金、貸して候

増黒 豊

第一章 タイムスリップして候

落ちて候

 渋谷は、薄ら禿げの頭を垂れて、正座している男の財布から現金を抜き取ると、空になった財布を男に投げつけた。

「てめぇ、借りた金返さないって、どういう了見してやがんだ」

 男は、殴られると思っているのか、震えている。

「殴らねぇよ。殴ったら、てめぇ、その足で警察署駆け込むんだろうが」

「いえ、決して、そんなことは」

「いいか、返済期限は、過ぎてんだ。借りたモノは、返す。そう親に教えられなかったのか」

「あと一日、あと一日だけ」

「明日なら、残りを返せるのかよ」

「はい、多分」

「てめぇ、今すぐ殴られてぇらしいな」

「ごめんなさい」

「よし、じゃあ、家族んとこ行こう。てめぇがキャバクラのミナとかいう女に入れ込んで、借金作ってるって言って、お前の嫁の親からでも取り立てるわ」

 男が、渋谷の足にすがり付いた。

「それだけは、ご勘弁を」

 足にすがり付く腕を引き剥がし、渋谷は歩き出した。

「やめてくれ!」

 男の叫びは、助けを呼んだ。

「どうしましたか!?」

 人気のない裏路地を駆けてくるのは、女。

「ちっ、伊万里いまり。おい、松崎、明日、お前の家まで行くからな。警察に被害届なんて出してみやがれ。どうなるか、分かってんだろうな」

 捨て台詞を残し、渋谷は駆け出した。


「大丈夫ですか。今の男に、何かされましたか」

 息を切らせて、伊万里は松崎と呼ばれた薄ら禿げの男に声をかけた。

「いえ、なんでも、ありません」

 松崎は、心底渋谷を怖がっているのか、肩を縮めて、何も言わない。

「安心して、わたし、警察よ」

 伊万里が、警察手帳を見せる。それで松崎は少し安心した顔を見せたが、警察と聞いて、より一層、口を固くした。

「わたし、あの男を、追っているの。刑事になって、はじめてのホシなのよ。情報が、欲しいの」

 松崎は、苦笑いをしながら、首を傾げるばかりであった。

「もう。なんなの。あいつに金を借りて、違法な利息を請求されて、違法な取立てを受けているって、言えばいいのに」

「それを言えば、俺、あの人に、殺されちゃう」

「脅迫されているのね。許せない。さ、行きましょ」

「行くって、刑事さん。どこに」

「決まってるじゃない、警察よ」

 若い伊万里に手を取られ、松崎はちょっと嬉しそうにしたところだったが、その手を慌てて振り払った。

「駄目です。あの人、俺の嫁に、全部言っちゃうって」

「あなた、被害者なのよ?警察に行って、被害届を出して、あいつを、捕まえるの。協力して」

「駄目です!」

 松崎も、逃げていってしまった。

「もうっ、ありえない!」

 東京は、坂と路地が多い。スカイツリーを見上げ、観光客や外国人で賑わうこの浅草の街も、ひとつ路地に入れば、渋谷のような男が、しばしば、うろついている。

 ちなみに、浅草に居ながらにして渋谷とは、妙なことであるが、渋谷は、シブヤではなくシブタニと訓ずる。そこは本人にとって大事なところらしく、シブヤと呼ぶと、とても怒る。


 その渋谷は、隅田公園まで駆けてきて、ベンチに座り、煙草に火をつけた。愛用の、マールボロ、メンソールライトである。お察しの通り、彼は、モグリの金貸し屋である。貸金業法に則らず、無届で営業をし、法外な利息を客からむしり取る、いわゆる闇金だ。

 そう言えば聴こえはよいが、実際のところ、闇金にも縄張りというものがあるらしく、ちょっとでもそれを侵そうものなら、すぐに怖い人が飛んできて、

「てめぇか、渋谷ってのは。誰に断って、人のシマでシノいでんだ」

 などと凄む。渋谷の営業している区域も、矢澤組という古くからある怖い人の組織の管轄で、そこに、毎月決まった額を納めなければ、すぐに事務所を潰されてしまうのだ。

 マールボロの煙と共に、渋谷は、ため息を冬空に吐き出した。

「生き辛い、世の中だぜ」

 格好を付けて、口に出してみたが、犬の散歩をする老人が一人、通り過ぎただけである。

 家に、金が無かった。父親は遊んでばかりで、稼ぎの殆どをすぐに使ってしまう。母はいつも苛々していて、年よりもずっと老けて見えた。せめて高校には進学したかったが、小学生の頃から荒れていた渋谷は受験にも失敗した。仕方なく、街の工場で働きだしたが、すぐに喧嘩をして辞めてしまった。次に働き出したのは造園業の会社で、そこでは上司や同僚に恵まれて、可愛がられた。

 しかし、客に、シブヤくん、と言われ、気を悪くし、態度が悪かったことにクレームが付き、上司と共に謝罪しに行かされた。そこで、客に散々悪態をつかれ、腹に据えかねていたところ、

「まぁ、おたくの会社には、父の代から世話になってるんだ。今回は、大目に見てやるよ、くん」

 と言われ、キレた。鼻が折れるほどにその客をタコ殴りにし、仕事をクビになり、あっさり逮捕され、傷害罪で二年食らった。

 出所した渋谷を待ち受けていたのは、犯罪者としての世間の、冷たい眼。

 何をするにも、金。

 金が、無かった。

 無ければ、作ればいい。そう教えてくれた、昔の悪いツレがいた。誘われるまま、そいつが怖い組織の使いっ走りのようなことをしていると知らず、貸金業を始めた。

 細かいいきさつは、どうでもいい。渋谷は、虚しいのだ。テレビで見るような、美化されたハードボイルドな世界ではない。義理も人情も仁義も何もない。ただ、金。怖い組織の人には脅され、警察には眼を付けられ、この先、どうすればいいのだ。


 十九のときにこの仕事を始めて、もう五年になる。渋谷は、二十四になっていた。近頃、あの伊万里という若い新人刑事が、やたらと追いかけてくる。ベテラン刑事は、もっと大物を追いかけたり、重大な事件を追うので忙しい。渋谷は、言わば、新人に押し付けられた、ハズレくじなのだ。

 あとあと、面倒なことになるから、客に暴力を振るったりは、しない。もともと、別に喧嘩が好きなわけでもない。もう、いい歳なのだ、と思っていた。いい加減落ち着きたいけれど、この世界が、彼に、落ち着く場所を与えない。そんな風に考えていた。

 もの思いに耽っていると、マールボロは、殆ど吸わないまま、灰になってしまった。

「勿体ねぇ」

 上着のポケットから携帯灰皿を取り出し、吸殻を入れる。ポイ捨ては、しない主義なのだ。無遠慮に茂った木の向こうに、汚れた池が、覗いている。

 いつ見ても、同じ光景だった。もうすぐ、日が暮れる。事務所には、使えない助手が一人。時間になれば、勝手に帰るだろう。もう、このまま、家に帰ることにした。隅田公園から、吾妻橋の方へ歩き、橋を渡った向こうに、渋谷の借りている安いアパートがある。隣の部屋には、毎日いきなりでかい声で神に祈りを捧げ出す外国人。上の階には、イケメンの大学生が住んでいて、日によって違う女の叫び声が聴こえてくる、うんざりするアパートが。


 肩を落とし、吾妻橋を渡る。アサヒのビルの屋上の、"金のうんこ"と小さい頃から呼んでいた謎のモニュメントは、今、工事中で、灰色の幕に覆われていた。

 それを背中にし、歩く。

「見つけた!」

 聴きなれた、嫌な声。ちょうど、腹の立つトーンなのだ。振り返ると、やはり、片方の手を腰に当て、片方の手で渋谷を指さす、伊万里。こういうポーズで、掃除をサボる男子を注意する、仕切り屋の女子が、小学校にも中学校にも、同じクラスに居た。黙っていれば悪くないのに、どうしてこの類の女は、渋谷を目の敵にするのか。

「おい、勘弁してくれよ。今日は、ブルーなんだ。俺は、何もしちゃいねぇ」

 両手を挙げる素振りをして、渋谷は、後ろに下がった。

「駄目。さっきのおじさんにも、お金、貸してるんでしょ」

「あいつ、ゲロったのか」

「いいえ。でも、必ず、被害届を出させてみせるわ」

「いいね。そんときゃ、弁護士に言って、松崎にその被害届、取り下げさせるわ」

「あなたって人は」

「おい、なんだよ」

 伊万里の態度は、いつになく強い。

「おい、どうした、伊万里。生理か」

 茶色に染めた短い髪を撫でながら、渋谷がからかった。腕を上げると、分厚いパーカーが、ゴワゴワする。

「違うわよ!大人しくしなさい、悪党!」

 伊万里が、突進してくる。腕を掴まれた。驚くほど、力が強い。

「おい、てめぇ、刑事が、市民に暴力かよ」

「うるさい。逮捕してやる」

「不当逮捕だぜ。あとあと、面倒になるぞ」

 橋の上で、もみ合った。

「おい、伊万里」

「なによ」

 息のかかるくらい、近い距離に、伊万里のぱっちりとした眼がある。正義の炎を、燃やした眼が。伊万里にすれば、渋谷は、不倶戴天の敵なのだ。

「お前、いい匂いすんな」

「馬鹿にしないで!」

 伊万里が、強く渋谷を押した。

「おい、馬鹿、やめろ」

 欄干に、押し付けられる。逃れようともがきながら、女に必要以上に強い力を出せぬ自分に、ため息をついた。ぶつけてくる身体は柔らかく、綺麗にカットしたセミロングの髪は細く、いい匂いがするのだ。どう考えても、守ってやらないといけない存在に、今、自分は襲われているのだ。

 それが、何だか、馬鹿馬鹿しくて、笑えてきた。どうして、こんな人生なんだろう。どうして、他の連中と同じように、普通に勉強して、普通に就職して、普通に生きていけないんだろう。

 新人の女刑事と揉み合いながら、馬鹿馬鹿しさは、悲しさに変わってきた。

「あなたみたいなクズがいる限り」

 伊万里の力が、より一層強くなる。

「なんだよ、俺みたいなクズがいる限り、何だよ」

 渋谷も、強く伊万里を押し返す。

「皆が、安心して暮らせないのよ!」

 渋谷の頭に、血が、かっと上った。

「俺だって、好きでこんな風に生きてるわけじゃねぇ!」

 伊万里が押してくる力を利用し、転ばせようとした。思いの他、伊万里は大きく体勢を崩し、欄干に腹をぶつけ、そのまま、それを越えてしまった。

「おい!」

 咄嗟に、その手を掴む。

「落ちんじゃねぇ!刑事を隅田川に落としちゃ、ムショ行きだろうが!」

「馬鹿、あんたはどのみち、ムショ行きよ!」

 伊万里が暴れたので、手が、滑った。

 落ちる。

 更に手を伸ばし、掴み直そうとする。

 身を乗り出した拍子に、誰かに、背中を押されたような気がした。

 伊万里の手を、再び掴んだ。

 掴んだまま、二人とも、落ちた。


 水の音は、聴こえない。伊万里の、馬鹿、という大声が、耳元で聴こえただけだ。

 視界が、暗くなってゆく。

 まさか、川に落ちただけで、死んだのかと疑ったが、そうではないらしい。

 川の水ではない何かの中を、浮かび上がる。

 まったく、ろくでもない人生だった。

 何故、自分に、他の人間と同じ機会が与えられなかったのか。

 それを、欲しがることくらい、許されてもいいはずなのに。



 眩しさで、眼が覚めた。

「殿」

 と、誰かの声がする。

「殿、いかがなされた。佐吉、起きよ」

 身体を、揺さぶられる。それがひどく不快で、渋谷は眼を開いた。

 眩しいと思ったのは、火の光だった。辺りは、暗い。どうやら、夜まで気を失っていたらしい。

「ああ、よかった。殿、一体、どこに行っておられたのです。こんなに、ずぶ濡れになって。それに、その着物。そんな妙なもの、いつの間に?」

 上体を起こしてみると、臭い。動物園のような臭いだ。

「なんだ、この臭い」

「臭い?ああ、馬の糞でございましょう。それが、どうかなさいましたか」

 若い男だ。この男も、臭い。

 それに、時代劇のような格好を、している。

「なんだ、てめぇ」

「お戯れを。さすが殿、このような陣中においても、愉快であられる」

「殿って」

「殿は、殿でござろう」

「なぁ」

「はっ」

「あんた、誰」

 男は、わざとらしいほどの仕草で、驚いてみせた。

「殿。まさか、この加藤虎之助を、お忘れか」

 と言うと、大きな声を上げて笑った。どうも、渋谷の言うことを、冗談だと思ったような風である。

「さ。お戻りを。皆、下知を待っておりますぞ」

 加藤と名乗った若い男は、伊万里の腹を蹴り、

「佐吉、いい加減、起きよ。なんじゃ、その妙な着物は」

 と言い、無理やり伊万里を起こした。伊万里は、眼を擦り、間近にある加藤の大きな顔を見定めると、叫び声を上げた。

「馬鹿。この虎之助の顔を見て、叫ぶ奴があるか。さ、殿をお連れして、陣に戻るのだ」

 それだけ言うと、さっさと立ち去ってしまった。


 渋谷と伊万里は、顔を見合わせた。

「なに、今の人」

「分からない」

「ちょっと。ここ、どこよ。真っ暗じゃない」

 隅田川に架かる、吾妻橋の上から、落ちたのだ。しかし、川も橋も、どこにも見当たらない。森の中のようである。それに、冬のはずなのに、蒸し暑い。

「なんか、ヤバそうだ」

「とりあえず、あの人の行った方へ、行ってみる?あの服、戦国時代みたいなしつらえだったけど」

「お、詳しいな」

「あら。これでも、歴女レキジョを自称しているのよ」

「へぇ、知らなかったな。映画の撮影か、何かかな」

「馬鹿ね。鈍感な主人公は、皆、決まって、そう言うのよ」

「何だよ、主人公って」

「これはね、タイムスリップよ」

 渋谷は、吹き出した。

「はぁ?馬鹿は、お前だろ」

「嘘よ。脅かしてみただけ。行きましょう」

 ずぶ濡れのまま、二人、加藤という男の歩いて行った方へ、歩いた。

 森の獣道けものみちが途切れ、不意に、視界が明るくなった。ちょっと眼を細め、すぐに慣れると、二人の眼の前には、あり得ぬ光景が、広がっていた。


 ずらりと並んだ、篝火。それに照らされる、整然と並んだ馬と、鎧兜よろいかぶとを身に付けた、武者。足軽というのだろうか、見るからに身分の低そうな、日焼けした兵隊も、槍をしごいている。

 何万人もの、人。エキストラにしては、多すぎる。

 また、渋谷と伊万里は、顔を見合わせた。

「なによ、これ」

 さきほどの加藤が、駆け寄ってきた。

「さ、殿、支度を。出陣の、刻限ですぞ」

 抱くようにして連れていかれ、どこからともなく現れた少年達が、渋谷に、鎧を着せた。


 法螺貝が、吹き鳴らされる。渋谷の青ざめた顔が、伊万里を見た。

「伊万里、これって」

 伊万里の顔も、蒼白になっている。

「ほんとに、戦国時代?」

「そんな、馬鹿な」

「馬鹿は、あんたよ!勘弁してちょうだい!」

 伊万里の叫びも、法螺貝と太鼓の音の前に、力なく掻き消えた。



 渋谷が、機会を求めたから、天が、機会を与えた?

 馬鹿な話だが、そんなことも、あるらしい。

 いや、こんな話、あってたまるものか。

 だから、これは、馬鹿な話。

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