小牧、長くて候 2
やはり織田の臣で、
渋谷らが尾張に入り、陣を敷いたときには、既にその緒戦が終わってしまった後であった。恫喝し、懲らしめるだけのつもりが、彼らによって、戦いは進んでしまったのである。
「官兵衛、どうすんだ。始まっちまってるじゃねぇか」
と、渋谷は陣の中、たいそうな金色の鎧を身に纏い、泣き声で言った。
「やるしか、ありますまい」
「戦をか。やだよ、俺は」
「殿。ここでやらねば、それこそ、秀吉頼むに足らず、と天下の笑い者になりますぞ」
「マジかよ、それは、困る」
「さすれば、あちこちで、殿に叛く者があらわれます。再び、戦いが戦いを呼び、血で血を洗う世に、逆戻りですぞ」
「勘弁してくれよ」
「それを避けるため、いっときの痛みは、ご辛抱めされませ」
渋谷は、しゅんとしてしまった。伊万里は、大坂に残り、秀吉不在の間の内政にかかりきりになっている。頼りは、官兵衛のみである。
投げ出して、大坂に帰りたかったが、しぶしぶ、その言に従った。
両軍は、小牧城をめぐり、対峙。その秀吉の陣に、池田恒興が、やってきた。
「筑前守殿」
と、ぱっと見、四十代くらいに見える恒興は、官名で渋谷を呼ぶ。兜だけを脱いだ軍装でどかりと砂の上に座ると、両拳を地面につけ、いかにもこの時代の人といった仕草で頭を下げる。
「筑前守殿の露払いと思い、兵を立てはしましたが、この度、まことに見苦しきこととなりー」
それを、渋谷が遮った。
「お前さ、戦がしてぇの?」
いつもと違う調子の声。官兵衛も、清正ら幕僚も、いっせいに渋谷の方を見た。
「露払いだか何だか知らねぇけどよ。困るんだよ。勝手に戦なんて始めやがってよ」
渋谷は、怒っているのか。恒興は、蒼白な顔になり、冷や汗を流しだした。
「織田のさ、なんだっけ。
「もはや、信雄様は、頼むに値せず」
「だから、それが駄目なんだよ。頼りないから、戦。気にいらないから、戦。腹が立つから、戦。お前のやってることは、そういうことだぜ」
「ーはっ。ごもっとも」
「ごもっとも、じゃねえ。お前の兵だって、大勢死んだんだろうが。誰が、死んで喜ぶ。誰が、死にたがる。そんな奴、この世に、一人もいやしねえ!」
いつも、あっけらかんと笑っている渋谷が、こちらに来てからはじめて怒りを表した。
「お前ら、どうかしてるぜ」
声を落ち着け、立ち上がった。そのまま、恒興の方へ、歩いてゆく。
「なぁ、池田さんよ」
金貸しの頃のように、渋谷は恒興のそばにしゃがみ込み、鎧の可動域の許す限り、ヤンキー座りをしてみせた。
「あんたさ、槍振り回すしか、能ないの?」
恒興は、返す言葉もない。不安と腹立たしさと恐れが同時に来た。その感情が、彼に言葉を紡がせた。
「お言葉ながら。筑前守殿は、ほかに、どうする術があったと、お思いか」
渋谷は、立ち上がった。立ち上がって、ぱっと、笑う。
「簡単さ」
陽光が、
「金だよ」
「かね?」
「結局、人は、金だ。金のある奴は、人を集められる。人が集まれば、強くなる。強くなれば、簡単に、手出しは出来ん。いいか。戦なんてな、金を使うばっかりで、ちっとも増えねぇ」
「金を、増やす?」
「この世の金が、全部俺んとこ集まれば、おめぇ、どうなると思う」
恒興は、だんだん眼がチカチカしてきた。渋谷の金色に光る鎧を、瞬きもせず見上げているからだ。
「わかりませぬ」
「全員、俺の味方になる。みんな、金のあるところに、集まる」
「ち、筑前守殿は、金の力で、世を治めようと?」
「あぁ。槍振り回すより、よっぽどマトモだぜ」
恒興は、言葉が上手く出ないらしい。はっ、はっ、とわけのわからぬ音を、口から漏らしている。
「いいか。戦は、しない方がいい」
渋谷の言う理屈は、かつて恒興が聞いたことのないものであった。
「だって、皆、可哀想じゃねぇか」
と言うのである。
「わ、私は、どのようにすれば」
「まぁ、始めちまったもんは、仕方ねぇ。見てな。俺が、上手く収めてやるからよ」
渋谷はにかっと笑い、
「なにか、手立てが、おありなのか」
恒興の声は、震えている。
「ねぇ」
と、渋谷は断言する。
「だけど、どうにかするしか、ねぇ。大丈夫、俺には、最強の軍師と、めちゃくちゃ強い仲間が、いっぱい付いてんだ。なぁ、官兵衛、清正」
と、脇にいる者どもを見て、へらへら笑った。
「身に余るお言葉」
官兵衛は小さくそう言い、頭を下げ。
「殿のおわす所、この清正ある限り、
と清正が胸を張る。
「殿、この正則を、お忘れなく」
と、喧嘩っ早い正則が立ち上がり、声を張り上げる。
「なかま?」
恒興は、その言葉を知らない。
「あぁ、ともがらのことだよ」
と、渋谷は言い直してやった。それも、恒興の度肝を抜いた。家臣を、ともがらなどと言う主が、どこにいるのだ。なにか、仲間という言葉が、この天下に存在しなかった、きらびやかで、新たな価値観を持っているように思えた。その仲間に、なりたいと思った。
「な。池田さんよ。こいつらが、何とかしてくれる」
恒興は、ほんとうに戦慄した。このような男、今まで見たことがない。今まで、織田の臣として、秀吉のことを見知ってはいた。しかし、彼の知っている秀吉とは、これほどまでに大きく、野放図で、そして汚れがなく、優しかったか。まるで、別人を見ているような気持ちに、恒興はなった。
「この恒興、筑前守殿の軍陣の端に、是非加えて頂きたく」
無意識に、そう言っていた。それほどの吸引力を、彼の目の前でへらへら笑っている金色の鎧を着た猿は持っていた。
「あれ、もともと、俺はそのつもりだったけど。あともう一人の、森さんだっけ?あの人も、誘っといてよ、池田さん」
「承知。それがしのことは、どうか、恒興、とお呼び捨てなされませ」
「おう、いいぜ、恒興。じゃあ、俺のことも、秀吉って呼べ」
「それは、出来ませぬ」
「なんで。お前、俺の先輩だったんだろ?仲間なんだし、いいじゃん。気さくにいこうぜ、恒興」
先輩という言葉が、恒興には分からない。秀吉がへらへらと笑っているので、つい、彼も釣り込まれて笑った。仲間と、秀吉に呼ばれた。それだけで、飛び上がりたいほど、嬉しい気持ちになった。
そのとき、気付いた。
この男は、天下を取る。
金の力で。
いや、金の力は、ただの後ろ楯。
天下は、この男の存在そのものを、欲していると。
彼のそばにいる者全員が、そう信じている。彼の言う通り、それが、この天下に生きる者全ての、共通の思いとなれば。
この天下は、一つになる。
天下は、彼の仲間になるのだ。
戦いも、なくなる。
皆が、彼のように、へらへらと笑って、暮らすのだ。
あたらしい世界を、たとえば冬の朝、雨戸の隙間からちらりと見える雪景色のように、垣間見たような気がした。
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