裏返して候

「利休!?」

 伊万里が、大声で呼ばわっても、返事がない。残された利休の衣服や扇などが、虚しく転がっているだけだ。

 消えたのか。歴史の流れが、曲がったから。とすれば、伊万里も、消えるのか。

 わからないことが多すぎて、伊万里は、泣き出したくなった。

「し、渋谷」

「今日のことは、歴史にはないのか」

 渋谷は、利休の扇を手に取りながら、言った。

「ない。利休は、この何年か後、あなたの怒りを買って、切腹させられるのよ」

「俺が、そんなことを」

「前に、話したでしょ」

「あり得ねぇな」

「でも、歴史が」

「歴史が、なんだってんだ」

 渋谷が、珍しく強い口調になった。

「お前、俺が、怒って人のことを切腹させるような奴だと思ってんのか」

「う、ううん」

「だろ。俺は、絶対、そんなことはしねぇ」

 それで、伊万里は分かった。渋谷は、間違っても人を自分の一存で殺したりはしない。だが、利休は、死なねばならない。その矛盾を埋めるため、歴史は、大谷吉継を使のではないか。

 利休は、消えた。矛盾が矛盾を生み、ついには利休が今ここに存在することを、認めることが出来なくなったのだ。

「渋谷」

 伊万里が、意味もなく、呼んだ。

「なんだよ」

 渋谷は扇を戻し、伊万里のそばに来た。

「利休は、どこに行ったのかしら」

「俺に聞くなよ。帰ったのか、どっか行ったのか」

「はじめから、あの人は、居なかったことにー?」

 伊万里は、震えている。

「わたしも、吉継と、歴史にないことを、しようとしたわ」

「伊万里」

「どうしよ、渋谷。どうしよ」

 ついに、ぽろぽろと、涙をこぼし始めた。

「伊万里」

 渋谷が、伊万里を、抱き締めた。

 背は伊万里とそれほど変わらぬが、力は、伊万里が思っていたよりもずっと強かった。

 刑事と金貸しとして、何度か揉み合いになったこともあるが、そのときは、渋谷の力がこれほど強いとは思わなかった。

「大丈夫だ、伊万里。絶対、大丈夫だ」

 伊万里は、何も言わない。ただ、わんわんと声を上げて、泣いている。

「歴史が何だよ。それが、お前を消そうってんなら、俺がそんな奴、ぶっ飛ばしてやるよ」

 勿論、無理である。だが、渋谷には、そんな根拠のないことを言う以外に、ない。

「怖くなんてない。な、伊万里。俺の側を、離れんな。寧もいる。皆いる。大丈夫だから」

 伊万里の腕が、渋谷の首に回った。わんわん泣きながら、恐るべき力が込められるから、渋谷は窒息しそうになったが、それでも背中を優しく叩き、大丈夫、大丈夫、と言うのをやめない。


 しばらくして、伊万里は、泣き止んだ。

 眼を真っ赤にしながら、横隔膜を痙攣させている。

「なんなの、これ」

 ぽつりと、伊万里は言った。

「なんで、こんな思いをしなきゃいけないの」

「伊万里」

「無茶苦茶よ。横暴よ」

「そうだな」

 渋谷は、力なく笑った。

「なによ、戦って。なによ、四国攻めって」

「もう、カタがつく。もうすぐ、皆、戻ってくるさ」

 破竹の勢いで進んだ秀吉軍の前に、長曽我部は成す術もなく、降伏目前という状態である。

「な、皆が戻ったら、労ってやらねぇとな。美味いものいっぱい用意して、宴会だ」

 渋谷は、出来るだけ伊万里に楽しいことを想像させようとしているらしい。優しく微笑んで、伊万里の頭を、ぽんぽんと叩いた。

「渋谷」

 伊万里のその頭が、渋谷の胸に、ころりと落ちた。

「もうちょっとだけ、抱っこ」

「はあ!?アホか、お前!」

 渋谷は、顔を真っ赤にして慌てた。先程は、つい、伊万里を抱き締めたが、女性に対して真面目で奥手な渋谷にとって、自ら進んで女性を抱き締めるという行為はどうも難しいらしい。

 そこへ、不意に、声がかかった。

「三成、おるのか」

 吉継である。伊万里は大慌てで渋谷から身体を離し、渋谷もわざとらしく立ち上がった。

「い、いるわ」

 伊万里が答えると、襖が開き、吉継が現れた。伊万里は、先ほどの吉継の部屋で起きたことを思い出して、また顔から火が出そうになった。

「三成、利休はどうした」

 渋谷に一礼してから、吉継は言った。

「いない」

「いない、だと」

「いなくなったわ」

「何故か、嫌な予感がして、見に来たのだ。いないとは、逃げたということか」

「ううん、吉継、違うの」

 伊万里は、利休の衣服を指差した。

「利休の?」

「ええ」

 伊万里は、すべて、吉継に話そうと思った。渋谷に目配せをすると、渋谷も、頷いた。

「今からわたしの言うことを、よく聞いてちょうだい」

 吉継は、背筋を伸ばし、伊万里に身体をまっすぐに向けて座った。聴く、ということだ。


「そんなことがーいや、どうりで」

 吉継は、伊万里も渋谷も、利休も官兵衛も、この時代に生まれた者ではなく、遥か先の時代から、時を越えてやってきた者であるということを、頭の中で噛み砕いているようだ。

「利休は、消えたー?文字通り、消えたのか」

 この男の癖で、普段は無口なくせに、頭の中で何かを理解しようとしているとき、独り言を言う。

「とすれば、この矛盾を、埋め合わせるために?」

 独り言は、続く。

「いや、違うな。俺が、利休を嵌めたことが、本来の歴史でないとするならば」

「利休が、今、この世から消えることもまた、矛盾ー?」

 吉継の眼が、ふと、上がった。それが、ツツと動き、伊万里の方を見る。

「三成。利休はー」

 吉継が言った瞬間、からりと無遠慮に襖が開き、人が入ってきた。

「ー戻って来るぞ」

 入ってきたのは、利休その人。

「これは、殿下。このような所に、お運びで。何用でおましたかな?」

 慇懃な態度の、関西弁の老人。しかし、伊万里や渋谷の知る利休とは、どこか違う。

「あ、こらあかん。片付けてから出たと思たのに、散らかしたまんまやったんか」

 利休は、散らばった自らの着物を見て、慌ててそれを片付けた。

「すんまへん、確かに、出掛けるのに着替えて、片付けたはずやのに。どうも、耄碌もうろくしたようやわ。お見苦しいことで」

 頭巾ごしに頭をぽりぽりと掻き、ばつが悪そうにした。利休は、こういうとき、いつも、癖のようにウインクをしていたものだが、それはせず、ぺろりと舌を出すという、をした。

「おい、伊万里、どうなってやがる。利休は、消えたんじゃなかったのかよ」

 渋谷が、言った。

「伊万里?焼き物でっか」

 渋谷がそう言った意味を、利休は分からぬようだった。

「これは」

 吉継が、伊万里を見た。

「いや、利休殿。貴殿に、ちと訊ねたいことがあったのだが、もうよい。騒がせたな」

 そう吉継は言って、伊万里と渋谷に目配せをし、立ち上がった。二人も、その後に続いた。

 その三人を、利休は見送り、首を傾げた。


「どういうことだよ、吉継」

 渋谷の自室に戻り、寧も交えて、四人で話した。出したままのが、そのまま散らばっていた。

「説明する」

 吉継は、渋谷が秀吉ではないと知り、このような場において、対等の礼を取ることを断ってから、裏返った札をひとつ、手に取った。

「思うに、歴史とは、裏返った札。開けるまで、何が描かれているかは分からぬが、絵札の柄が、変わるわけではない」

 別の札を、また表にした。絵が、合った。

「これが、のしていることだ」

 渋谷は、吉継が見せた、南蛮の図柄を見つめた。吉継は、また別の札を二枚、手に取った。今度は、図柄が合わない。

「これが、今回起きたこと。このようなとき、どうする」

「もとあった場所に、戻す」

「そうだ」

「つまり、歴史を追うというのは、絵札を選び、をするようなものなのだということ?」

 伊万里が言うのに頷き、吉継は、考察をはじめた。

「お前達は、この裏返った札に、なにが書かれているのか、予め知っている。しかし、全ての札を間違えず、合わせられるとは限らぬ。だから、間違いがおきたとき、札は、ひとりでに、場に戻されるのだ」

「もしかしたら、あなたが利休を嵌めようとするのを、石田三成が必死で思い止まらせたような歴史が、あったのかもしれないということね」

「いかにも。取られるべき札でないものが取られ、それは、無かったことになり、場に戻った」

「利休が、こちらに来たという事実ごと?」

「おそらく。あれは、どう見ても、お前達の知る利休ではなかったろう」

「たしかに」

「じゃあ、なぜ、利休は、わたしたちは、こちらに飛ばされて来たのかしら」

「うむーー、それは、分からん」

 吉継は、顎に手をやった。

「そういえば」

 渋谷が、ふと思い出したような顔をした。

「伊万里と、吾妻橋の上で揉み合って、落ちそうになったとき、誰かに、背中を押されたような気がした」

「なにそれ。ほんとに?」

「ああ。お前が落ちそうになって、俺が腕を掴んだろ。そのときだ」

「それが、お前達を、に誘った?」

 吉継が、難しい顔をした。

「なんや、おみゃあさん方が、ここに来ることを、望んだ者がおるようだなも」

 ずっと黙っていた寧が、口を開いた。

「それが誰かは知らねぇが、とんだ迷惑だぜ、こっちはよ」

「あら、関白殿下気取りで、ご機嫌なくせに」

「言ったな、こいつ」

「二人は、夫婦めおとであったのか」

 吉継が、聴いた。

「やめてよね。誰が、こんな馬鹿と」

「違うのか」

「違う違う、腐れ縁ってやつだ、こいつとは」

 渋谷も伊万里も、笑って否定した。

「そうか」

 と吉継は言って、

「案ずるな」

 と続けた。

「お前達は、戻れると思う」

「ほんとに!?吉継」

「確証はない。しかし、戻す。俺が、戻す」

「吉継。お前、いい奴だな」

「三成。お前は、俺が、戻してやる」

「吉継、あんた、なんていい奴なの」

 寧が、袖口を顔にやり、笑った。

「惚れたおなごのために、気張りゃーよ」

「な、なにを」

 いつも沈着な吉継が、慌てた。伊万里は、また顔を真っ赤にした。

「お、なんだ吉継。伊万里のことが、好きなのかよ、おめぇ」

 と、渋谷も囃し立てる。

「いや」

 吉継は、沈着な顔に戻り、

「も、もののふたるもの、こ、困っている者を助けるべき。それだけのこと」

「噛み噛みじゃねぇか」

「三成」

 吉継は、渋谷を無視して、伊万里を見た。

「お前は、戻れる。案ずるな」

 伊万里は、また胸キュンで内側から破裂しそうになるのを堪えた。



 八月の末には、四国攻めに向かっていた全ての将が、戻った。四国を平らげれば、次は、九州。歴史は、そうなっている。

 今後の方針を決める評定ひょうじょうの場で、官兵衛も、その通り主張した。しかし、吉継が、それに反対した。

「次は、北条がよろしかろう」

 と言うのである。伊万里は、驚いた。絵合わせの話をしておきながら、吉継は、自ら、誤った札を取れと言うのである。

 眼を真ん丸にして、吉継を見る。吉継は、黙って頷いた。

「俺に、任せろ」

 そういう風に、伊万里には思えた。

「殿下」

 伊万里も、膝を進め、発言した。

「吉継殿の仰ること、至極ごもっとも。薩摩は、こうなれば、放っておいても立ち枯れは必至、おのずと、向こうから靡いて参りましょう。それよりも、東の北条。これを押さえるべきでござる。まず、手始めに、今だ旗色を濁している、徳川を、こちらに引き込む。これが第一かと」

 官兵衛は、信じられぬといった顔で、伊万里を見た。

「そうだな」

 と渋谷が応じたのには、もっと驚いた。

「官兵衛、悪いな。今回は、吉継が言う通りにしてみるわ」

 と、片手で拝むような仕草を、した。

「どうなっても、知りませんぞ」

 官兵衛は、低い声で、呟いた。

「では」

 吉継は、更に言葉を続けた。

「九州の仕置きは、官兵衛殿に、お任せなさってはいかがか、殿下」

「ああ、そりゃあいい。どうだ、三成。九州の、なんだ、島津っつったっけ?そいつをどうにかするのに、どれくらいの兵があればいいんだ、三成」

「まず、少なくとも、三万」

「少なすぎる」

 と官兵衛は反論した。

「いや、それでよろしい」

 と吉継。

「九州には、大友など、こちらに既に旗を預けた有力な者が、多くおります。また、龍造寺など、島津を良く思わぬ、没落した家もある。それらを集め、糾合すれば、ただちに五万を越える軍となろう。官兵衛殿、あなたなら、出来るはずだ」

「よし、決まりだな。東は吉継に、三成。西は、官兵衛に任せる。皆、頼んだぜ」


 こうして、歴史は、もともとの形とは全く違う方へと、旋回を始めたのである。

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