ちょっと、素直になって候
天正十一年、大阪城、いや、大坂城が、出来た。渋谷は、さっそくいそいそと引っ越しをし、寒空の中に息を白く漂わせながら、暮れも迫った十一月には本拠地を大坂城に移した。
渋谷には、目標が出来ていた。秀吉が天下統一をしたというならば、自分もそれをし、この世から、争いを無くすというのである。無論、帰れるならばその事業は、ほんとうの秀吉にバトンタッチをして、さっさと帰りたい思いはある。しかし、茶々やその妹、家臣で、知り人が戦で死んだという者を見るのは、どうもやり切れない。
軍師として官兵衛の意見をよく聞き、民政については歴史に詳しい伊万里や、あらたにタイムスリップしてきた者であることが分かった利休などに頼った。伊万里には、利休がタイムスリップしてきた者であることを伝えたから、寧と合わせて、よく話すようになっている。
知らずの間に、利休も、秀吉の幕僚になっている。この頃になると、伊万里は、渋谷や自分が何をしようが、歴史は、流れる方にしか流れぬのではないか、と思うようになっていた。
どのみち、それを実証する術がないのだから、確かめようがない。しかし、気になって仕様がない。思い切って、官兵衛に相談してみようかとも思ったが、やめた。
なんとなく、官兵衛は、帰りたい、という思いが薄く、黒田官兵衛として生きようとしているような気がしてならないからだ。
そんな伊万里の心労も知らず、渋谷は、あっけらかんと、
「おい、佐吉」
と馬鹿面を向けてくる。
「大坂城を建てたところだから、今、蓄えは少ないか」
「はっ。少々、少のうございますが、あらたに上がった佐渡の金山もございまする」
と、三成と正式に名を改めた佐吉、いや伊万里は、完璧な三成っぷりで言った。
「たとえば、十万人に戦支度をさせ、それで一斉に関東に向かうような金はあるか」
伊万里は、渋谷の顔色を確かめた。戦を、しようというのか。しかし、渋谷はいつものように笑っていた。
「ないことも、ありませぬが、それをして尚、力を余そうと思うだけの蓄えが戻るには、金山からの上がりも合わせ、まだあと
伊万里は、戸惑いながら、事実を答えた。
「ふふ、そうか」
渋谷は、官兵衛と眼を合わせ、含み笑いをした。伊万里は、嫌な予感がした。今年、天正十一年。来年の春、何があるかを、彼女は知っているのだ。
「殿」
と、あぐらをかき、両拳をつく姿勢のまま言った。
「戦を、なさるおつもりですか」
渋谷は、笑った。
「戦には、しねぇよ」
「戦には、しない」
伊万里が、顔を上げた。
「ただ、ビビらせてやるんだ。家康の野郎を。有名人だから、放っておくと、怖いだろ。だから、俺の力をちょっとだけチラつかせて、ビビらせてやるんだよ。歯向かえば、てめぇ、分かってんだろうな、ってな」
考え方が、チンピラである。それで、のちに三百年近く続く幕府を立てる徳川家康が、ビビるものか。
伊万里は、察した、官兵衛に、何か吹き込まれている。渋谷は馬鹿だから、官兵衛が、戦をせぬため、戦をする振りをするのです、とでも言えば、簡単にその案を採用するだろう。
「殿、お考え直しを」
と言うと、渋谷はまぁまぁ、と言い、
「そういうことも、あるかもしれん、ということだ。そのつもりだけ、しておいてくれりゃいい。頼むぜ」
と笑い、手をひらひらさせた。下がれ、ということだ。
自室に戻ってから、伊万里は、一人で座って考えた。
寧に、打ち明けようかとも思ったが、なんとなく、そんな気分にもなれなかった。
渋谷の、馬鹿。そのことばかりが、頭の中でぐるぐると回る。渋谷は、すっかり、秀吉になってしまっているではないか。なにが、戦だ。これほど大きな大坂城の天守に君臨すれば、馬鹿の渋谷のことだ、付け上がるに決まっている。
戦国時代というのは、忙しい。ましてや、羽柴秀吉、石田三成ともなれば、なおのこと。渋谷が秀吉になればなるほど、伊万里は孤独を感じる。その孤独と忙しさは苛立ちに代わり、つい、渋谷を取り巻く加藤虎之助あらため清正や、福島市松あらため正則などが事あるごとに突っかかってくるのにも、つい無視をしたり嫌味を言ったりしてしまう。
伊万里は、自分がどんどん石田三成になっていくのが、怖いのだ。その恐怖を理解し、寄り添ってくれるはずの者は、恐怖を受け入れ、馬鹿みたいに笑っている。
寧のことを考えたら、会いたくなってきた。そう思ったとき、
「佐吉」
と、室外から声がかかった。三成と正式に名を改めても、渋谷と寧だけは、佐吉といまだに彼女を呼ぶ。
「どうぞ」
と伊万里は、石田三成の声で答えた。
「伊万里」
寧は、室内に、他に誰もおらぬのを確認してから、そう呼び直した。
「めずらしい菓子じゃ。利休が、堺衆が届けてくれたと、持ってきてくれた。どうじゃ、食わんか」
「あ、おいしそう」
この時代にしては珍しい、砂糖菓子のようなものである。砂糖というもの自体、高級品である。十八世紀ごろにならないと、サトウキビの栽培は日本では行われない。それまでは、糖蜜という液状のものか、このように加工品として、あるいは原料のまま輸入をするしかなかった。
やはり、女子には、スイーツか。一つつまんで、口に入れると、それが軽やかに溶けて、伊万里の口の中に、甘味の宇宙を展開するのだ。その宇宙を、惜しみながら飲み込めば、鼻腔に甘味が抜けてゆく。
「おいしい」
伊万里の顔は、ぱっと明るくなった。
「茶々様にも、さっき、持って行ったところだぎゃ」
「茶々に?」
「たーんと、食べてちょーよ、と言うたら、ちょっと嬉しそうにしていなさった。ええことじゃ、ええことじゃ」
寧は、眼を細めて笑った。寧の生年については諸説あり、よく分からない。だが、こうして実際の寧を見ていると、若く見える。上に見ても、三十代の半ばくらいであろうか。それが、眼をくしゃっと細めて笑うと、とても天下に手を伸ばさんとする羽柴秀吉の妻とは思えぬほど可愛らしく、伊万里は気持ちがほぐれる。
「そう、茶々も、渋谷に気を許しているのね」
「おや、伊万里は、気にいらんかえ?」
「そんなこと、ない」
「女同士じゃ、正直に言うてちょーよ」
「ほんとに、アイツが何をしてようが、わたしには、関係ないんだから」
つい、声を荒げた。
「なんじゃ、どうした」
その声を聞きとがめて、襖が勢いよく開いたから、伊万里はびっくりした。顔を覗かせたのは、清正だった。
「かか様が入って行ったから何かと思うたら、今の声はどうしたことだ、三成」
伊万里は、うつむいた。
「かか様、大事ありませぬか」
「うん、心配にゃあよ、虎之助。ちょっと、内向き(国内)のことで、佐吉に聞きたいことがあったんじゃ」
そう言われれば、清正も引き下がらざるを得ない。
「かか様を、困らせるなよ、三成」
じろりと伊万里を見て、言い捨てると、清正は襖を閉めた。
寧が、笑いを噛み殺している。
「あぶなかったなも、あぶなかったなも」
伊万里は、苦笑いをしながら、砂糖菓子をまた、ひとつ口に入れた。
とても、甘い。現代なら、コンビニに行けば、もっと甘くて美味しいものが、簡単に手に入る。それが、こんなにも貴重で、美味しいと感じるとは。
鼻に抜けたはずの甘さが、ほろりと、眼から溢れた。伊万里の短い下が唇についたそれを舐めると、塩辛かった。
「伊万里?」
寧が、心配そうに伊万里の顔を覗き込む。
「あれ」
伊万里は、どんどん自分の眼から、涙がこぼれてゆくのを知った。
「なんで」
砂糖菓子よりも、甘い香りが、伊万里を包んだ。
「心配にゃーわ、伊万里。泣かんでちょ。きっと、帰れるだなも」
寧は、子供をあやすような口調で、伊万里を慰める。寧もまた、ある日突然最愛の夫が消え、戻ってきたのは別人で、とてつもない不安と孤独の中にいるはずである。それでも、寧は、伊万里に優しい。歴史の教科書に、そんなことは書かれていなかった。だが、寧とは、可愛くて、甘い香りがして、とても心優しい人間であることを、伊万里は知っている。
知っていることが、また悲しい。何事もなく、寧を伝記や映画、ドラマの中だけ人物だと思っていた頃には、戻れぬのだ。
「寧さん、寧さん」
伊万里は、その柔らかな温もりに、顔を埋めた。
「寧さん、ごめんなさい」
寧は、泣いて熱くなった伊万里の背に、そっと手を置いた。
「謝らんでちょ。伊万里は、なーんも悪くにゃーよ」
「ううん、駄目。もう、わたしたち、きっと、戻れないの。寧さんの秀吉も、帰ってこないわ」
「しっかりしてちょーよ。諦めたら、終わりだで」
「諦めたら、終わり」
「そ。諦めたら、終わりだで。おみゃあさん、石田三成として、生きていくつもりかえ?」
「そんなの、嫌」
「じゃ、諦めんことだで。必ず、道はある」
「道って、どんな」
「そりゃ、おみゃあさんが、見つけるんじゃ」
道。なにをしても、予め決められているように思う。それを、ただなぞるだけの道。
そうではない道も、あるというのか。伊万里は、既に起きた歴史という道を歩かされながら、今を刻んでいるという、特異な状態にある。とすれば、彼女は、紙一重、その道から宙に浮いた状態にあるのかもしれぬ。
宙に浮いているのであれば、もしかしたら、その気になれば、空でも飛べるかもしれぬ。
伊万里はよく、渋谷のことを馬鹿とか単細胞とか言うが、彼女も人のことを言えぬかもしれぬ。
孤独に押し潰されそうになるのを、他人は助けてはくれぬ。
であるなら、自分で行動するしかない。
ぱっと、伊万里は顔を上げた。
「寧さん、ありがとう。わたし、行くわ」
寧は、広げた菓子包みをそっとしまうと、にっこりと笑った。
そのまま、足音大きく、伊万里は、真新しい匂いのする廊下を歩いた。含みのありそうな、官兵衛の真意を確かめに?いや、協力的であるという利休の助言を乞いに?
伊万里の足は、そのどちらでもない部屋の前で、止まった。
「渋谷!」
勢いよく襖を開ければ、そこには寝巻きに着替えた渋谷が、眼を丸くして伊万里を見ていた。
「今日という今日は、許さないんだから!」
「おい、なんだ、ちょっと待て」
伊万里は、渋谷に掴みかかった。
「なんなんだよ、急に。どうしちまったんだ」
「あんた、いい加減にしなさいよ!」
伊万里の身体が密着するから、渋谷は眼を白黒させている。
「おい、やめろ、伊万里、馬鹿、離せ」
渋谷が、力を込めたから、伊万里の体勢が崩れ、渋谷が伊万里の上にのしかかるようになった。
「変態!」
伊万里の、強烈な平手打ち。
「お前、マジかよ。自分で襲いかかってきて、こりゃねぇよ。それでも、
伊万里が、驚いたような顔をした。
「忘れて、なかったの」
「お前、また泣いてたろ」
伊万里の顔に影を作りながら、渋谷は言った。
「泣き虫。すぐ、泣くんだからよ」
「気付いてたの」
伊万里が、人知れず孤独に涙を流していることを。
「馬鹿。朝、目ぇボンボンに腫らして、おはようござる、とか言われたら、笑いそうでヤバいんだぜ」
「渋谷、やめて」
それ以上言えば。その続きも、言うのをやめた。
「大丈夫。帰ろう。なんとかなるさ。でもな、俺は、ここも、悪くないって思っちまってる。秀吉として、生きてみたい。そんな気分にも、時々なる」
伊万里の顔が、また不安に翳った。
「でも、俺は金貸し。お前は
渋谷は、考え付く限り、いいことを言ったつもりだった。伊万里の眼が、また潤んでいる。その眼がぱちりと瞬き、
「渋谷」
と言った。渋谷は、不覚にも、伊万里を可愛いと思ってしまった。次の言葉を、つい待った。
「重い。いつまで、乗っかってんのよ」
伊万里の眉間に、皺が寄った。
「どけ、馬鹿」
渋谷は、内心舌打ちをして、身をどけた。
「ほら、さっさと寝ろ。明日、眼ぇ腫らして俺の前、出てくんなよ、バカ」
「わかってるわよ、馬鹿」
伊万里は、ここに何をしにきたのか分からぬまま、襖に手をかけた。
直接、顔を見て言うのは恥ずかしいから、襖の方を見ながら、背中だけで、
「ありがと」
と言った。しかし、その精一杯の可愛げは、
「あーあ!煙草吸いてぇなぁ畜生!」
という渋谷の馬鹿でかい声にかき消され、伊万里はまたムラムラと腹を立てるのであった。
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