消えて候
吉継は、伊万里の見た目や性別のことにはそれきり触れず、利休のことについて述べはじめた。
「あれは、天下に巣食う、虫だ」
とこのイケメンは平然と言うのである。
「俺はな、三成」
伊万里は、唾を飲み込み、吉継の言葉を待った。
「天下とは、誰かが私するものではないと思う」
「天下は、天下の天下なり、ね」
「ほう、言うではないか。殿は、言葉では仰せにはならぬが、そのことを、しっかりと胸で分かっておいでだ」
「そうね」
「しかし、あの茶坊主は違う。あれは、天下の権を己に集め、己を利することばかりを考える、
「その虫を見つけたら、どうするの、吉継」
「決まっておろう」
吉継は、つまんで捨てる素振りをした。
「待って。まだ、早いわ」
「いいや、今が、時だ。多くの将は、四国にかかりきりになっている」
利休の排除 ー秀吉に命じられ、切腹をする歴史としてこの先に待っているー は、まだ至らない。しかし、吉継は、それをするという。
何かが、変わりはじめているような。そんな恐怖を、伊万里は覚えた。
「駄目よ、吉継」
「ほう、お前なら、乗ると思っていたが」
「まだ、その時ではないの」
「そうか。ならば、俺一人でやるか」
吉継の意思は、揺るがない。
「お前の力が得られれば、なにかと、やり易いと思ったのだが、な」
無表情で、
「慎重にお願い。吉継。早まらないで」
吉継は答えず、硯に向かっている。
「俺はな、三成」
ぽつりと、言った。
「こう見えて、怒り狂っているのだ」
「茶々のため?」
「茶々様と呼べ、三成」
吉継は、旧主の姫、という特別な眼で、茶々を見ている。それをも抱き込み、権力を求める利休を、許すことが出来ぬのであろう。
「お前も、近江者なら、分かるだろう」
吉継は、伊万里が女であることは知ったが、転移者であることは知らぬ。彼の中で、石田三成とは、はじめから女だったということになっている。
この世の全ての人がそう思えば、男として存在していた石田三成は、完全に消え、伊万里こそが石田三成であるということになる。
伊万里は、ぞっとした。
色には出さず、笑顔を作った。
「もう、行け、三成。俺のすることを、お前は知ることはない。それでよい」
伊万里は、静かに部屋を出た。
襖を閉めてから、吉継の声が、それを透過してきた。
「そんな顔で、笑うのだな」
伊万里は、襖を背に当てて、全身の毛がざわざわするのを
「悪くない」
鼻血が出そうになるのを我慢して、駆け足で自室に戻った。
秀吉軍は、文字通り塗りつぶすようにして、四国を攻め取っている。安芸からは、小早川。備中からは、宇喜多。淡路からは、官兵衛。堺から海を渡り、渋谷の弟ということになっている小一郎秀長。それらが、同時に、四国各地で、多方面作戦を初めており、今日この砦を落とし、明日はあの城が落ちるという具合に、進んでいる。
城内の話題も、自然、そちらに向く。
「破竹とは、まさにこのことぞ」
「いや、さすが、関白殿下の軍」
渋谷は、七月、関白の位を朝廷より授かった。これで、利休は、更に力を増すことだろう。
堺から、利休の所有する船を使い、四国へと物資は送られている。ちょうどその頃、その輸送が、やや滞った。
利休は、現代から転移してきた身として、ただ利休として役目を全うしているだけだろう。彼は、何故輸送が滞ったのか、分からぬ。首をかしげ、ただちに配下の者に、原因を調べさせた。
報告を聞いた利休は、驚愕した。堺から、海向こうの阿波に物資を届ければよいだけなのに、あろうことか、六月末に発した船団は、紀伊半島を南下し、東へ向かった気配だというのである。
なにかの、間違いか。あり得ぬことである。
物資の管理などをしている伊万里に、すぐに利休は問い合わせた。
「み、三成殿」
「利休さん。どうしたんですか」
利休は、無論、伊万里もまた転移者であることを知っている。
「ふ、船が」
「船が、どうしたんですか」
そう訊き返す伊万里の隣には、大谷吉継。涼しい顔で、なにか書き付けのようなものをまとめている。おおかた、伊万里と、兵糧や武器の量の計算でもしていたのだろう。
「そうだ、利休殿」
筆を、ことりと置き、吉継は、利休の方を見ずに言った。
「貴殿に、訊きたいことがあったのだ」
利休の顔が、青ざめた。
「我らの用意した、秀長様宛の兵糧などを積んだ船。それを手配したのは、貴殿であったな」
伊万里の顔も、青ざめた。吉継は、やった。このような歴史は、存在しない。伊万里や、渋谷の生む、ほんの小さな矛盾。それが積み重なり、ついに歴史が、本来あるべきでない方へと向きを変えつつあるのかもしれぬ。
「い、いかにも」
「どうも、おかしい。その船が、東に向かったらしいのだ」
「わ、わしでさえ、今聞いて、飛んできたんや。それを、なんであんたが知ってるんや」
利休の顔が、今度は赤くなった。
「俺を、あなどってもらっては、困る」
という言葉を、その答えとした。
「よ、吉継」
「俺の調べによると、どうも、その船は、北条へ向かったらしいのだ」
北条といえば、言わずと知れた秀吉の仮想敵である。そこへ、兵糧を横流ししたとなれば、通敵行為で、斬罪である。
「いや、三成。怖いものだ」
眠ったような眼で、吉継は伊万里を見た。
「商人とは、結局のところ、自らの利によって動く。おそらく、殿下のもとで権勢を
「よ、吉継、あなた」
伊万里は、心底、この無口なイケメンが怖くなった。
「わかるな、利休殿」
はじめて、吉継は、利休の方を見た。
「貴殿は、売ったのだ。北条に、兵糧を」
「そ、そんなこと、誰がしますねや」
「あり得ぬことだな。だが、貴殿は、それをした」
「あほなことを、抜かすな。お前、わしを、ハメたな」
「嵌める?なんのことだ。俺は、兵糧が届かぬことを不審に思い、調べさせただけのこと。それを、嵌めるとは、人聞きが悪いな」
「ふ、船が戻ってくれば、間違いであったことは分かる」
「そうだな。船が戻るのを、待つとしよう」
吉継は、また硯に向かった。話は終わり、ということだ。
七月の末。船団が、堺に戻ってきた。船に、兵糧はない。その代わり、金を積んでいた。
それを、吉継の手の者が、捕らえた。船に乗り組んでいた者を問いただすと、
「利休様のお指図で、北条へ、荷物を運んでおました」
と、平然と答えた。
「その代わりに、ほれ、金を受け取って」
と、積み荷を指した。
「たしかに、利休が、そうせよと申したのだな」
と、船を改める役の奉行が確かめると、
「間違いおまへん」
と、全員が答えた。
それを聞いた利休は、足元が、がらがらと崩れてゆくのを感じた。
「で、殿下に、お目通りを」
と懇願したが、吉継は相手にしない。
「殿下は、敵に通じた者などに、お会いにはならない」
「ちょっと、吉継」
「おや、三成、お前、何か物言いがあるか」
「もう少し、調べてみましょう」
「調べ、証が出た。こやつは、殿下の天下をも、売りかねん」
「あ、あなた」
「利休殿。貴殿が、これまで殿下に尽くして来られたのは、俺もよく知っている。だから、斬罪というのは、免じられるべきであろう」
吉継の眼は、また眠ったようになっている。
「切腹が、然るべきかと」
そう、吉継は言い放った。
「あ、あり得ない」
伊万里は、勢いよく立ち上がり、走った。
「渋谷!!」
怒鳴り込むようにして、渋谷の居室の襖を開けた。渋谷は、寧と、かるた遊びをしていた。
「すぐ、来い!」
腕をひったくるようにして、渋谷を連れて行った。途中、いきさつを説明した。
「まさか、ほんとうに吉継が、ここまでやるなんて」
「まぁ、なにも、殺すことはないわな」
「あんた、ほんとに、呑気ね」
「利休は、今?」
「吉継と、一緒よ。切腹なんて、あり得ない」
「まぁ、俺が言えば、吉継も思い止まるだろう」
すぐに、二人は、吉継の部屋に向かった。
「これは、殿下」
吉継は、平然とした顔で座っている。
「お前、利休を、どうするつもりだ」
「ああ、あの男は、我らの兵糧を、あろうことか、北条に売ったのです。これは、死をもって償うほか、ない」
「吉継。どうして、そこまでして」
伊万里が、ほとんど泣きそうになりながら、言った。はじめ、伊万里に協力を求めてきた。それを、もっと本気で受け取って、止めればよかった。今さら後悔しても、遅いが。
「吉継。利休を、どうした」
渋谷が、伊万里を制し、言った。
「自室で、謹慎しておることでしょう」
「切腹は、ナシだ。いいな」
「しかし、あの者は、北条に通じたのですぞ」
「それがほんとうだったとしても、切腹は、駄目だ。いいな」
「御意のままに」
吉継は、頭を垂れた。渋谷は、そのまま、利休の居室へと、全速力で駆けていった。部屋には、伊万里と、吉継の二人が残った。
「三成。俺を、蔑むか」
「でっちあげでしょ」
「虚言でも、人がそれを誠だと言えば、それは、誠となる」
「あなた、なんて人なの」
顔がいいからといって、ドキドキキュンキュンしていたのが、馬鹿らしくなった。
「では問おう、三成」
吉継の白い顔に光る二つの眼が、鋭くなった。
「天下にとって、一人の人間を、謂れなく滅することと、一人の人間が、天下を私するのと、どちらが、悪か」
「そ、それは」
「答えよ。どちらが、悪だ」
伊万里は、答えに詰まった。みるみる、顔が赤くなってゆく。
「どっちも、悪よ」
ヤカンが湯気を吹き出すように、伊万里は言った。それを聞いて、吉継が、珍しく笑いだした。
「ご名答。どちらも、悪さ」
「じゃあ、あなたは」
「そう。俺は、悪を行ってでも、天下に巣食う悪を、滅する。その責めを負えというのなら、喜んで俺は
「吉継」
「案ずるな。誰も、利休に腹を切らせはせんよ」
吉継の眼の光が、優しくなった。
「少しばかり、懲らしめてやれば、あの腹黒い茶坊主も、おとなしくなるであろう。今回のことで、奴は、殺されてもおかしくないものを、殿下に
「吉継、はじめから、殺すつもりなんて、なかったの」
「殿下のご気性だ。こうなることは、分かっていた。利休の船の行き先をすり替えたのは、俺だ。俺の差し金と分からぬよう、あちこちを回り回って、船の者に、多額の金を与えた。それで、船の行き先と、詮議で奴らの言う内容を、ねじ曲げたのだ」
「ずいぶん、手が込んでいるじゃない」
伊万里は、吉継が、利休を殺すために偽りを作り出し、罠にかけたのではないことを知って、胸を撫でおろした。
「どうだ、三成。これが、俺のやり方だ」
「見直したわ」
「それは、どうも」
くく、と喉を鳴らし、吉継は、書見を始めた。
「俺はな、三成」
珍しく、それで話は終わりではなかった。
「何もかも、成し遂げたいのだ」
「何もかも?」
「殿下は、世を平らげようとしておられる。それは、殿下が、世を平らげるに値する器であるからだ。殿下のほかに、それが出来る者は、おらぬ」
「そう、ね」
「では、俺のすることは、決まってくる」
「なあに」
「天下に巣食う虫すら、その葉を茂らせる役目を与えてやることが出来る。俺が牙を剥くのは、その木を、根こそぎ持っていこうとする盗人にだけだ」
「あなたらしいわね」
吉継は、鼻で笑った。
「お前に、俺のことが分かるのか」
「ええ、とても、よく分かるわ」
なにせ、伊万里は
「三成」
吉継の眼が、まっすぐ、伊万里を見た。なんの表情もなく。
「共に、天下のために、尽くそう。女の身で、荷が重いならば、俺が幾らか背負う。それでもいい。俺には、お前が必要なのだ」
胸キュンどころの騒ぎではない。伊万里は、ほぼ即死した。
「ば、馬鹿にしないで」
三途の川を見ながら、伊万里は辛うじて言った。
「そうだな。お前は、男か女か、では測れぬ者だ、三成。悪かった。女だから、男よりも負える荷が少ないとは、限らぬものな」
吉継が、笑った。とても、無垢な、少年のような笑顔だった。
死んだ。
今度こそ、伊万里は死んだ。
「よ、吉継」
伊万里は、完全に、女の顔になった。それを、見られてはいけないような気がして、慌てて立ち上がった。
立ち上がるとき、裾を踏んだ。
重心が、後ろに。
それを制御することが出来ないのを、悟った。
重力。
いや、引力か。
床へ、吸い付くように。
吉継が、それを助けようと、身を乗り出す。
膝。
それが伸び、腰へと力は通ずる。
腕を、肘を伸ばし、伊万里を支えようとする。
どん、と畳が鳴った。
ふわりと、畳の香りが、伊万里の鼻腔を覗き込む。
同時に、吉継の、男の香り。
吉継の両手は、伊万里の耳の横に。
吉継の顔は、伊万里の顔のすぐ目の前に。
天井が、見えた。伊万里は、身動きが出来ない。
倒れたときに背中を打ったからか、取って付けたような床ドンのシチュエーションからか。
何かを、伊万里は乞うように、唇を突き出し、眼を閉じた。
学生のころ、これでも、彼氏はいた。大した男ではなく、半年ほどで別れたが、伊万里は年齢イコール一人者というわけではない。こういう呼吸は、分かっている。
しかし、閉じた眼の中の黒い視界が、明るくなった。おそるおそる眼を開けると、吉継は、もう書見の姿勢に戻っていた。
「吉継」
伊万里は、上体を起こした。
「ひとりでに転ぶやつが、あるか」
吉継の背中が、ぶっきらぼうに言った。
伊万里は、顔から火が出るほど恥ずかしくなって、駆け去った。
駆け去ったから、吉継の手が、その後そっと己の胸にあてがわれたところまで、彼女は見ることが出来なかった。
「もう、なんなの、恥ずかしいいい」
伊万里は、顔から火を吹き出しながら、利休の部屋へと駆けた。
こんなときは、馬鹿の顔を見て、忘れてしまうのがいい。
この世で、渋谷ほど、恥ずかしい人間はいない。彼の馬鹿が、伊万里の恥ずかしさを、隠してくれると思った。
「渋谷!」
利休の部屋の襖を、開いた。
そこに、渋谷は、ぽつんと座っていた。
「伊万里」
一人である。
「あれ、利休は?」
「いないんだ」
渋谷が指さした先には、利休が先ほどまで着ていた、着物。懐に入れていたと思われる高価そうな扇や、下帯まで、残されている。
まさか、ここから、全裸で逃げたわけではあるまい。
とすれば。
「消えた—?」
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