第10話 桃子と歌舞伎役者

 甲板に人が多く集まるのは、やはり昼間と、夕陽が沈む頃の時間帯である。

 視界に何も遮るものがなく、群青色の海と、真っ青な空、白い雲。

 見ているだけで、こころの中にも爽快な風が隅々まで通り抜けて、溜まっていた悩みや苦悩も一緒に掻き出し、そぎ落として行く。

 乗船客は、こころのどこかで、本能的にそれを知っているのかもしれない。

 甲板のデッキで最初は喋っていた人も、風と時として、鳥のさえずりで、はっとして、我に返り、無言になっていく。

 風で、髪の毛がもつれあがっても気にしているのは、最初だけで、時の経過とともに、自然の洗礼を身体全体で受け入れる事になる。

 陸地で見かける数倍の大きさの夕陽を演出する太陽に、人は時として畏怖の念さえ抱く。太陽は、神なのかもしれない。

 人は、一つの夕陽を見ている。

 しかし、それを見て思うこころ模様は、見ている人の数だけあるのだろう。

「きれいな夕陽ですね」

 桃子は、森川の背後から声をかけた。

「ああ、きみかあ」

 森川は振り返り、微笑んだ。

 甲板を吹き抜ける風が、乗船客の頬を、髪を、身体をくすぐり、通り抜けて行く。

 風のシャワーを浴びて、身体もこころも軽くなる。

 陸での風は、建物に遮られ、鈍化する。

 しかし船の上では、まさに海と並ぶ主役であり、生きてると痛感するようになった桃子だった。

「松山では、失礼しました」

「いいんだよ。ちょっとお茶しようか」

 森川は、桃子の返事を聞かずにすたすたと前に進んで行った。

 連れて行かれたのは、幾つかあるティールームの中でも一番高い所で、どの席からも夕陽が眺められた。

「今回、奥様は同行されなかったんですか」

 コーヒー二つを運んで来たウエイトレスが立ち去ったのを確認してから桃子が話し出した。

「本当は、一緒に来たかったが、私の方から断ったんだ」

「どうしてですか」

「家内は、私の歌舞伎役者としての引退を最後まで反対してたんだ。だから四六時中一緒の船旅だと、絶対に喧嘩してしまうだろうと思ってね」

 ぽつぽつと森川は話し出した。

 芸に行き詰まった事。

 最近は、舞台に情熱がなくなり、惰性でやっている自分に腹を立てていた事。

 もう一度、違う世界を見てみたいと思った事。

「でもねえ、家内は云ったんだよ。

(惰性でも何でもいいから、あなたは、舞台に出るべきだと。

 あなたの舞台出演を心待ちにしてるファン、後援会の皆様のためにも出るべきだとね。でも、私はもう我慢出来なかったんだ。自分自身にね。それに、自分に嘘つくをやめたんだ、自分の芸のためにね」

「何もそこまで追い詰めなくともいいじゃないですか」

 桃子は、今感じた事をそのまま口にした。

「きみは、家内と同じ事云うねえ」

 やれやれと云った感じの表情を森川は、顔に浮かべてから照れ笑いした。

「確かに私の周り、いや、芸能界全体に云える事だけど、皆がみんな、全員、必死で命を削る思いで芸事してるわけじゃない。そう、色んな人から云われて、引退を撤回しなさいと助言されたよ」

 東京歌舞伎座での二か月にわたる引退興行、続く名古屋御園座、京都南座、博多座でも大入り満員だった。

 興行元の竹松、歌舞伎役者協会の幹部も日参して留意に努めた。

 竹松は、引退興行を終えても、また復帰しても大丈夫とさえ云ってくれた。

 この世界は、不思議なもので、大物演歌歌手が「引退興行」と大々的に宣伝して、全国巡業をして、一年もしないうちに、

「私を、皆が呼んでいる」

 とわけのわからない理屈をこねて、すぐに復帰した。

「わかってるなら、なおさらでしょう」

「まあ、私の云う事を聞きなさい」

「はい。どうぞ」

 一口、コーヒーを飲んで、姿勢を正した。

「歌舞伎の切符は安くない。十二月の京都南座の顔見世なら、一等二万六千円だ。そして伝統芸能なんだ。これまで四百年にわたる多くの先人が努力を積み重ねて築き上げたものなんだ。だからこそ、中途半端な思いで、芝居をしたくなかったんだ」

「よく分かりました。で、これからどうするんですか」

「わからん。私は、今は蝉の抜け殻かもしれない」

「抜け殻って!」

「これまでの人生、全てを歌舞伎に捧げて来たんだ。それを捨てたんだから、抜け殻なんだよ」

「またあ、そうやって自分を追い詰める。駄目ですよ」

「芝居の神様も、今頃呆れているだろうよ。でもしつこいようだけども、覚悟のない役者は駄目だ」

 最後のフレーズは、吐き捨てるように云いのけた。

「芝居の神様は、知りませんが、船の神様っているの、知ってましたか」

「いや、初めて聞くなあ」

「ガエス様って云うんだそうです」

「へえ、初めて知りました」

「と云う私もつい先日同僚から聞いたばっかしです」

「じゃあ普段は、どこにお勤めなんですか」

「京都南座にいます」

「じゃあ私の引退興行で、お会いしてるかもしれないなあ」

「私、劇場の常駐者じゃないんです。その時は、外現場で、他の場所にいました」

「あそこは、いい劇場空間だねえ」

「役者の皆さん、よく云われます。私もそう思います」

 歌舞伎の発祥は、京都である。

 出雲阿国が、四条河原で、歌舞伎踊りを披露したのが始まりと云われている。

 四条大橋の袂、南座の楽屋口には、出雲阿国の銅像と記念碑がある。

 今の京都南座は、昭和四年に建てられ、平成二年、二十九年と二回にわたって改装されたが、基本的な外観、作りは昭和四年のままである。

「南座で、引退興行の舞台稽古の時、劇場の神様を見たんだ」

「皆さん、よく云われます。どんな格好でした?」

「普通の女。でも色が白くて別嬪だったなあ」

「それって、案内さんか、劇場関係者でしょう」

「かもしれないなあ」

 ここで二人は、顔を見合わせて笑った。








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