第21話 人間卒業します

 会議スタッフルームで、エリカと小林、ポール、陽子が待ち構えていた。

「どうだった」

 桃子は無言で、首を横に振った。

「駄目でした。すみません」

「謝るのは、こっちの方です。ご苦労様でした」

 小林は立ち去ろうとした。

「私、諦めませんから」

「有難う」

 小林は出て行った。

「何か、良い案ないかなあ」

 エリカが思案気につぶやいた。

 早朝の事だった。

 スタッフ全員に緊急メールが受信された。

「イルカ発見。右Aブロック甲板」

 イルカとは、「平安」の符牒用語で、自殺しようとして、甲板から飛び降りようとする乗船客をさす。

 桃子は、平静さを装いながら、現場に急いだ。

 手すりの向こう側に森川が立っていた。

「森川さん、一体どうしたんですか。危ないから早くこっちへ」

「いい天気だねえ」

 手すりに足を挟んで、大きく伸びをした。

「危ないってばあ」

「冗談はそれくらいにして、早くこっちへ」

 緊急通報を受けて、平安は減速し始めたが、そんなに急にすぐに、船は止められない。

 桃子は、急いで、雅子と菊池にメールした。

「冗談で、こんな事しませんよ」

「何で、そんな事するんですか」

「もう、おしまいにしようと思ってね」

「だから、何故」

「私は歌舞伎役者として引退したんだ。もう私から歌舞伎を取ったら、何もないんだ」

「だったら、ずっと続けてたらよかったのに」

「この年老いた身体をさらけ出してか」

「そうです。死ぬまで歌舞伎を続けるんです」

「私はいやだねえ。他の人はどうだか知らないがね」

「どうして」

「もう老いる中での歌舞伎は、やりたくないんだ。疲れた、疲れたよ」

 その時だった。

「死なないで下さい、森川さん」

 聞きなれた声がした。

 一同が振り向く。

 そこに雅子が立っていた。

「雅子さん」

「私、ずっと森川さんのファンでした。東京歌舞伎座での引退興行も見に行きました」

「それは有難うございます」

 こんな状況なのに、森川は極めて冷静だった。

「田所パーティで見た踊りも圧巻でした。まだまだ踊れます。引退なんてもったいないです」

 一つ一つ言葉を選ぶように、たどたどしく雅子の口から、説得力のある言葉が出て来た。

「有難うございます」

「もう人生の幕を閉めるなんて、もったいなさ過ぎです」

「今まで散々、他人様の拍手で芝居の幕を閉めさせて貰った。でも自分の人生の幕引きは、自分自身でやりたいんだよ」

「引退で幕は閉まりました。でももう一度復帰されたらどうですか。ファンは待ってますよ」

 桃子は、張り裂ける気持ちを抑えて喋った。

「もう引退しましたから、復帰は無理です」

「そんなの関係ないです」

 ぴしゃりと桃子は切り返した。

 その鋭い反応に、甲板にいた一同は、ぴくっとした。

「私も、そう思います」

 今度は雅子が反応した。

「雅子さん、桃子さん、皆さん有難う。次は人間を卒業します。さようなら」

 皆の顔を見るため、左右にゆっくりと首を回した。

 にっこり微笑んで、ゆっくりと手を振り、そのまま後ろ向きでダイブした。

「ああああ!」

 甲板に悲鳴と怒号がさく裂し、交差した。

 皆叫んで、甲板の手すりに駈け寄る。

 すると下から、菊池がロープを持って這い上がって来たのが、視界に入った。

「菊池さん!」

「重い!早くロープ持って。でないと本当にあの人落ちちゃうよ」

 ロープの先に巨大な網があり、その中に森川は捕獲されていた。

 ゆっくりと森川は、引き揚げられた。

「イルカ、無事捕獲」

 瞬時に社内緊急メールが発信された。

 雅子は駈け寄って、泣き叫んだ。

「何故だ」

 森川は、菊池を見た。

「これが菊池マジックです」

「そうか、助かったのか。有難う菊池くん」

「もう一人、お礼を云う人がいます」

「どう云う事なんだ」

 不思議そうな眼差しを、森川はした。

「実は、あなたの飛び込みを察知した桃子さんは、私に何とかしろとメールで無茶ぶりして来ました」

「そうだったのか」

「リクエストに応えて下さいまして有難うございます」

 桃子は、率直に答えた。

「マジックで人を救ったのは、もちろん初めてです」

 少しはにかんで、菊池は返答した。

「私も舞台の上から、後ろ向きで飛び降りたのは、(大物浦)の碇知盛役で何度かやっているが、甲板から飛び降りたのは、初めてだよ」

 次に森川が言葉をつなぐ。

 一同から笑いが起き、そして拍手が始まった。

「本当によかった、よかった」

 雅子は、何度も森川の手を握りしめて、云った。

「雅子さん、あなた、そんな温かい言葉を人にかけられるんですねえ」

「はい。だって、五十年来の大ファンなんですから」

「雅子さんは、よく私の楽屋にも来て戴きました」

 森川が説明した。

「その温かい言葉を、今度は、ご主人にかけたらどうですか」

「いや、それはいやなの」

 急に醒めた顔に変化した雅子だった。

「おやおや、船旅で、夫婦喧嘩ですか。それはよくないですよ」

 雅子は、簡単に今の状況を森川に話した。

「話には聞いていたが、本当に離婚旅行するカップルがいるんだねえ。へーえー雅子さん、時代の先端を走ってるねえ」

 今度は感心する森川だった。





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