小牧、長くて候 3
渋谷は、頭を抱えた。恒興の手前、あんなことを言ったが、この戦を終わらせることなど、出来るのか。互いに血みどろになるまで戦い、どちらかが倒れるまで、止められぬ喧嘩。これは、そういう性質のものではないか。それを、すっぱりと、止めるためには。
出てきたはいいが、閉じこもっていては物笑いの種になる。と官兵衛にも言われた。恒興も、彼が連れてきた、同じく元織田家臣の
強襲軍である。官兵衛が指定した、戦略的に重要な要地である城を、一気に落とす。恒興らは意気込んでいるようだったが、渋谷は念を押した。
「いいな、恒興。やるからには、一発で決めろ」
「心得えましてござる」
秀吉の甥で、羽柴秀次という若者がいる。なんの変哲もない、ごく普通の若者だったが、その普通さを、渋谷は気に入っていた。いつもにこにことしていて、彼もまた秀吉のことが好きなようで、甥という間柄ながらあまり接点がないのを寂しがり、たまに秀吉が何か言うと、決まって大きな声で、「はい!」と返事をするのだ。それを、目付のような形で、付けた。彼ならば、無理はせぬし、まともな判断が出来るだろうと思った。本当は、官兵衛を付けたかったのだが、官兵衛は足が悪いため、前線の指揮は出来ない。
「私は、殿のおそばに居て、全体のことを見ていなければなりませぬゆえ」
と本人も言うものだから、渋谷も無理強いはできない。
「秀次。くれぐれも、頼んだぞ」
と、渋谷は、可愛い顔をした秀次の両肩に手を置いた。秀次は、
「はい!」
と元気に返事をし、かちゃかちゃと鎧の
池田恒興、森長可らの隊と同数くらいの兵を連れ、秀次は、それらを支援する名目で出た。
それを、家康は早くも察知していた。この時代、中国の軍学が浸透していて、戦いにおける情報の有用性は誰もが知るところとなっていた。たとえば織田信長が桶狭間・田楽狭間で今川義元を討ったとき、彼が一番評価したのは、今川義元を直接討ち取った者ではなく、そこに今川義元がいるという情報をもたらした者だった。そんな風に、戦いをするにはまず敵の兵力とこちらの兵力を分析し、配置から見える敵の意図を汲み、そこから心理を分析し、行動を読んで、こちらの動きを決めるものであるが、家安ほど、情報好きの者は少ない。このときも、忍び、密偵などをはじめ、地元の農民などからも、しきりに情報を集めていた。だから、彼らは、恒興らが強襲軍として進発したことを、すぐ知った。知るのが早ければ早いほど、打てる手は多くなる。
家康は、待った。城を落とせば、秀吉本隊が、そこへ本陣を進めてくる。強襲軍は、そこに留まり、本隊を待つのだ。つまり、強襲軍が、その役割を終え、ただ本隊を待つ人の集まりになるのを、待ったのだ。
軍とは、勢いに乗れば、強い。しかし、勝てば、必ずその気は緩む。火のついたように攻め立てる池田・森勢は、あっという間に城を落としたが、落とすと、皆緊張と恐怖から解放され、城の中で休息をはじめた。
その城が落ちるか落ちぬかくらいの頃、城の後方に展開し、支援隊としての役割を果たす秀次軍も、皆兜を脱ぎ、休息していた。
そこへ、情報に触れてすぐ進発し、迂回してきた徳川軍が、襲いかかった。
池田・森勢は、城攻めの仕上げの段階だから、そのことに気付かないし、気付いても、引き返せば挟み撃ちになるだけだ。この時代らしく碁で例えたいところだが分かりにくいのでリバーシゲームに例えると、強襲軍の支援隊である秀次という石をひっくり返すことで、池田・森勢をもひっくり返すことになる。そうなれば、目の前一面、敵の色の石しかなくなった秀吉は、退くしかないのだ。家康は、戦が上手い。あとは、家康に有利な条件をもって講和をすれば、今後、秀吉にでかい顔をさせず、家康は東海、関東のことに専念できるようになる。
「なんだと」
渋谷は、その報せを受け、でかい声で驚いた。官兵衛は、両手を組み、その上に顎を置き、黙っている。
「秀次は、秀次は、大丈夫なのか」
「はっ。秀次様、供廻りの馬に乗り、辛くも
ただし、秀次隊は、壊滅した。八千ほどもいた人間のうちの多くが、一晩で、この世から消えたのだ。
「そらみろ、官兵衛」
渋谷は、ぼろぼろと涙を流し、言った。
「だから、戦なんか、するもんじゃねぇだろうが」
官兵衛は、答えない。ただ、瞑目している。
「殿。この戦、負けまする」
その眼が開いたとき、官兵衛は静かにそう言った。
「今ごろ、池田、森は異変に気付き、後退を始めていることでしょう」
「ほんとうか」
渋谷の顔が、ぱっと明るくなった。
「しかし、彼らのその動きも、家康は予見しています。彼らを、家康が、逃がすはずはない」
「馬鹿、それじゃ、あいつらも、やられちまうじゃねぇか」
「致し方なし」
「お前、それでも人間か。人が、死ぬんだぞ」
「天下は、未だ至らず。産むには、苦しみが伴うもの」
「見捨てろってのか」
「いかにも」
「駄目だ。あいつらを、助けに行く」
「殿」
と立ち上がったのは、清正だった。
「ここは、堪えられませ。殿が出て、万一のことがあれば、どうするのです。家康は、あわよくば殿を引きずり出そうとしているのが、お分かりになりませぬか。それこそ、奴の思うつぼ」
渋谷は、拳を握りしめた。
実際、家康は、秀吉本隊が出てきても対応できるほどの構えで、出てきていた。自ら兵を率い、得意の野戦で、文字通りの駆け引きをする。それだけの構えで出ているから、池田・森の数千の軍勢とは、駆け引きにもならなかった。彼らは、わずか二時間ほどで家康軍に揉み潰された。
その報せも、渋谷は受けた。
「ぼ、ぼろ負けじゃねぇか」
官兵衛は、また何も言わない。
「どうすんだ、官兵衛」
閉じたままの眼を、官兵衛は開いた。
「退きます。これ以上続けても、無駄なこと」
「退いて、大丈夫か」
「家康は、本気で、殿を潰しにかかっています」
官兵衛は、当たり前のような顔をして、言った。それが、渋谷は小面憎くなった。
そのとき、官兵衛の言うことを証明するように、大坂の伊万里、いや三成から、急報がもたらされた。
紀州の土豪が、秀吉の留守を狙い挙兵、大坂に向け進軍しているという。
「家康は、殿を快く思わぬ者を手懐け、あるいは背後をつき、あるいは留守を狙いに来ます。ここは、一度、大坂に戻るのがよろしかろう」
渋谷は額から、冷や汗を流した。これが、戦。自分など、逆立ちをしても家康には勝てぬではないか。
いかに、戦いの悲しさを説いても、それが通じぬ相手がいる限り、戦いは起きる。
それで、この数日、何人の兵を失った。
彼らは、渋谷の理想のために、命を落としたのだ。
壊滅状態にあるという前線から、報せが来た。
「森長可殿、お討ち死に」
「池田恒興殿、お討ち死に」
渋谷は、つい二日三日前、仲間になった、あのいい奴そうな恒興の顔を思い浮かべた。口をぽかんと空けて、渋谷の言うことを聞いていた。仲間だと言ってやると、嬉しそうにしていた。
それが、死んだという。渋谷が、誘えと言った、森長可と共に。
秀次も、自分の家来の多くを失い、命からがら、こちらに逃げてきているだろう。
これが、戦。
「あいつ、死んじまったのか」
渋谷は、自分に、悲しみが沸いてこないのを、不思議に思った。どうして、悲しくないのだろうと、必死で考えた。
考えても、何も分からなかった。自分を殺そうとしに来る者が、すぐそこまで、迫っているのだ。
ふと、思った。自分がここで踏み留まって、死んでしまえば、伊万里は、どんな顔をするだろう。
きっと、また馬鹿と罵られるに違いないが、その声を聞くことは、自分は出来ぬのだ。
茶々を、誰が守るというのだ。
寧は。
そう思ったとき、渋谷は、立ち上がった。
「官兵衛」
「はっ」
「退く。支度しろ」
「御意」
官兵衛は、右足を重そうにして、床机から立ち上がった。
「
と、待たせていた伊万里からの使者に、官兵衛はそう言った。
「二月?どういうつもりだ、官兵衛」
ここまで来るのに、六日であった。それが、二ヶ月もかけて帰るとは、どういうことであろうか。
「殿は、敗けて帰るわけではない。戦略のため、帰るのです」
「よし、任せていいか」
渋谷は、指揮を官兵衛に任せた。
秀吉軍はその後、大坂には直行せず、美濃に入り、二つの城を同時に囲み、水攻めにして降伏させた。その指揮を、官兵衛が取った。
敵の降伏が見えたとき、ようやく、そこに手勢を残し、本軍は大坂へ向かうこととなった。
「なんで、こんなことを?」
と渋谷は官兵衛に問うた。
「ここを押さえておけば、家康は小牧に釘付けになります。また、伊勢にも睨みがきく。どうせ退くならー」
官兵衛の額の痣が、歪んだ。
「こちらに利のある、
こいつ、笑っていやがる。渋谷は、官兵衛が怖くなった。あれほどの大負けを喫し、逃げてきた秀次などは泣きじゃくり、自分の不甲斐なさを責め、腹を切ると言い出し、渋谷も泣きながらそれを止めたりもした。
この二ヶ月、清正も、正則も、皆、いっぱいいっぱいで、大坂を救いにいくことだけを考えていた。
その中、この男だけは、別のことを考えているように見えた。まるで、この先のことを、知っているかのように。
ちょうど、官兵衛の指定した、二ヶ月後の末。六月の末になって、渋谷はようやく大坂に帰った。
「伊万里!」
鎧も脱がず、渋谷はでかい声で伊万里の部屋の襖を乱暴に開いた。
「遅くなった。すまねぇ」
「馬鹿。こっちは、大変だったのよ」
「すまねぇ」
「馬鹿。あんた、ほんとうに、秀吉になるつもり」
伊万里は、もっと怒るかと思っていたが、意外に大人しかった。
「伊万里」
「渋谷」
伊万里の眼から、涙がこぼれた。
「馬鹿、なんで泣くんだよ」
「渋谷。助けて」
「どうしたってんだ」
「怖い」
「怖い?」
伊万里は、ぎゅっと自分の着物の裾を握りしめ、涙をその上にぽとぽと
「泣くな、伊万里」
渋谷の手が、濡れた伊万里の手に、重なった。
「大丈夫だ。俺が、なんとかする」
「馬鹿、あんたが、一番頼りないのよ」
「そうだな、すまん」
「でも、ありがと」
伊万里は、涙を流したまま、渋谷と眼を合わせた。
「帰って、きてくれて」
「伊万里」
渋谷の眼も、伊万里をじっと見つめている。
「お前、可愛いな」
「馬鹿、そんなこと言ってる暇があれば、この状況を、なんとかしなさいよ!」
伊万里の怒鳴り声に追いたてられるようにして、渋谷は部屋を出た。
いつもの伊万里に戻ったようで、まずはひと安心だ。
しかし、戦は、泥沼化しつつある。こりゃ、長引くぞ。と渋谷は思った。
「考えろ。この戦を、終わらせるにはー」
戦装束を解き、自室で一人、考えた。
考えろ。どうすればいい。
考えろ。
「あれ、そもそも、なんで俺と家康は、戦ってんだ?」
ふと、疑問に思った。
「あ、そうか。
戦いの始まりは、もう遠い過去のように思える。それほど、このところの体験は、悲惨で、悲しく、濃かった。
「あ」
渋谷の頭の上に、電球が光った。
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