第20話 八方ふさがり
菊池は、目の前のガラスコップを右手に持った。
「では、この右手に持つコップを見て下さい」
桃子もエリカも、フィリピン人スタッフ一同もコップに注視した。
「何も入っていませんね」
「うん、入ってないよね」
菊池は、コップを逆さまにして、見せた。
何もない。
「では、よく見て下さい」
手のひらを被せて、少し揺らすと、下から小さな赤い薔薇が何本も生えるかの如く出て来た。
一同ざわめく。
拍手、口笛を鳴らす者もいた。
フィリピン人は、日本人から見ると、少しオーバーに見えるほど、感情を露出させた。
航海で、日頃、欧米人相手に接客をしているせいかもしれない。
「えええ、どう云う事」
「さっき、右手に注目して下さいと云った時、お二人とも右手ばかり見てましたね」
「当たり前じゃん」
口をとんがらせて、エリカが云った。
「じゃあその時、左手は見ましたか」
「いいえ」
「そう、そこです。実は、赤い薔薇は左手に持っていました。で、この薔薇触って下さい」
菊池は、桃子らにコップから出した、薔薇を手のひらに乗せた。
「何じゃこりゃ、紙で出来てる!」
「皆さんの頭の中には、薔薇=棘のある花として、記憶に刷り込まれています。その思い込みを突いたのが、今回のマジックです。左手に小さく畳んだ赤い薔薇を持ち、コップを左右持ち換えてやったのです」
「何だ、そんな単純な事だったんだ」
桃子もエリカも拍子抜けした声を出した。
「つまりマジックの大半は、言葉の誘導と錯覚を利用してるんです。もう一つやりましょうか。例えばこのサイコロですが」
菊池は胸ポケットから取り出す。
「皆さん、サイコロは固いものと云う固定観念がありますねえ。でもこのサイコロは、触ってみてください」
菊池は、桃子の手のひらを掴んで、サイコロを乗せる。
「触ってみて下さい」
「あああ!ふにゃふにゃだあ」
一同から笑いが漏れる。
「マジシャンに限らず、詐欺師もよく似た手口でだまくらかすんです」
「へええ、そうなの」
「お二人とも騙されないようにね」
にっこりとほほ笑んで、菊池は席を立ちあがった。
翌朝、小林問題の会議が開催された。
議題は、抜本的解決策だった。
「一人残らず、全てのお客様に最高のおもてなしをする」
これが、「平安」のポリシーでもあった。
会議は冒頭から行き詰まり、重苦しい雰囲気の中で始まった。
「誰か、いい案はないの」
進行役の陽子が苛立つ声で云った。
「とにかく、直接奥様と話をするのがいいと思います」
「それが出来ないから、会議してるのよ」
馬鹿にしたように、陽子は云い返す。
「出て来ないのなら、出て来るように仕向けたらいいと思います」
「鳴かぬなら、鳴かせてみせようホトトギスですか」
上岡がつぶやいた。
「だからどうやって」
「奥様の趣味は何ですか、小林さん」
特別参加の小林に、桃子は尋ねた。
「歌舞伎鑑賞です」
「わかった!じゃあ森川さんに部屋で踊って貰いましょう」
ぐっと胸を張って桃子が叫んだ。
「で、そのあとは」
「そのあとねえ」
「私の出る幕がないなあ」
ぽつりと小林がつぶやいた。
「残念ながら、そうですねえ」
結局、結論が出ないまま会議は終わった。
小林の荷物は、夜中、部屋の前に投げ捨てるように置いてあった。
小林の一人スペアルームでの滞在が続く。
「全部自分が悪いんです。今回、平安での離婚旅行で、もう一度やり直そうと思いました。でも出来ませんでした。皆さん有難うございました」
小林は立った。
「小林さん、まだ旅行は終わってません。諦めたら駄目です」
「ああ、でも実質終わりみたいなもんです」
「平安が、神戸港に着くまで、終わりじゃないです」
一人桃子だけが、意気軒昂だった。
雅子は、三度のご飯も部屋で取るようになった。
まだメインホールでの催事に出て来るようなら、スタッフがお声かけして、何とか解決の糸口を掴める事が出来るのだろうが、それさえ出来ない。
いたずらに日にちが過ぎて行く。
もうすぐ旅の終わり。
ラウンジもレストランも全体が穏やかな雰囲気に包まれた。
航海初日は、やはり初めての船旅を経験する人が多いと見えて、どこか張り詰めたものが、船全体を覆っていた。
「平安」の中で、幾つかの仲良しクラブが出来た。
そう云う人たちのフェイスブックも幾つか立ち上がった。
ポールにお願いして、食事のトレイを桃子が持って行く事にした。
「雅子さん、食事をお持ちしました」
無言で、ドアが少しだけ開く。
にゅっと手が伸びた。
桃子は、ぐいっとトレイを持ったまま部屋の中に入った。
「あんた、何してるの。ここは私の部屋よ」
「わかってます。少しだけ私の話を聞いて下さい」
「まさか、後ろにあいつがいるんじゃないでしょうねえ」
「いません」
「一分だけよ。話って何よ」
腕組みして仁王立ちした。
「楽しい船旅を演出するのが、平安の乗組員、そして私達スタッフの役目なんです」
「だから、どうしたいって云うの。早く結論を云いなさい」
「一度じっくりと小林さんと話されたらどうですか」
「話しても無駄。もう結論出てるから。夫婦のもめ事は、あんたらに関係ないから、もうほっておいて頂戴」
さらに桃子が話そうとしたが、
「さあお帰り下さい。一分経ちましたから」
「はあ」
これ以上逆らうと、また電話されて余計に話がややこしくなるから、ここはいったん退却した方がよいと、桃子は率直に引き下がった。
「あの男に云っておいて。私の大切な時間を返せってね」
「わかりました」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます