を漕いでいると、隣の吉継が立ち上がる気配がした。

「どうしたの、吉継」

 真っ赤に充血した眼を擦りながら、伊万里が言う。

「どうやら、のようだぞ」

 寺の庭の方が、騒がしい。

「家康が、来た?」

「ああ」

 徳川家康。のちに征夷大将軍となり、幕府を開くこの英傑も、今は、関白自ら金銀財宝を持って乗り込んで来るという事態に、困惑していることだろう。腹心の本多を使者としてやったのは、彼が最も虚心に、秀吉の人間の姿を見抜くであろうと思ったからだ。

 ほかに、家康の幕僚には、権謀術数に長けた者は多くいるが、秀吉が、前代未聞の策略をもって家康に向かってくる ーと家康は思っていたー 以上、策をぶつけても、仕様がないと思ったのだ。

 家康とは、堅実な男である。決して、投機的な選択をしない。全て、入念に準備をし、勝つべくして勝つという具合にことを運ぶ。だから、今回は、受けの姿勢で臨んだのだ。

 その家康が、渋谷らが宿営している寺に到着したとき、真っ先に本多が出迎えて来ると思っていたのに、それはなく、家康を出迎えたのは、関白の臣であるという、大谷吉継なる色白の美青年と、石田三成なる、女のように線の細い男の二人であった。

「この度は、突然の来訪にてお騒がせを致したことを」

 と吉継が言い出すのを、家康は押し留めた。

「よいのです、よいのです、関白殿下じきじきのお越し。こちらから、国境までお迎えに上がるべきところ、出遅れまして。近頃、少々肥っておりましてな、どうにも尻が、こう」

 と、でっぷり肥った身体を揺すった。

 これは、やはりただ者ではない、と吉継は思った。

 通り一編の修辞を並べてはいるが、その実、関白なにする者ぞ、綺羅で飾った田の猿め、という気概が、ありありと溢れている。

「ところで、昨日より、この家康に先んじて、我が家臣が、ご機嫌をお伺いに参上したと思うが」

「本多殿でござるな。確かに、昨日、お越しになってござります」

 吉継の、感情の宿らぬ眼が、秋の朝の光を少し跳ね返した。忠勝、やられたか、と家康は思った。

「お会いになりますか」

「うむ、関白の臣たる貴殿らが、こうしてそれがしなどをお迎え下さっていること自体、心苦しきこと。馬や、身の回りのことなど、我が臣が勝手に致しますゆえ、どうか、本多平八郎を、これにお呼び下されたい」

 家康の眼が、今度は光った。

「それには及びませぬ」

 と吉継は言う。

「本多殿は、ゆえあって、ちと動けぬご様子。御馬などの手配りはこちらで致しますゆえ、家康殿御自ら、本多殿のもとへ、お運び願えませぬか」

 家康は、このあと、首だけになった本多と対面させられることを覚悟した。本多が、関白に対し何か非礼を行ったとして、それを理由にして戦を仕掛けてくるつもりなのだ、と思った。

 それならば、徹底抗戦である。たとえ、国が滅び、身が滅びようと、関白などには屈せぬ。と闘志を燃やした。

「こちらへ」

 進み出てきた吉継の家来らしき者に馬を預け、家康は、本堂の方へ歩いた。

「どうぞ」

 と吉継が障子を開くと、そこには、床に転がって倒れる二十人ほどの人間の姿があった。

「こ、これは、なんとしたことだ」

 家康は、ここで殺戮があったものと思ったらしい。

「本多殿は、あれに」

 吉継が指差す先に、本多とおぼしき大男が、倒れている。家康は、冷や汗を流しながら、本堂に一歩踏み入れた。

 酒臭い。周りの者を見ると、死んでいるのではなく、眠っている。少し胸を撫で下ろす心地で、家康は板敷きを踏んだ。

 本多を見下ろす。あろうことか、かつて信長存命時に見た秀吉その人と、抱き合って眠っている。

「へ、平八郎っ」

 家康は、本多が秀吉にことを、それで悟った。

 名を呼ばれた本多は、むにゃむにゃと口を動かし、薄目を開け、僅かに開いた視界に、自らを見下ろす主の姿を認めると、あっと声を上げ、跳ね起きた。

「これは、なんとしたことじゃ、平八郎」

「ははっ」

 慌てて、身繕いをする。

「こちらでおやすみになっているのは、関白殿下ではあるまいか」

「左様」

「貴様、我が臣の分際で、あろうことか関白殿下に抱き付いて眠るとは、何たることか。殿下に対し、無礼であろう」

 内心、やられた、と思いながら、関白を立てるようなことを言う。家康は、秀吉など歯牙にもかけていなかったが、彼の性格上、表立って敵対することはなく、あくまで、秀吉に対して従順な態度を取り続けている。

「いや、しかし」

「何じゃ」

「関白殿下が、それがしを、お離し下さらなんだのです」

「それにしても」

 眠りこけている渋谷が、本多の腰に腕を回した。なにか、寝言を言っている。

「で、殿下」

 本多がそっとその腕を剥がすと、渋谷はうっすら眼を開けた。それで、何かが起きていることに気付き、身体を起こした。

「うう、頭痛ぇ。なんだよ、もう皆起きてんのかよ」

「か、関白殿下」

 家康は、板敷きの上に平伏した。

「なんだよ、あんた」

「この家康の面を、お忘れか」

「あぁ」

 と渋谷は、あくびをしながら答えた。

「あんたが、家康か。小牧長久手では、どうも」

 家康は、だらしなく着物を崩し、眠そうにしている秀吉を、心底恐れた。

「ははっ」

 としか、言えない。いちおう、織田信雄おだのぶかつの求めに応じ、旧主の恩のため挙兵したまでのこと、その信雄が勝手に秀吉と講和してしまったため、それで兵を引いた。秀吉と戦うことが目的ではなく、無き信長への義理立てが目的の挙兵であったのだ、という弁解はしてあり、秀吉から不問のお墨付きをもらってはいる。

「いや、こんなところで、会えるなんてな」

 と、渋谷はこめかみを押さえながら、言った。

「我が臣が、ご無礼をつかまつったようで」

 家康は、別の話題を持ち出した。

「ああ、忠勝か。こいつ、なんだよ。めちゃくちゃ面白ぇ奴じゃん」

 伊万里は、数時間前まで本多と渋谷が飲み比べをして、杯を空けるのが遅かった方がビンタをされるという馬鹿馬鹿しい遊びに夢中になっている二人の姿を思い出して、笑いをこらえている。

「畏れ多きこと」

「おい佐吉、水をくれ」

 と渋谷が言うので、伊万里は井戸で水を汲んでやり、渡した。それを一息に飲み干す。

「あぁ、美味い」

 大きく伸びをして、座り直した。

「家康さん。急に来ちゃって、悪かったな」

 本題に入ろう、という眼である。家康も居住まいを正したが、左右で大の男が眠りこけていて、ふんどしがこぼれ出ていたりして、どうにもやり辛い。

「して、どのようなご用向きで」

 ばつが悪そうに小さくなっている本多を後ろに控えさせ、家康は鷹揚おうように言った。

「いやね、あんたの力を借りに来たんだ」

 と、渋谷は開け透けに言う。

「なんでも、殿下は、北条を討伐すべく、軍を起こされたそうですな」

 家康は、わざと他人事のように言った。北条は、互いに縁戚関係を結んでいる同盟国である。

「そうそう、だけど、ちょっと違うな」

 渋谷が、笑った。その笑顔は爽やかで、家康は困った。昔の秀吉とは、もっと腹黒そうな、嫌らしい笑い方をしたものだ。

「討伐はしねぇ」

 と渋谷は言う。

「仲間にする」

 家康、沈黙。ちらりと、渋谷の左右の、吉継と伊万里の顔を窺った。吉継は感情の無い顔で宙を見つめており、伊万里は、何がおかしいのか笑いを噛み殺している。たぶん、数時間前繰り広げられた渋谷と本多の酒飲み合戦を囃すために行われた、正則の全裸での奇妙な踊りを思い出しているのだろう。

「だからよ」

 渋谷は、言う。

「あんたの力を、借りたいんだ」

「力を借りるとは?」

「俺の、仲間になってくれ。それで、北条に、お前もそうしろ、と勧めてやってくれ」

「ほほう、それはまた」

 生ぬるいことで、とは言わない。それをして、家康や北条に、何の得があるというのだ。今、国境に軍を起き、僅かな手勢のみで、関白秀吉は自分の眼の前にいる。太刀すら、持っていない。殺そうと思えば、すぐ殺せるのだ。

「少々、考える時間を頂くことを、お許し願いたい」

 と家康は言う。関白をここで殺し、北条と共に、天下の軍と一戦交えるか。それとも、北条ともども、その天下の軍に加わるか。

「駄目だね、今、決めてくれ」

「それは」

「なに、迷うこたぁねぇ」

「家康殿」

 伊万里が、三成の声で、その続きを言う。

「どうも、家康殿は、思い違いをしておられるご様子」

「はて、思い違いとは?」

「服属しろ。従え。殿下が、貴殿にそう仰せであると思われているように、お見受けするが」

 いかにも。とは言えず、家康は小首を傾げ、次の言葉を待った。

「殿下は、、と仰せなのです」

 にっこり、笑った。男にしておくには惜しいほど、可愛い笑顔だと家康は思った。

「はて、借りるとは、いかなる」

「借りるのだから、お返し申すということでござる」

「力をお貸しし、それを、お返し頂くということか。いかように?」

「まず、金」

 家康は、秀吉が持ち込んだという山のような財宝のことを思い浮かべた。

「それを、我らは、手付けと呼んでおります」

「手付け」

「左様」

「金で、この家康を買うと、そう仰せか?」

「うーん、もう一つ、分かりがお悪い。借りるのだから、買うわけではない」

「貸し借りには、担保が要るものだが」

 家康は、秀吉が、支配する大名どもに、領地などを担保に、金を貸し付けて頭が上がらぬようにしていることを言った。これは、渋谷としての秀吉独自の政策である。金を借りた大名は、返済に困ることはなく、元手を活かし、商業や農業の発展をさせ、むしろ借りる前より潤っていることも聞いている。秀吉が金を貸すとき担保を取るなら、自分を借りたいという秀吉は、何を担保として差し出すのか。そのことを言ったのである。

 言い返せまい、と家康はやや得意顔になった。三成は、そっと渋谷に目配せをした。片目をぱちりと瞑る合図は、何の意味があるのだろうと思った。

「担保、ね」

 渋谷が、また口を開きだした。

「この天下を、担保にする」

 家康は、背骨に雷ても走ったかと思うほど、驚いた。天下人になろうとしている秀吉その人が、天下を担保にして、家康の力を貸してくれと言うのである。そんな話は聞いたことがない。何か言おうとするが何も言えず、無意識に、口をぱくぱくさせた。

「ほら、鯉の真似なんかしてねぇでよ、家康さん」

 渋谷が、急き立てる。

「俺は、天下を取る。その天下すべてを、あんたに担保として差し出すのさ。あんたの力を借りる代わりに」

 渋谷は、もう一度、提案を述べた。恫喝でもなんでもない。それは、ただの、提案であった。

「あんたも、つまらぬ意地や何やにこだわって、天下の乱れを放っておくのは、本意じゃねぇはずだ。どうだ、悪い話じゃねぇだろ」

 家康は、もう一度、渋谷を観察した。

 何故だろう。いけ好かない成り上がり者のはずが、今は、とても好感が持てる。

 私心がない人間など、いるはずがないと思っている。秀吉とは、どちらかといえば、全てにおいて、それが特に濃い人間ではなかったか。

 しかし、今、眼の前にいる男は、全く、その逆だった。むしろ、天下統一というにばかり夢中になり、仕上がった天下などに何の執着もないように見える。

 力を借りて、それを物理的に返すということは出来ぬ。出来ぬなら、天下はすなわち、家康のものになるということではないか。

「そういうことさ」

 家康の思考を読んだようなことを、渋谷は言い、笑った。

 やはり、その笑顔は澄み切っていて、思わず、家康は、

「ははっ」

 と平伏してしまったのだ。

「やった、ありがとう、家康さんよ」

 家康は、秀吉という男が分からず、頭が破裂しそうになった。何か、家康でも思いも寄らぬことを企んでいるのか、本当に馬鹿なのか。

 とにかく、これが秀吉か、と家康は思った。

 とても、自分などと比べられる器ではない。

 家康に馴染みのあるものに例えるなら、浜名湖よりも広く、遠州灘よりも深い。そして、富士の山よりも高いもののように思えた。


 思わず、言った。腹を決めた。

「この家康、殿下のため、骨を粉にし、働きたく存じます。つきましては」

 伊万里は、来た、と思った。歴史が曲がり、それを、ひとりでに修正しようとする動きが。

「殿下の、そのー」

 と本堂の隅に渋谷がくしゃくしゃに脱ぎ散らかしたものを指し、

「ー陣羽織を拝領仕りたく存じまする」

 渋谷は、言う。

「はぁ?こんなもんを、何でさ」

「この家康が御前に罷り越しました以上、こののち、殿下に兵馬の労を取らせることは、決してないとお誓い申し上げます。ゆえに、その陣羽織を、殿下の代わりとして、この家康に、お与え下さいませ」

「あぁ、そういうこと」

 渋谷は、笑って立ち上がり、陣羽織をつまみ上げ、ぱんぱんと埃を払うと、家康に着せてやった。

「昨日さ、忠勝の奴が、酒こぼしやがったんだ。ちょっと臭ぇけど、乾けばなんとかなるだろ」


 そう言って、また笑った。

 家康も、笑った。

「しかし、殿下も、お人が大きい。金ではなく、天下をこの家康に差し出されるとは」

「貸し借りには、慣れてんだ」

 渋谷は、家康の方を、ぽんぽんと叩いた。

「なんなら、金、貸してやろうか」

「滅相もない」

 また、皆で笑った。

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