第三章 上り詰めて候

語って候

 いつのまにか、こちらに来て一年半が経っている。

 渋谷は、天正十三年の十一月、従三位権大納言になった。右大臣であった信長の次位である。そこまで、この男は上り詰めた。

 渋谷は、大納言などと言われても何のことか分からぬが、利休、官兵衛など歴史を知る者が、しきりとそうするように勧めたため、その通りになった。

「伊万里。俺みたいな奴が、大納言だってよ」

 と、伊万里に無邪気に自慢するのだが、やはり伊万里としては穏やかな心持ちではない。

「あっそう」

 と、そっぽを向いて見せる。この一年半、ほんとうにあっという間であった。渋谷は、伊万里になんでも話す。はじめ、金貸しと刑事として、追われ、追いしていたのが嘘のように、渋谷は伊万里に気を許していた。それは、無論、伊万里においても同じである。

 二人の心理的距離が近づけば近づくほど、伊万里は渋谷の栄達が、どこか寂しく、どこか不安に思えるのだ。


「偉くなれば、戦いを挑んでくる馬鹿も、ちょっとは躊躇するだろ」

 と、渋谷は、官兵衛や利休などが渋谷の頭に分かりやすく吹き込んだであろう理屈を伊万里に言った。

「あんた、帰るつもり、あんの?」

「当たり前だよ」

「戻っても、ただの金貸し。ここにいれば、天下人。そんな風には、思わないの?」

「なんだよ、伊万里」

「怖いの」

「なにが」

「あんたが、このまま、秀吉になってしまうんじゃないかって」

 渋谷は、笑いだした。

「馬鹿だな、俺は、俺さ」

「ほんとう?」

 伊万里は、口を少し尖らせて、渋谷を見た。

 かわいい、と渋谷は不覚にも思った。

「当たり前だろ」

「渋谷、ちょっと、話せる?」

「話してるじゃねぇか、こうして」

「ちゃんと、聞いて」

 伊万里は、いつになく真剣だ。

「渋谷、あんた、楽しんでるでしょ」

 渋谷は、ちょっと、たじろいだ。確かに、楽しんでいる。渋谷が秀吉の人生を楽しむのは、伊万里にとっては、面白くないに違いないと、思う。伊万里は、石田三成としての人生などに、なんの思い入れもない。彼女にとっての人生とは、現代で、刑事として悪を追う、伊万里春菜であるからだ。

 彼女は、帰りたがっている。しかし、帰る術が分からぬまま、もう一年半が過ぎた。

 何かの拍子にあっさり帰れるかもしれぬし、もしかすると、もう一生帰れぬかもしれぬ。

 どちらにせよ、渋谷は、を一生懸命に、生きたいのだ。

 これまでの人生で、それをしてこなかったことを、日々後悔しているだけに。

 それが、羽柴秀吉としてのものであっても、渋谷雄としてのものであっても、どちらでもよい。

「俺はさ、伊万里」

 渋谷が、いつも座している、一段高くなった所から、降りてきた。

 この時代、後世ほど畳とは一般的でなく、板敷きが多かったが、大坂城は、畳張りであった。その畳の上、伊万里のすぐ眼の前に、渋谷はどかりと尻を落ち着けた。

「いつ、どこでだって、やらなきゃならないことを、やりたいんだ。自分に嘘はつきたくない。へっ、ありきたりな言い回しだけどな。それが、下らない毎日でも、天下取りでも」

「渋谷」

「俺さ、家が貧乏でさ。ギスギスしてた。ずっと、そうだった。当たり前みたいに、学校ではワルだった。なんか毎日トラブル起こしてさ、そんなの気にすることもなく、平然と家帰ってた。お袋は、そんな俺を心配しながら叱ってくれるかな、なんて思ったりもしたが、違った。ただ、苛立ちを俺にぶつけるだけだった。親父は、俺にもお袋にも興味なんてない。その日出来る、楽しいことしか、しないんだ。親父も、お袋も、そんな人生に、後悔してた」

 このところ、ずっと秀吉だった眼が、ふと、伊万里の知る、浅草の街をほっつき歩く、金貸しの渋谷の眼に戻ったような気がした。

 それは、曇り、濁り、悲しみを湛えていた。

「世に出てからも、俺は俺のまんまだった。ヒネてて、下手くそで、馬鹿なまんまだった。それでも、俺は、俺に出来ることを、毎日、一生懸命やった。そしたら、どうだ。女刑事に追われる毎日じゃねぇか。捕まりゃ、もう仕事はなくなる。この先の人生も、おしまいさ」

 それでも、よりよい自分を。そうは言わなかった。代わりに、ぱっと明るい眼に戻って、

「だからさ、俺はよ」

 と言った。

「こっちに来たの、いい機会だと思ってんだ」

「いい機会?」

「そ。なにか、変われそうな気がして」

「変わるって?」

「自信がないんだ」

 渋谷の、ぼさぼさとした眉が、困ったように下がった。

「自分に。お前は、どうだ?」

 いきなり言われて、伊万里は戸惑った。

「わたしは」

 正直、考えたこともなかった。両親は仲良く、どちらも教師。エリーというマルチーズもいる。毎朝、早い時間に、両親は、手を繋いでエリーの散歩に行くのが日課だ。教師というのは忙しいから、両親は、二人で工夫し、その早朝の時間を活用しているのだ。

 当たり前のように勉強し、学年で一番の成績を取ったこともあった。当たり前のように、人の役に立ちたい、と思い、刑事になった。そのことに、後悔も疑念もない。

 しかし、犯罪者とは、世を乱すだと、決めつけていたのは確かかもしれぬ。少なくとも、初めての案件ヤマとして与えられた渋谷という男について、彼の犯罪歴などについてはよく見、捜査の嫌疑などについても熟知したが、今彼が吐露したような、彼の心の痛みなどについて、考えたことがあったか。

 罪を犯すことイコール憎しみの対象にはならない。それを言ってしまっては刑事は務まらぬのかもしれぬが、伊万里はそう思った。容疑者ホシに情が移れば終わり、と、上司にもさんざん言われた。

 その上司は、40代半ばくらいで、いつも伊万里を見ては、おう、胸は膨らんだか、と言いながら、尻を触ってくる絵に書いたようなセクハラ親父だった。一度、捜査について大事なことを教えてやる、と食事に誘われたが、伊万里はきっぱり断った。

「結構です。人に教わっていては、伸びません。皆さんの背を見て、盗みますから」

 と言い、

「これは、窃盗罪にはなりませんよね」

 とキメて、ニヤリと笑ってやった。それまでは、アイドルか子猫のように可愛がられていたのに、それ以来、部署の中で、自分への当たりが急に強くなった。

 正義を求め、実行する刑事とて、そんなもの。

 すごく、残念な気持ちに伊万里はなったものである。だからこそ、与えられた、渋谷の案件ヤマにこだわり、完璧に遂行しようとしたのかもしれぬ。

 伊万里の太眉が、穏やかに笑った。

「あんた、ほんとに、馬鹿ね」

「自信なんて、自分で持つもんじゃないわよ」

「うん?」

「あんた、いい奴よ。みんな、あんたのこと大好きじゃない。それは、あんたが、いい奴だからよ」

「そう、なのかな」

「あんたは、いつも明るい。そして、優しいわ。たぶん、それが、において、皆の眼から、虹みたいに輝いて見えるの」

「俺は、ただ」

「一生懸命なだけ、でしょ。知ってるわよ。あんたが、この上、怠け者だったら、もう救いがないじゃない」

 と伊万里は吹き出した。

「伊万里」

「なによ」

「ありがとな」

 ちょっと、いい話のような感じになっていたが、渋谷は、何故か悲しそうにしていた。

「なによ、伊万里様が、褒めてやってんのよ。喜びなさいよ」

「うん」

「ほら、笑いなさいよ」

 言われて、渋谷は、笑った。

「もっと、ヘラヘラしてなさい。あんたは、皆に慕われる、明るく優しい、秀吉様なんだから」

「うん」

「あんたを知る人は、嫌でも、あんたを助けてやりたいと思うのよ。だから、あんたは、馬鹿でも、何でもいいから、笑ってなさい」

「官兵衛や利休も、助けてくれるもんな」

 渋谷の頭に浮かんだのは、まずその二人だった。

「渋谷。あのね」

「なんだよ」

「官兵衛さんも、この時代の人じゃないのよ」

「なんだって!?」

 渋谷は、鼻から脳が出たかと思うほど驚いた。なんとなく、機会を逸して、伊万里はついにこのことを渋谷に告げられずにいた。

「馬鹿もここまで極めれば、美学ね。あのね、官兵衛さんがあんたを助けるのは、自分がもとの時代に戻るため。そのために、あなたには、らしくいてもらわなきゃいけないの。分かる?あの人は、あんたのために尽くしてるんじゃない。自分のために、尽くしてるの」

「そういう、もんか」

「それは、いいとして。わたし、あの人が、怖い」

「まぁ、顔は仏頂面だし、無口だからな。女子ウケはしねぇよ」

「猿みたいな顔して何言ってんの。違うわ、あの人ー」

 伊万里は、どう表現していいのか、迷っているようだった。ちょっと黙り、その言葉を探り当て、発した。

「ー楽しんでいるわ。自分が、黒田官兵衛として、秀吉をコントロールし、世を動かすのを」

「べつに、悪いことじゃねぇだろ」

「うん、でも、そのために、あの人は、人を、道具のように使える人よ。あなたを、着せ替え人形にしている」

 伊万里の眉に、怒りの線が宿った。

「そんな人、わたしは、好きになれない」

「利休は。いい奴じゃねえか」

「そうね、とても、いい人。でも、やっぱり、わたしは信じられない。現代から来た以上、やっぱり、自分が、上手くその時代に戻ることを、第一に考えるはずよ。わたしだって、そうだもの」

「分からねぇな。だとしたら、なおさら、現代人同士、仲良く協力すりゃいいじゃねぇか」

「そうね。それが、出来るなら」

「無理なのか」

 頭は悪いが察しのいい渋谷は、伊万里が、この先の歴史についての知識をもっていて、それに基づいた憂いを抱いていることを想像した。

「そうね。官兵衛や利休は、あなたと、この後、最悪の関係になるわ。あなたは、天下を取ったあと、利休に言いがかりをつけて切腹させ、官兵衛の知と才を恐れ、遠い国に封じ込め、冷遇する。あなたが死んだあと、官兵衛は、一瞬、あなたの天下を狙いに来るほどよ」

「そうなのか。俺は、そんなつもりは、ないけどなぁ」

「だから、あの二人は、間違いなく、あなたに嫌われようとしてくる。利休は、あなたに切腹させられなければならず、官兵衛は、あなたに、恐怖心を植え付けてくる」

 伊万里は、官兵衛から聞いた、もとの時代に戻る術について、渋谷に解説した。

「それをして、ほんとうに、戻れるのかどうか、保証はないわ。だって、あなたが死ぬの、今からずっと後のことよ。二人とも、こちらで時間を過ごし、現代に戻ったら、現代の時間も、同じように過ぎているのかしら。そうなれば、わたしたち、二十年近くも行方不明になっていて、どの面下げて、戻ればいいのよ。仕事は?知り合いは?家族は?」

「なんだか、頭が痛くなってきたぜ」

「だから、言ったでしょ。わたし、怖いの」

 伊万里は、また泣きそうになっている。

 うつむいて、涙をこらえた。

 不意に、肩に、重味がかかった。

 渋谷の、両手。しっかりと、伊万里の肩を、掴んでいる。

「大丈夫だ、伊万里」

 と、また渋谷は根拠のないことを言う。

 それでも、伊万里は、うれしいと感じた。

 すると、こらえていたはずの涙が、次々とこぼれてくる。

「心配すんな。戻って、お前が困ってたら、俺が必ず助けてやる。仕事も、一緒に探そう。なんとかなるさ。だから、大丈夫だ」

「馬鹿、あんたに、何ができるのよ」

「さぁ。でも、一人よりは、マシだろ」

「まぁ、あんたみたいな人でも、いないよりは、ね」

「いいね、そうやって悪態ついてる方が、お前らしいぜ、伊万里」

「言ってなさい、シブヤ」

「シブタニだ、馬鹿野郎」

 渋谷は、立ち上がった。伊万里の腕が伸びてきて、その袖を掴んだ。

「ねぇ、渋谷」

 渋谷を見上げた。

「あんたが、自分が馬鹿なのを知ってて、人の言うことを素直に聞くのは、いいところだわ。でも、そのために、足元をすくわれちゃ駄目なのよ」

「わかってるさ。でも、どうすりゃいい」


 伊万里の頬に、赤みがさした。泣いたり、照れたり、忙しい女である。


「わたしを、頼って。もっと、たくさん」

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