確信して候
渋谷は、わけのわからぬまま、背もたれの無い椅子のようなものに座らされた。側には、伊万里が、スーツ姿のまま、呆然と立ち尽くしている。
「いや、しかし、殿。美濃からの大返しは、流石に辛うございましたな」
加藤と名乗った若い男が、隣で大きな声を上げる。先ほど、獣のような臭いがすると思ったのは、この男からだった。
「しかし、殿。上様のことがあって以来、
何のことを言っているのか、分からない。
「ねぇ、加藤さん」
伊万里が、加藤に言った。
「ここ、どこ?」
加藤の顔色が、見る見る変わった。
「佐吉。貴様、阿呆か。今の今まで、美濃から馬を走らせ、ここまで来たところではないか」
「だから、ここ、どこなのよ」
「馬鹿な。賤ケ岳に決まっておろう」
「しず、がたけ?」
伊万里は、口をぱくぱくさせた。
「おい、伊万里、しずがたけって、何だよ」
「滋賀県ね」
「はぁ?馬鹿か、お前」
法螺貝が、一層強く吹き鳴らされる。陣太鼓の音が、腹に響く。兵らの喚声が、うるさい。
「殿。さぁ、お下知を」
「げち?」
「命令のことよ」
伊万里が囁く。
「命令って、何の」
渋谷は、おろおろしながら、加藤の顔色を窺った。加藤は、にんまりと笑い、さあ、と言った。
「おい、虎之助だったな。げちって、どうするんだよ」
「まったく、お戯れが過ぎますぞ。打って出よ、と仰せあれ」
渋谷は、辺りを見回した。兵隊が、眼をらんらんと輝かせ、渋谷の顔を見ている。下知とやらを、待っているのだ。
立ち上がる。
手に持った、重い
「打って出る!」
渋谷の声は、大きい。それは、何万もいるであろう兵の、隅々にまで届いた。
兵らが、また一斉に声を上げ、駆け出してゆく。馬に乗った者も多くいて、それらも、槍を振りかざし、駆けてゆく。
それが済んで、渋谷の周りは、静かになった。
「さて。あとは、待つのみですな。柴田方も、我らがここまで早く戻るとは、思いますまい」
加藤も、どかりと背もたれのない椅子に腰かけた。
「おい、伊万里、お前の言う通り、ほんとうにタイムスリップなんてことは、ないよな」
「まさか。と言いたいところだけど」
「勘弁してくれ。明日が、上納金の入金日なんだよ。殺されちまうぜ」
「あ、その話、詳しく聞かせなさい」
「おっと、口が滑った。なんでもねぇ」
「なんでもねぇ、じゃない。話しなさい」
「馬鹿、それよりも、ここが滋賀県なんだったら、どうやって戻るんだよ」
「米原から、新幹線?」
伊万里が、苦笑いをした。
「時間を、越えてかよ」
「ほんとうに、戦国時代なのかしら」
「信じられない」
「タイムスリップじゃなきゃ、夢ね、これは」
二人の会話を、じっと聞いている影がある。その気配に渋谷が気付き、そちらを見た。
篝火の、ちょうど影になっているところに、その男はいた。
「殿」
と、その影が言った。何故か、足を引きずるようにして、影は進み出てきた。光に照らされると、それは影ではなくなり、人間の姿になった。顔の右半分に、大きな
「今日の戦果も夢のまた夢、ゆめゆめ、油断なさいますな」
聴いているだけで、陰鬱な気分になる。伊万里が、その男を見て、また口をぱくぱくさせた。
「どうした、佐吉、鯉のような顔をして」
男が、言った。
「あなた、もしかして、黒田官兵衛さん?」
「なにを、今更」
「やっぱり!その痣!その足!すごいわ、シブタニ!この人、黒田官兵衛よ!」
「誰だよ、それ」
「あなた、ほんとうに何も知らないのね。黒田官兵衛なんて、超有名人じゃない」
伊万里は、興奮している。
「ちょっと、黒田さん、握手してください!ファンなんです!」
「握手とは?不安?何を言っているのだ、佐吉」
ぷいと横を向いてしまった。
「えーと、黒田だっけ?ここって、しずがたけ、なの?」
渋谷が、おそるおそる、黒田に話しかけた。
「いかにも、賤ケ岳砦でございます」
「滋賀県なの?」
黒田は、眉を潜めた。
「殿の仰ることが、分かりません」
伊万里が、慌てて訂正する。
「近江の国の、賤ケ岳ですよね?」
「当たり前だろう」
黒田は、ため息をついた。
「ねぇ、たぶん、ほんとうに、タイムスリップしたのよ」
「そんな、馬鹿な。お前、本気か?」
「ああ、夢みたい!ずっと、憧れていたの!」
伊万里は、少女のように眼を輝かせ、立ち上がると、陣の中を駆けて、見て回った。
「済まん、黒田さん。ちょっと、うるさい奴なんだ」
「黒田とは、また妙な呼び方ですな」
「あれ、じゃあ、なんて呼べばいい」
「いつものように、官兵衛、と」
「じゃあ、官兵衛」
「殿」
「その殿、ってのは何なんだよ」
「殿は、殿でございます。この官兵衛が殿と呼ぶのは、この世に殿しかおられませぬ」
「はぁ、そうかい」
「殿。先ほどから、佐吉ともども、様子が面妖ですな。いかがなされたか」
「いや、その、どう言えばいいかな」
黒田の眼が、測るように、渋谷を見ている。なんとなく、嫌な目だった。
「たいむすりっぷとは?しがけんとは?それに、佐吉のあの着物」
「いや、その、なんでもないんだ」
もし、ここが本当に戦国時代なのであれば、現代人であるということは、知られぬ方がよいであろう。
あちこちを駆け回っていた伊万里が、戻ってくる。
「すごいわ、渋谷。これ、ほんとうに戦国時代よ」
「静かにしてろ」
黒田が、怪訝な眼で、伊万里を見ている。
「佐吉。お前、どうしたというのだ」
「佐吉、ってわたしのこと?さっきの、加藤さんもそう言っていたけど」
「お前以外に、佐吉がいるか、阿呆」
「佐吉、佐吉、どこかで聞いたような。それに、加藤虎之助って—」
伊万里の頭上の豆電球が、光った。黒田と同じく怪訝な顔で見ている、加藤の方を振り返る。
「もしかして、あなた、加藤清正!?すごい!」
「いや、
「虎之助は、幼名でしょ!?清正公だわ、すごいわ!」
「貴様、俺が元服せぬのを、からかうか。お前だって、まだ前髪の、石田佐吉ではないか」
「いしだ、さきち」
伊万里の顔が、こんどは見る見る青ざめてゆく。
「石田佐吉に、加藤虎之助に、黒田官兵衛。それに、賤ケ岳」
二、三歩、後ずさった。
「渋谷。たいへんなことに、なったみたい」
「なんだよ、伊万里」
「わたし、石田三成に、なったらしいわ」
「はあ?」
さすがに、石田三成くらいは、渋谷も聞いたことがある。
「じゃあ、俺は」
「決まってるじゃない」
青ざめたままの伊万里の顔が、渋谷の方を向いた。
「黒田官兵衛や加藤清正が殿って呼ぶってことは」
渋谷の後ろ、篝に照らされた、金色の瓢箪の飾りを、伊万里は見上げた。
「あなた、豊臣秀吉なのよ」
青ざめた伊万里の顔に、薄笑いが浮かんでいる。
「阿呆。殿の姓は、羽柴であろうが。なんじゃ、豊臣とは」
加藤が、腕を組み、ため息をつく。
「虎之助。佐吉は、おそらく、大返しの疲れが出ているのだ。そっとしておいてやれ」
「ふん、普段、ろくに馬の稽古もせぬからだ。だらしない」
加藤は、そっぽを向いた。
「ちょっと待て、豊臣秀吉って、あの豊臣秀吉かよ」
渋谷は、伊万里に耳打ちをした。
「そうよ、何故か、皆、わたしが石田三成で、あなたを豊臣秀吉だと思っているのよ」
「そんな、馬鹿な」
眼が覚めてから、馬鹿なことばかり起きる。夢なら、さっさと覚めてほしい。タイムスリップなら、早く現代に帰りたい。しかし、そのどちらも、叶える方法が分からない。このまま、この時代で、豊臣秀吉として生きていくなんて、御免だと思った。思った瞬間、
「御免!」
と、兵が駆け込んできた。
「茂山の前田隊、退く模様」
と叫ぶ。
「よし、来たな」
黒田が、呟いた。
「殿。これで、佐久間の士気は下がり、さらにお味方有利となりましょう」
「ああ、そうか」
渋谷は、曖昧に、笑った。
「やはり、殿の仰った通り、前田殿は、旧交ある殿と刃を交えることは、出来ぬようですな」
「はは、そう、なのかな」
「いや、この官兵衛、感服致した」
「それほどでも」
「その方、急ぎ戻り、茂山の抑えに回っていた隊も、佐久間にぶつけるよう伝えよ」
官兵衛が言うと、駆けこんできた兵は、大声で復唱し、また駆け去っていった。
もう、眠くて眠くてどうしようもないが、翌朝を迎え、更に昼まで、眠ることは許されなかった。
兵が、また駆け戻って来る。
「お味方勝利。柴田殿、北ノ庄へ向け、退いてございます」
「よし!」
加藤が、机を乱暴に叩いた。
「殿!やりましたな!」
「ああ、へへへ」
伊万里はすっかり戦国気分のようだが、渋谷は、このとき、まだ疑っていた。まさか、タイムスリップなど、ほんとうにあるはずがないのだ。
しかし、更に日が動き、傾き始める頃になって見た光景は、渋谷の疑いを、確信に変えるに十分なものだった。
夥しい兵が、戻ってくる。ある者は血を流し、ある者は歩けず担がれ、うめき声を上げている。
陣の中に、漂っていた緑の匂いが、一気に、血の臭いに変わった。
「おい、官兵衛、大丈夫かよ。皆、怪我してるじゃねぇか」
「なにを仰います。これしきの損害、軽いものでございましょう」
渋谷は、また曖昧に笑い、背もたれのない椅子に、腰かけた。
「伊万里」
「渋谷」
「こりゃ、どうも、ほんとうに、戦国時代だな」
「そう、みたいね」
「どうやって、帰るんだよ」
「知らない」
「もしかして」
「帰れない?」
二人の声が、重なった。
「えー!」
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