話して候
渋谷風に言えば、マジかよといったところか。結局、帰る術など一切見つからぬまま、天正十二年になった。もう、こちらに来て、九か月になる。
伊万里は、石田三成として仕事をする一方、伊万里春菜として、現代に帰る術をまだ諦めずに探し続けている。
去年の暮れ、渋谷とちょっとだけ腹を割って話し、伊万里の迷いと孤独は、ちょっとだけ和らいだ。もともと、活発で行動的な女である。こうなれば、単純である。
年明けの忙しさは、もう落ち着いた。伊万里は、また通常の仕事に戻り、そろばんを弾いている。
余談だがそろばんとは、その発祥についてはよく分かっていないが、バビロニアなどで砂に絵を書き計算をしていたことに端を発するとも言われ、歴史は非常に古い。この頃既に中国からもたらされ、日本にあった。漢字で算盤と書くが、その中国語の発音である、スヮンパンというものが訛り、そろばんと言うに至ったらしい。それを弾きながら、秀吉統治下の地域からもたらされる収入と、馬鹿で浪費家の秀吉の行う支出を計算するのだ。小さい頃、そろばんを習っていて、よかったと伊万里は痛感した。両親が教育熱心で、ほかにピアノなども長く習わされた。ほとんどの習い事については大人になってから役に立ったのか立っていないのか伊万里はまだそれを実感するに至っていないが、そろばんだけは、やっていてよかった、と今痛切に伊万里は思うのだった。
その、ぱちぱちという音に、襖が引かれる音が混じった。眼を上げると、官兵衛だった。
「いかがなされた、官兵衛殿」
と、伊万里は石田三成の声で言った。官兵衛とは、同じタイムスリップしてきた者同士でありながら、距離を置いている。
「すっかり、石田三成だな」
と官兵衛は小さく言い、部屋に入ってきた。
「何か、用?」
と、こんどは伊万里の声で言う。
「そろばんか」
「ええ。殿が戦支度をしろしろ、ってうるさいから」
「難儀なことだ」
「あなたが、焚き付けたの?」
伊万里の眼が、じろりと官兵衛を見据えた。官兵衛は、それには答えず、右足を引きずり、室内に入ってきた。この大坂城とはたいへん豪華な造りになっているが、伊万里の部屋だけは、田舎の山城のように、床は板敷き、高価な調度なども一切ない。
こちらでの生活など、ほんのかりそめ。伊万里のそのスタンスが表れている。人間関係においても、そうだ。ほんものの加藤清正や福島正則などと直じかに話すことが出来るのは大変光栄に思うが、お互い人間である。合う、合わぬはどうしてもある。それで発生した溝を、わざわざ埋めようと思わぬのは、こちらの世界に思い入れが薄いからである。この伊万里の部屋を見回して、官兵衛は、その話題を持ち出してきた。
「もう少し、他の者と、打ち解けた方がよいな」
「大きな、お世話よ」
と、伊万里は相手にしない。好きと思えば好き、嫌いと思えば徹底的に嫌いという性格である。官兵衛のことも、信用出来ない。あれほど、伝記やドラマなどで憧れていたが、この官兵衛は、ただの根暗な、嫌な奴である。官兵衛自身、それほど伊万里に嫌われるようなことをしたり、言ったりはしていないのだが、伊万里は官兵衛を、頭の中がどうなっているのか、得体の知れぬものであると思い、警戒しているのだ。官兵衛と秀吉の辿る未来を知っているだけに、余計に、その不安は大きくなる。
どうも、官兵衛は、歴史を忠実になぞろうとしているふしがある。自らが、黒田官兵衛であることに酔い、彼の足跡をなぞることが、目的になっているのか。
「お前は、もう少し、素直になるべきだ」
その官兵衛が、独特の仕草で伊万里の前に座り、言った。伊万里は、そろばんを弾くのをやめない。
「俺の話を、聞かないか」
「あなたとは、殿の天下をどう治めるか、という話だけでいいわ」
「そう、突っ張るな。まぁ、聞け」
官兵衛は、勝手に話し始めた。
「俺がお前達を信用せぬのは、お前たちが、歴史を壊すかもしれぬと思っていたからだ」
伊万里の目が、ぎょろりと官兵衛の額の痣を見た。
「帰る方法が、知りたいだろう」
その痣は、官兵衛が話すと、生き物のように、動く。
「織田信長と明智光秀の話を、覚えているか」
伊万里のそろばんが、止まった。
「それが、どうしたの」
「あの二人も、時の転移者であった」
「聞いたわ。でも、二人とも、死んでしまったじゃない。わたしたちがここに来る、ずっと前に」
「違うな」
官兵衛の痣が、また動いた。
「あの二人は、互いに、時の転移者であることを、知り合っていた。おそらく、もともと知り人であったのであろう。お前と、秀吉のようにな」
「どういうこと」
「織田信長は、本能寺で死に、明智光秀は、山崎の戦いで敗れ、逃れるうち、土民の手にかかり、死んだ」
「知ってるわ」
「彼らは、死んだ」
伊万里が、机を強く叩いた。
「あなたの話し方、いちいち、ムカつくわね。何が言いたいのよ」
「あの二人は、死んだわけではない。いや、死んだ。だが、あの二人は、帰ったのだ」
「帰った?もと居た時代に?」
「俺は、信長に気に入られていてな」
「知ってるわ」
信長が官兵衛をたいそう気にいっていて、じきじきに太刀を授かったりするほどで、その官兵衛が、摂津荒木村重の反乱に加担したかもしれぬということになった。気にいった者が裏切ったことで信長の怒りは一層激しく、官兵衛の子を殺すよう命じたのであるが、秀吉の機転でその子は密かに匿われ、官兵衛救出後、疑いが晴れたあと、心から詫びた、などという話は有名である。
「牢から救い出された俺を見て、信長は、すぐに俺が転移者であることを見破った。無理もない、牢から出された日が、俺がこちらに来た初日であったのだから」
「あなたが、わたしや渋谷が転移者であることをすぐに見破ったように、ね」
官兵衛の痣が、少し上下した。笑ったのだ。
「ここは滋賀県か、は駄目だろう。お前も、興奮し過ぎだ」
「しょうがないじゃない」
と、伊万里はふくれっ面を作った。
「その信長は、俺がいた時代、つまり千九百九十年代だが—」
「あなた、九十年代の人?」
「そうだ。お前は、違うのか」
「わたしたちは、二千十年代から、ここに来たわ」
「そうか。まぁ、それはどうでもいい」
伊万里の頬が、また膨れた。
「信長と光秀は、もっと未来から来た。彼らは、帰る方法を、知っていたのだ。彼らの時代には、転移時の帰還方法が、あるという」
「それを、彼らは、実行したのね」
伊万里は、察した。つまり、歴史の穴埋めとして送り込まれてきた者は、その役割を忠実に全うし、その者として死ぬことで、返してもらえるということだろう。
「それを、どうして、今になって、わたしに?」
官兵衛は、伊万里の顔を、じっと見た。
「お前が、俺の好みのタイプだからだ」
「はぁ!?」
「勝気なところが、いい。頭も、悪くない。ちょっと、胸は小さすぎるが」
「馬鹿にしないで!」
伊万里の平手打ちが、真顔のままの官兵衛の頬に炸裂した。
「まぁ、それは冗談として」
官兵衛は、頬を抑えながら、話を続けた。
「あの男は、あまりにも、秀吉だ。お前も、知らずのうちに、石田三成になっている。この分だと、お前たちが、歴史を乱すことは、無さそうだ」
「歴史を乱せば、どうなるの」
官兵衛は、またじっと伊万里を見た。ちょっと、伊万里はたじろいだ。見た目はそう悪くないのだが、この性格だから、男子にはモテぬ人生であった。いきなり、好みのタイプだと言われて、伊万里の純情は揺らいでいる。その乙女心は、官兵衛の一言により、霧散した。
「消される」
「消される?」
「ああ、そのあと、その者がどうなるのかは、分からん。強制送還されるのか、あるいは、時間の闇の中を、さまよい続けるのか」
「なにそれ、怖いんですけど」
「だから、忠告しに来た」
「親切なことね」
「好みのタイプの女が一人、この世から消滅するかも知れぬのだ。忠告もしたくなる」
「なんか、だんだん、あなたのキャラが掴めなくなってきたわ」
「だから、このあとすぐ起こる、小牧長久手の戦いを、止めようとは思うな。お前は、石田三成として、秀吉の徳川征伐を続けろ」
「負けちゃうじゃない」
「仕方あるまい。歴史が、そうなっているのだから」
「あなた、渋谷に、戦をさせるつもり?」
「無論だ」
「そんなの、駄目よ」
「お前、俺の話を、聞いていなかったのか」
「聞いていたわ。でも、戦なんて駄目。おおぜい、人が死ぬわ」
「お前がどうしようと、歴史は動かぬ。お前と、あの男が、消えるだけだ」
伊万里の眼が、机の木の木目をなぞっている。それが、ぱっと上がり、
「役目を全うして、ちゃんと帰れるという保証も、ないわ。あなた、自分でそれを経験したの?帰ったあとの信長や光秀と、メールでもしてるの?ええと、あなたの時代なら、ポケベルかしら」
「
官兵衛は、訂正した。
「そう言われてみれば、確かに、信長の言ったことを実証する手立ては、ないな」
「そうよ。あなた、案外、抜けてるわね」
「仕方あるまい」
と、天下最高の軍師とも言われる官兵衛は言う。
「それが、俺が
「あっそ。べつに、邪魔はしないわ。だけど、そうなれば、わたし、関ヶ原の戦いまで、帰れないじゃない」
「仕方あるまい」
「まさか、天下の黒田官兵衛が、運命、なんて言うんじゃないでしょうね。嫌よ、わたし。帰るとき、四十代だなんて。浦島太郎じゃない」
「浦島太郎も、もしかしたら、転移者であったのかもな」
「そんなこと、どうでもいいわ。あなたの忠告は、有難く受け取っておく」
官兵衛は、また右足を庇いながら、立ち上がった。その姿を見上げ、伊万里は重ねた。
「だけど、いい。邪魔はしないで。わたしたちは、わたしたちの思うように、させてもらう」
官兵衛の痣は、動かない。
「あなたが、根拠のない希望を信じたがっているのは、分かるわ。目覚めたとき、別人になっていて、その人の生をなぞって生きなければいけないなんて、馬鹿げてる。お互い、苦労は尽きないわね。だけど、わたしは、あなたとは違う。あなたみたいに、諦めてなんかいないもの。あなたは、黒田官兵衛に、負けてるわ。見ていなさい。わたしたちは、わたしたちのやり方で、必ず、もとの時代に戻ってみせる」
伊万里が、息をすべて吐き切るまで続けた言葉が終わるのを待って、官兵衛は痣を動かした。
「やってみるがいい。俺の邪魔をするならば、全力で、潰すまでだ」
と言い、その痣を歪めた。
「望むところよ」
伊万里は、怖い顔のまま、背を向けた官兵衛に、言い放った。
「せっかく、可愛い顔をして生まれたんだ。石田三成のような嫌われ者の男として生きなければならぬこと、同情する」
「馬ー鹿!」
伊万里は、考えつく限りで最も変な顔をし、その背を見送った。
なんと、腹立たしいことか。やっぱり、官兵衛は、嫌な奴。そう思いながら、伊万里は、調度も何もない部屋の中、たった一つの女のたしなみである鏡に自らの顔を映し、眉間に皺が寄っていることに気付き、あわててにっこり笑顔を作った。
「うん、やっぱり、わたし、可愛いわ」
ちょっと横を向いてみたり、上を向いてみたり。
「大丈夫。がんばれ、春奈」
そう、自分に言い聞かせてみた。
「自分で言うか。めでたい奴だ」
僅かに開いた襖から、色の悪い官兵衛の顔が、覗いていた。
「乙女の部屋を覗くな、馬鹿!早く、行け!」
顔を真っ赤にする伊万里をじっと見ながら、官兵衛は、無言で、襖をそっと閉めた。
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