伊万里、酔って候
渋谷は、ひらめいた。
なぜ、自分と家康が、戦っているのか。
尾張の戦線は引き払ったから、家康に与する、あるいは気脈を通じた、あるいは流れに乗っかった反秀吉勢力と、あちこちで小競り合いをすることになった。
元をたどれば、全て、家康である。その家康が、秀吉と戦う理由をなくしてしまえばよい。
渋谷は、そう着想した。家康の掲げる大義とは、織田家を継ぐのは、信長のゆかりの者である信雄であり、秀吉ではないというものだ。
「じゃあ」
と、渋谷は、自らの着想を、寧や伊万里に披露した。
「俺が、家康を飛び越して、信雄と仲直りをしちまえば、戦いは終わるじゃねぇか」
本軍が大坂に戻ったことにより、近隣各地で発生していた土豪や門徒の叛乱は、おさまった。しかし、まだ信雄の治める伊勢など、火種はあちこちでくすぶっている。
このままでは、小さな戦の範囲はどんどん広がってゆき、いずれまた、
その根を断ち切ると渋谷は言うのだ。
「仲直り」
と、寧も眼を丸くして驚いている。伊万里も、驚いている。
寧は渋谷の案の奇抜なことに驚いているのだが、伊万里は、渋谷が歴史の通りのことを行おうとしていることに驚いた。
やはり、歴史とは、歴史の動く方にしか、動かぬのか。
「ほら、伊万里。これで、戦は終わる。お前を、困らせることが、ひとつ減った。よかったじゃねぇか」
と得意面で伊万里の背をばしばし叩く渋谷を、伊万里は、複雑な面持ちで見た。
先のことを言ってしまうと、このあと、十一月まで半年ほどもあちこちで続いた戦は、秀吉の機転により、信雄と講和を結び、家康から戦う理由を取り上げるという、鮮やかで荒唐無稽な手段でもって、終わる。
振り上げた矛の向ける先のなくなった家康は、本国に帰るしかない。もともと、信雄を助けてやるつもりで、家康はわざわざ出てきたのだ。あの高慢な土猿の鼻面を、ついでにへし折ってやれ、と、それくらいの気持ちであった。しかし、秀吉は意外に戦が上手い。無論、幕僚が優秀なのであろうが、幕僚に力を発揮させる将は、怖い。ごく稀に、当人が無能でも、その人の回りにどんどんと人が集まってきて、知らぬ間にその者を押し上げるという例が、この国にも
秀吉とは、その型の人間か。と家康は、戦慄した。緒戦である小牧・長久手において、強襲軍を壊滅させる戦果は上げたが、それはあくまで戦略的勝利で、戦術的には秀吉が上を言ったと見ることもできる。
家康が半ば手引きしたり、けしかけたりするような形で局所的に乱発させた局所戦においても、秀吉軍は強い。秀吉の軍師である黒田官兵衛という者は、大坂にありながら、あちこちに眼を配り、まるで先のことが見えているかのような鮮やかな手を打ってくる。
ならば、緒戦の大損害も、どうにか防ぐ手立てを見つけられそうなものであるが、あるいは、官兵衛は、大損害を被ることで自軍に、あるいは秀吉自身に、
もし、あのまま秀吉の強襲が成功し、その陣が小牧城まで前進していれば、本軍同士の激烈なぶつかり合いになっていた。
官兵衛は、それをせず、最小限の犠牲で、戦を終わらせる絵を書いたのではないか。
退き際に、美濃の、絶妙な位置にある小城を二つ落としていったことからも、それが窺える。
そのような男を従える秀吉という者は、何者なのだと家康は改めて思った。無論、信長の天下の頃には互いに見知っているし、信長が北陸を進軍中、茶々の父である近江の浅井長政がにわかに叛いたとき、金ヶ崎の退き口として語り伝えられる有名な撤退戦で、秀吉が己の人生の浮沈全てを一点に張り、大博打のようにして殿を買って出て、それを見事と思った家康が助けたということもあった。
しかし、その頃、秀吉が、これほど恐ろしい男であると思わなかったというのが、家康の正直な感想であろう。
十一月になってから、渋谷は、自室で話しているとき、伊万里に言った。
「な、伊万里。俺の言う通りになったろ」
「そうね、渋谷」
伊万里は、どういうわけか、寂しそうだった。
「どうしたよ、伊万里。戦が、終わったんだぜ」
伊万里は、また曖昧に笑うだけである。それでも、意を決したように、何かを言おうとした。
「渋谷、あのね」
そこへ、清正の声。
「殿」
「なんだ」
「茶々様が、お話を、なさりたいと」
「なにっ、茶々が?すぐ行く」
渋谷は、すぐ立ち上がって、出ていった。
部屋には、ぽつりと、伊万里が残った。
「佐吉。何をしておる」
主のいなくなった部屋に留まるのは、よくない。清正は、それを
「すぐに、出る。一人にしてくれぬか、清正」
三成は、清正に背を向けたまま、その場を動かない。
「来い」
どすどすと畳を踏み鳴らして部屋に入った清正が、伊万里の細い腕を掴んだ。
「なんじゃ、貴様。また腕が細くなったわ。これでは、まるで、女ではないか」
「やめろ、清正」
「筆ばかりを握って、槍を握らぬからだ」
「よせ」
「ほら、来い」
清正は、背が異様に高い。たぶん百八十センチくらいだろうが、この時代の者としては、とても背が高い。腕力もある。それに、伊万里は引きずられるようにして、連れていかれた。
連れられた先は、清正の部屋。だめだめ、乙女が夜に、男の人の部屋に入るなんて、と内心思ったが、清正は伊万里を円座に座らせると、
「ほら、飲め」
と酒を差し出した。伊万里は、酒が弱い。付き合いで、ビール一杯くらいは飲まぬことはないが、それだけで顔は真っ赤になる。
「いい。俺は、まだ仕事がある」
と固辞したが、
「いいや、嘘だな。お前は、俺と飲みたくないだけなのだ。この際だ、佐吉。腹を割って、話そうではないか」
と、三成を嫌っているかのようであった清正が、離さない。
あまりにもしつこいので、この時代の酒は現代のものよりも弱いと聞くし、まぁ少しくらいなら、と伊万里は、つい器に手を伸ばした。
「いや、俺はな、佐吉。お前は、よくやっていると思っている。しかしな、お前の無愛想さが、いけない。損をしているのだ、お前は」
と、暫く飲み続け、ほろ酔いになった清正が言った。
「なんでも、そつなくこなす。だから、お前は、人が馬鹿に見えて、仕方がないのだろう。しかしな、小さな生き物にも、大きな魂が宿るという。だから、あまり、人につらく当たってくれるな」
と、清正は伊万里の手を取った。
「まこと、貴様は女のような手をしている。なんだ、この肌は」
と、女の手を撫でるような手付きで、おどけてみせた。
「な、佐吉。お互い、幼き頃から見知った仲ではないか。俺は、俺なりに、お前に、上手くやってほしいと、思っているのだぞ」
伊万里は、ずっと
「ーぶな」
その形のよい唇が、僅かに動いた。
「なに?」
と清正は、身を乗り出して聞く。その胸ぐらを、伊万里はいきなり掴んだ。
「その名で、呼ぶな、馬鹿」
清正は、とっさに、まずい、と思った。彼はまだ若いながら歴戦の強者である。その勘が、危険を察知した。
「悪かった、三成」
清正は、佐吉と通称で呼ばれたことに腹を立てたのだと思い、慌てて言い直した。
「その名で、呼ぶな、馬鹿たれめ」
伊万里の眼は、完全に据わっている。
「お前、酔ったか」
清正の知る佐吉は、多少の酒では酔わぬ。いつも、適当に過ごし、涼しい顔をしていたものである。しかし、今夜はどうだ。ひどく酔い、怒気を発しているではないか。
「く、くるしい、三成。では、なんと呼べばいい」
「馬鹿野郎。あたしの名は、伊万里春菜だ!」
強烈な平手打ちが、清正の頬に炸裂した。
「い、いまり?何を言っているんだ」
「おう、いまちゃんと呼びな。どいつもこいつも、秀吉、秀吉、三成、三成。マジうぜーよ」
「なにを言っているんだ」
ぐいと、伊万里の顔が清正に近づき、酒臭い息がかかった。
「わたしはね、真面目で成績優秀な、いい子だったの。警察官になって、悪い奴を懲らしめて、街を平和にしたかったの。それが、なによ。毎日毎日、あのチンケな金貸しの捜査ばっかり。こっちに来たら来たで、戦?ふざけんじゃないわよ」
「お、おちつけ」
清正は、目を白黒させている。
「てめぇ、清正」
「はい」
「わたしの名を、呼んでみろ」
「い、いまちゃん」
「そうだ、それでいい」
「てめぇ、清正」
「はい」
「臭ぇわ。もっと、風呂入れ」
「風呂」
この時代の風呂とは、現代で言う蒸し風呂のようなものである。
「帰りたい」
伊万里は、ぽろぽろ泣き出した。
「帰りたいよう、清正」
清正は、何故か、ひどくどきどきした。
「お、おい。大事ないか、いまちゃん。俺に出来ることがあれば、する」
伊万里は、そのまま、清正の胸ぐらから手を離し、机に突っ伏した。
「おい、寝るな、馬鹿」
三成の酒癖が、こんなに悪かったとは。と清正は溜め息をついた。それに反応し、伊万里はまた顔を上げる。
「正則を呼べ」
と、
「正則を」
「お前ら、わたしが望んで、お前らと口をきかないんだと思ってるだろう。その根性、叩き直してやる」
「ま、正則を呼んでくる」
清正はどたどたと正則を呼びに行った。正則も、伊万里や清正と同じく、城の敷地内にある屋敷には帰らず、まだ自室に残っていた。
清正の救援要請を受け、正則も清正の部屋に駆け付けた。
再び、部屋に入ると、伊万里はまた机に突っ伏して眠っていた。
「この通り、様子がおかしい。自分の名前はいまり、とか、好きで俺たちに冷たくするわけではない、とか、あとはわけのわからぬことばかり」
「偏屈者が、ついに、おかしくなったか」
正則は、眠る伊万里を見て、笑った。
「部屋まで運ぶか、清正?」
「いや、これでも、殿の片腕として、家中にある佐吉だ。酔い潰れ、運ばれたとなると、他の者の眼がよくない」
「清正、おまえ、優しいな」
「もののふたるもの、優しきことが、まず第一」
「では、どうする」
「このまま、ここに寝かせるしかあるまい。奥に運ぶから、手伝え」
「応よ」
二人で、伊万里の身体に手をかける。清正は胴体に、正則は脚に手をかける。
むにゅり。
清正の手に、あるか無きかの、伊万里の胸の感触が伝わった。それが、はじめ胸の感触とは分からなかったが、はてと思い、懐を改めてみると、
「わっ」
と、清正は手を離し、飛び下がる。
伊万里の頭が、床に、ごん、と当たった。
「なんじゃ、清正。大きな声を出しおって」
「ま、まさのり」
「なんじゃ」
「こいつ、女じゃ」
「はぁ!?」
正則もはだけた衣服の中を覗き込んでみると、なるほど、その肌は絹のように白く、滑らかそうであり、紛れもなく女であった。晒しで巻いた胸は、ごく少量、ほんのわずか、微かに、さり気無く、昼寝の夢ほどの存在感でもって、膨らんでいる。
「ば、馬鹿な。こいつ、女だったのか」
「どういうことか、分からん」
「女であるのを、今まで、隠していたのか」
「そうなのだろう、正則」
「ど、どうする、清正。殿は、ご存じなのだろうか」
「思い返してみろ。いつも、夜、佐吉は殿の寝所で、何かを遅くまで話している」
「あぁ」
正則は、ぺたりと座り込んだ。
「そういうことか」
「あまり、多くは言わぬが吉、だな」
「そうだな」
「それに」
はだけたままの着物を、清正は、肌に触れぬよう、そっと直してやった。
「なにか、わけがあるのだろう。女であることを隠し、生きてきたわけが。それを、こやつが我らに知らせようとせぬ以上、我らは、知らぬ振りをしておいてやるものだ」
「お、応」
「さ、運ぼう」
などと余裕と度量の広さを見せた清正であったが、翌朝早く伊万里が激しい頭痛と共に、昨日この部屋に連れられてからの記憶を失っていることに気付き、清正に何かされたのではと思ったが、着物は乱れていないし、清正は執務を行う隣の部屋の隅で
第二章 戦って候 完
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